2017年もあっというまに2カ月が過ぎようとしています。年をとるごとに時間の経過は速く感じられ、「若者の○○離れ」といった言葉に賛同したりしなかったりしているうちに、自分がすでに若者ではないことに愕然としたりもします。しかし、目の前を過ぎていく時間を引き留め、緩やかにする方法はないではありません。
それは、長い時間をかけて醸成された「古典」に触れることです。古典には有意義な時間が凝縮されています。書き手や(これまでの)読者の思考や実践を、読書を通して追体験することで、人生の時間を何倍にもすることができると、古典新訳文庫の編集者としては思います。古典は「話題の書」のように急いで読む必要はありませんし、一生かけて読めばよいのです。
光文社古典新訳文庫には、「一生かけて読むべき本」がたくさんありますが、まさしくそんな時間の問題を描いた名作こそプルースト『失われた時を求めて』でしょう。とはいえ、この『失われた時を求めて』は途轍もなく長い作品であり、作品の海に飛び込む前に尻込みする人や、あるいは飛び込んだはよいが泳ぎ方がわからず戸惑う人もいるかもしれません。これは本国フランスでも同じことだそうです。そんなとき、『失われた時を求めて』を知りつくし溺愛する8人の専門家が、この作品の愉しみ方を一般読者に向けて紹介したのが、2月に単行本として刊行した『プルーストと過ごす夏』(コンパニョン、クリステヴァほか/國分俊宏訳)です。名作をより深く理解したいという読者の心情を反映してか、フランスではベストセラーとなりました。
『プルーストと過ごす夏』の編者ローラ・エル・マキは、本書「はじめに」の書き出しにおいて、『失われた時を求めて』という長大な作品と読者との関わりを、実に的確に、かつあたかも美味しい料理を食べた感想であるかのように魅惑的に述べています。
「不幸なのは、大病をするか足でも折らない限り、ふつうの人は『失われた時を求めて』を読む時間が持てないことだ」。マルセル・プルーストの弟、ロベール・プルーストはそう言いました。なるほど、その通りでしょう。しかし、彼は第三の可能性を忘れていました。夏休みです【1】。あの暑い日差しの下で、海辺で、あるいはプルーストにならって静かな自室に閉じこもって、本を読むことはこの上なく甘美です。時の流れが急に緩やかになり、広がり、掻き消えてしまう。そして、時間の流れも、まわりの世界も、もう何もかも存在しなくなる。あるのはただ、その手に持った『失われた時を求めて』だけ。
引用中の【1】の部分には訳者・國分俊宏さんによる訳注が、以下のようにつけられています。
1 フランスの労働者は一年間に五週間の休暇を取る権利があり、クリスマス休暇を別にして、夏休みは四週間ほど休むのがふつうである。
四週間の夏休み(!)を取るのは日本人には難しいかもしれませんが、正直言って、フランス人にしたところで四週間の休みのうちどれだけ「静かな自室に閉じこもって」本を読めるのかは疑わしいわけで(だからこそ本書が売れているわけです)、休みの長短問わず、ひとまずは一日のうちに少しでも読書に耽る時間を見つけることができれば、「時の流れが急に緩やかに」なるのを感じられるでしょう。
『プルーストと過ごす夏』は、8人の作家や学者たちが、『失われた時を求めて』の自分の好きな一節を引用しながら、「時」「愛」「場所」「芸術」などの切り口で作品の魅力を熱く綴った書で、『失われた時を求めて』本篇を読みたくなる文章やエピソードがふんだんに紹介されています。本書はいわば「本の解説書」なのに、本篇に負けず劣らずロマンチックで読み飽きることがありません。たとえばプルースト研究の第一人者アントワーヌ・コンパニョンによる、「第一章 時間」には、次のような文章があります。
「短いのに長く感じさせる作品というのがある。プルーストの長い作品は、僕には短く感じられる」。ジャン・コクトーは『失われた時を求めて』を、こんなふうに語ってみせた。本当のプルーストの読者がみんなそうであるように、彼もまた、最後まで読み終えたらまた最初に戻る読者の一人だ。なぜなら、この本を読むと、そこから抜け出たくないと思ってしまうからだ。
コクトーの感じ方はともかく、「本当のプルーストの読者がみんなそうであるように」といった、さらりと、しかし力強い断言のしかたはなかなか見事で、世界中の本好きを挑発するに十分です。また、別の一節は作家への愛とドラマに満ち、掌編小説のようですらあります。
プルーストの手書き原稿は、文学の創造がどういうものかを目に見える形でわからせてくれる美しいオブジェである。文学創造には、膨大な量の仕事が必要なのだ。しかしその仕事は、そのあとで隠されて見えなくなってしまう。人々は最初、プルーストが上流階級の人間だったために、まるで話すようにすらすらと書いているのだと思い込んだ。だが、そうではなかった。まったく違っていた。一九五〇年代になって、草稿資料が刊行されたとき、人々はプルーストが驚くべき仕事の鬼だったことを知ったのである。
ちなみに、(こんなところで明かすのもなんですが)この『プルーストと過ごす夏』は、フランスで人気のラジオ番組シリーズを書籍化したものです。単にエピソードを披瀝したというだけかもしませんが、ラジオでこの話を聞いたオーディエンスは、見えない手書き原稿を想像し、そこに凝縮されたプルーストの「時間」を感じたはずです。それにしても、「だが、そうではなかった。まったく違っていた」という転回、そして「仕事の鬼」という言葉は、静かに既存のプルーストのイメージを覆してみせていて、まったく見事というほかありません。プルーストの文章を解説する文章だけに、書き手も気合いが入っていると見えます。
「時間」についてのみならず、「愛」について、「哲学」についてなど、8人の書き手が縦横に綴るプルーストの魅力に圧倒されどおしの一冊です。最後に、第八章の「読むこと」という項の書き出しを紹介しておきましょう。
「読書とは一つの友情である」──『読書について』
ふだんの彼らしくないことですが、マルセル・プルーストのこの言葉は、とても短い文章であっさりと、〔フランス語の原文にして〕たったの五語で本質的なことを語っています。彼にとって書物は単なる物ではなく、ただの題名でもなく、一つの物語でもありませんでした。本は友人、私たちを感動させ、いくつもの扉を開いてくれる友人でもあったのです。したがって、読書こそ、『失われた時を求めて』の語り手に称揚される究極の芸術として現われるわけです。この芸術はまた、来たるべき書物の基礎を築く芸術でもあります。なぜなら、彼が読んだ数々の本がなければ、彼は作家にはなれなかったでしょうから。
この機にぜひ『プルーストと過ごす夏』を「友人」として迎え、夏には一緒に『失われた時を求めて』の扉を開けてみてください。
すぐれた読み手に導かれて、いま、私たちは『失われた時を求めて』という言葉の大聖堂の前に立っている。個々の体験をふまえた余力ある解説と、美しい引用の力を借りれば、今度は自分自身の手で豊饒な「時」の扉を開くことができるだろう。(作家・仏文学者)
本書に登場する八人は、いずれもプルーストの熱心な読者であり、プルーストに関する本を書いたり、映像作品を制作したりしている練達の読み手・書き手ばかりだ。その八人が、一般の読者に向けてわかりやすい語り口で、『失われた時を求めて』という小説の主題や魅力、読みどころを語っている。本書は、すでにこの長い長い小説を読破したという方はもちろん、現在読んでいる最中の方、あるいはこれから挑戦しようと思っている方にとって、格好の道案内、入門書となるだろう。──「訳者あとがき」より