2017.03.29

〈あとがきのあとがき〉いまこそジュネが必要だ──「言葉」と「幻想」と「思考」のアラベスク  社会に刺さる棘/永遠の鏡としてのジャン・ジュネ 『薔薇の奇跡』の訳者・宇野邦一さんに聞く

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ジュネの一般的なイメージは何だろう? 泥棒? 反逆的な同性愛者? コクトーやサルトルに愛され、その嘆願運動で無期懲役を逃れた文学の英雄? サルトルに『聖ジュネ』と讃えられ、その後はしばらく書かなかった詩と小説と戯曲とに優れた孤高の天才? その、どれもが正しいだろう。だが、それだけでは足りない。現代にも通用する本当のジュネは、どこにいるのだろうか。40〜60年代の時代の寵児だったジュネに、80年代になってから本格的に覚醒し、その後にやってきたエッセイの時代を含めて、30年以上も彼に向かい合ってきた思想家の宇野邦一さんに、『薔薇の奇跡』新訳訳了を機に、「ジュネという現象の現在」について聞いてみた。

60年代の文化的シンボルだった「(聖)ジュネ」

──今年(2016年)の夏、早稲田大学の演劇博物館で、60年代の新宿を回顧する「あゝ新宿―スペクタクルとしての都市と題された、とてもいい展覧会を見ました。P32721844.jpg行ってみたら、展示室の中で、エンドレスで映し出されている映画があって、それは大島渚が1969年に公開した『新宿泥棒日記』でした。面白い映画ですが、題名が如実にジュネの『泥棒日記』を思わせますし、冒頭シーンで主演の横尾忠則が紀伊國屋新宿本店で万引きする本のなかにも、ちゃっかり『泥棒日記』が潜んでいました。映画自体がジュネの一作品に準じたという構えになっているわけです。あの頃の新宿の街には、新宿騒乱などに象徴されるアナーキーな文化的尖端の街という雰囲気がありましたが、ジュネの理解や受容にも、あの当時の反逆的な時代の影響が濃厚に影を落としてきたところがあります。それが間違いだったと即断するつもりはないですが、今になって考えてみると、果たしてそれが充分なジュネ理解につながっていたのかどうか、疑問にも思えます。今日は、原著の刊行から70年がたって『薔薇の奇跡』を新訳なさった宇野さんに、そこをお伺いしたいと思ってやってきました。

宇野 僕は地方の高専の電気工学科を69年に卒業して東京に就職し、三年ほど電気関係の会社に勤めましたから、当時の新宿の空気は知っています。その後、自分にはサラリーマンはできないことがわかったので、京都の大学に入り直しましたけれど。あの頃は、暇さえあれば新宿や渋谷や横浜などに行って、本を買いジャズ喫茶に入って読むという生活を送っていました。学生たちが機動隊とやり合うだとか、新宿でフォークの集会をやっているのを見て、そんなに主体的にはかかわってはいないけれど、ときどきはデモの後ろについてチョロチョロ歩いたりもしていました。

──その頃のジュネには、ある種の記号性がありましたね。反逆的で、革命とまでは行かないにしても、少なくとも権威に服従はしないぞという、反権力の強い象徴として。なぜそうなったかというと、やはりサルトルの『聖ジュネ』の影響が大きかったんでしょうけど。

宇野 ジュネの小説自体は50年代にはもう訳されていましたから、土方巽*1なども早くから読んでいます。彼はある時期「土方ジュネ」と名乗っていたくらいで、まったくジュネかぶれと言ってもよかった。61年に発表した「刑務所へ」という文章があるんですが、それなんかはジュネから得たインスピレーションがもとになっているし、土方の踊りの発想もそこから出てきたりしていたんだと思います。大島渚のいわゆる新宿文化の中に入ってきたジュネには「泥棒ジュネ」のイメージが強いけれど、土方の文章でも「犯罪舞踏」などと言っている。ですから、69年よりももう少し前に、相当強く深いイメージを受け取っていた人もいた。土方は『聖ジュネ』からの引用もしています。

*1 土方巽:ひじかた たつみ(1928〜1986年)。舞踏家、振付家、演出家、俳優。60~70年代に「暗黒舞踏派」を名乗って活躍した。

 

──その頃は、サルトルの作ったイメージで読むのが大方の傾向だったように思いますが、実際のジュネは既に芝居も書き終わり、初期の小説の時代からも遠ざかっていたわけですよね。

宇野 小説を書いたのは年譜的に言うと40年代半ばの数年で、一時にワーっと書いた印象が強いです。その次に芝居の時期があって、その後は、作家ジュネの姿はしばらく見えなくなります。40年代に小説執筆は終わっているわけですよね。その頃には『女中たち』『囚人たち』といった戯曲も書いていて、小説は『泥棒日記』が刊行された49年が最後です。サルトルの『聖ジュネ』が出るのは52年ですが、50年代になると自分が監督して『愛の唄』という映画を作ったり、55年に戯曲の『バルコン』、それにアルジェリア戦争をテーマにした最後の大作戯曲『屏風』が61年。つまり、戯曲を書いたジュネも60年代初めには終息している。

──土方さんのように早かった人もいるのでしょうが、日本では、その後しばらくして、60年代も末になってからブームが来たという印象でした。

宇野 そうですよね。一方にヘンリー・ミラーなどの文学やシュルレアリスムの刺激があって、他方にはマルクス主義があり、その他にもライヒ*2などの影響も目立っていた時代です。

*2 ライヒ:ヴィルヘルム・ライヒ/Wilhelm Reich(1897〜1957年)。オーストリア・ドイツ・アメリカ合衆国の精神分析家。オルゴン理論を提唱し、フリーセックスの風潮が生まれた1960年代に評価された。日本でも『セクシュアル・レボリューション』『性と文化の革命』などが話題になった。

──その政治性と文化的なうねりの渦中にあってこその記号性だったわけですね。あの記号性は、基本的に『聖ジュネ』の、合理的で統合的な理解の延長線上にあって、あのような不幸な境遇に育った男が、言葉の幻想的な力で世界を引っ繰り返した英雄譚というステロタイプな理解にとどまってしまう一面があったと思います。

宇野 「殉教と反抗」ですよね。『聖ジュネ』の訳にはそういう副題がついていました。

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ジャン・ジュネ(1983年撮影)

──今回の『薔薇の奇跡』の「あとがき」を読むと、先生は、本当はそうじゃないと言っているように思えます。

宇野 サルトルの読み方が間違っているとは思わないですよ。いろんな読み方があっていいわけですから。ジュネも、サルトルとはヴォ―ヴォワールと一緒にかなりの友達付き合いをしていたわけだし、ある種の尊敬も抱いていたと思いますけど、ジュネにとって『聖ジュネ』がかなり不本意だったということはあったわけですね。そのことが、後の、あれを読んで書けなくなったというジュネ自身の説明につながっていく。それが本心かどうかは、また別のことですけれど。

あの時代に、悪と同性愛というテーマをあれだけまともに扱って、哲学的な言葉で緻密に表現したのはサルトルの力でもあるし、一つの思想的に重要な事件だったと思います。ただ、それは一人の男のもつれた生涯が、瞬く間に哲学的なものの中に回収されてしまったということでもあって、その意味では、ちょっと異常なことが起こったとも言える。普通、文学作品の批評が、同時代的にすべてを説明し理解して、覆いつくすということはほとんどないことです。例外的な作品に対して例外的な批評が現れたという連鎖反応が起こって世界的な事件になったというか、ジュネが画期的な文学として世界で読まれるようになったのも、明らかに52年のサルトルのあの本があったからこそですね。

──でも、あれを読んだら書けなくなったというジュネの言明の真意は別にしても、ジュネが小説を書かなくなったこと自体は事実ですし、とすれば、「聖ジュネ」に書かれているサルトルのジュネ像に、本物のジュネがある種の違和を感じていたことは、おっしゃるように間違いないと思います。では、そのジュネの真意を思いやるとすると、先生はどう説明されますか。

宇野 サルトルは、まったく弁証法的な道筋をつけて説明したわけです。つまり悪という否定性を、その中には犯罪だけではなくて同性愛、性倒錯というものの否定性も入っていたわけですが、そういう否定性を通じてその否定自体を乗り越えようとする、その契機になるのはやっぱり文学作品を書くということを通じてであって、そうやって社会と対決しながら、社会の中に或る場所を見つけ、その意味で読者と作品を通じて和解するという、大きく言えばそういう道のりを、サルトルは細かく跡づけて書いてみせたわけです。ですから、間違いだったというよりも、端的に言うと、「和解」というサルトルの予定調和的な図式が、いきすぎたということでしょう。だって、その後の生き方が示しているように、ジュネは全然和解していないわけですから。一応、泥棒稼業からは足を洗い、もう刑務所へは行かないという決意を強く持つわけですけど、その後も世界中のマイノリティ、ブラックパンサーやパレスチナゲリラ、そういう人々に強いアンガージェマン*3をしてみせた。一緒になって戦うという意味のアンガージェマンでは必ずしもなかったけれど、或る種の伴侶となり、そしてそのことを表現する作家として、アンガージェマンを行ったわけです。その後の作品を読めば、ジュネは和解しているわけではないことがわかります。その意味ではサルトルの落とし前のつけ方には、やはり踏み外しという面が明らかにあったし、ジュネのテクストの複雑さ、エクリチュール、文体、言葉のクリエーションというものには、サルトル自身も作家ですから相当敏感に読み込んでいるとは言え、サルトル的な理解から外れているものがたくさんあったということです。端的には、たくさんの破片のようなディテールが、ずうっと積み重なっていく書き方のなかに、サルトルの統合的な弁証法の枠組みからはみ出すものがじつに豊かにあったということだと思います。

*3 アンガージェマン:サルトルの実存主義の用語で、主体的に参加すること。特に、知識人や芸術家が現実の問題に取り組み、社会運動などに参加することに用いられる。

「書けなくなった」後のジュネ

宇野 小説・演劇を止めてからのジュネは、ある種、ジャンルで言うとエッセイストになっている印象があります。たとえば、そんなに分厚いものではないですけども、美術家について書いた、レンブラントやジャコメッテイについてのものだとか。あとはドストエフスキーについて、強い印象を残す短い文章を書いたり、『公然たる敵』(鵜飼哲・梅木達郎・根岸徹郎・岑村傑訳、月曜社、2011年)という一冊になっているエッセイ集がありますが、そういう断片的な書き方に現れたジュネの思想というものは、サルトル的な否定と肯定を重ねて最後に統合と調和に至るという枠組みの中には、絶対に入り得ない過激な思考方法を示している。

僕はそういうジュネのエッセイにびりびりと感電したというか、若い頃にアントナン・アルトーとか、彼は演劇人でもあったけど独特の方法で哲学した人とも言えるわけで、そのような哲学的表現に関心をひかれたので、それ以前には何でも読みましたけれど、30歳ぐらいまでに小説には興味を失ってしまっていた。だから、ジュネのレンブラント論やジャコメッテイ論にとりわけ強い印象を受けて、それを引用してエセーを書いたりしましたけれど(『意味の果てへの旅―境界の批評』、青土社、1985年)、その頃までは、ジュネは僕の中ではそれほど大きな存在ではなかった。ただ、そういう強い印象を残したジュネと、小説や戯曲を含めて、いつか向き合ってみたいなという思いはありましたね。80年代のことですけれど。

──80年代ですと、日本の文化の表層から、ジュネはほとんど姿を消してしまっていたのではないですか。

宇野 そうそう。時間的に並べると、サルトルの次に、デリダ*4のまだ翻訳の出ていないGlas (1974)、日本語でいうと『弔鐘』という大変なテキストがあるんですよ。これは、左頁に「精神現象学」にもとづくヘーゲル論、右頁にジュネ論を置いて一緒に読ませようという風変わりな本でして、読み方としては、まずどちらかをあるていど読み、その後でもう一つを交互に読むしかないんですけども、じゃあ両者の関係はと云ったら、あるような、ないような、そういう書き方で書かれた本であるわけです。デリダの戦略としては、そのあるような、ないような関係のなかで、何かが生まれてくることに賭けるという奇怪で実験的なものでした。

*4 デリダ:ジャック・デリダ/Jacques Derrida(1930〜2004年)。フランスの哲学者。アルジェリア出身のユダヤ系フランス人。ポスト構造主義の代表的な哲学者で、エクリチュール(書かれたもの、書法、書く行為)の特質、差異に着目し、脱構築(ディコンストラクション)、散種、差延の概念などで知られる。

70年代はああいう書物が次々に出て来た時代で、フランスが政治的に揺れていた時期に、ああいう本が出て、そんなに広く読まれたわけではないけれど、デリダはジュネのテキストの読み解けないような細部を、繰り返し引用しながら、そこに光をあてて行って、いわば反復するようにして、自分の哲学を展開するわけです。つまり、サルトルのように、一挙手一投足の全部が弁証法の中に収集されるのではなく、ジュネの言葉そのものに寄り添う形で、引用を操作しながら哲学的なエクリチュールを作り上げていくという感じです。つまり、ジュネはこれだという一義的な解釈が浮かびがってくるものではなく、むしろそうなるのを拒否している。デリダの方法はそういうものです。共感はあるけれど、僕のデリダの読み方と理解には限界があって、デリダにそんなに深く惚れたこともないから、それを真似するわけにはいかないですけどね(笑)。

対して、ジュネにはやっぱり言いたいことがあるわけです。細部の戯れみたいなものを通じて伝わるジュネの意図やモチーフははっきりあるわけだし、そのジュネのエッセイ的な思考が、晩年に結実するのが『恋する虜 パレスチナへの旅』(Un Captif Amoureux、1986/1986、邦訳:鵜飼哲・海老坂武訳、人文書院、1994年、新版2011年)という巨大な書物で、これを読み解くということが僕にとっての一つの試練になったわけです。その何分の一かはブラックパンサーと一緒に過ごした時間にかかわりますが、日本でのことも少し入っていて、ある種、旅行記でもあるんですけどね。その他パレスチナで遭遇したアラファト以下、いろんな人物のポートレート、それを通じてイスラエル、パレスチナというあの場所でどういう歴史が展開されてきたかということが、かなり独特な、ジュネだからこそという見方で展開されるわけですけど、『薔薇の奇跡』以上に入り組んだ詩的な文章で書かれてるし、不思議な省略の仕方があって、何が話題なのか、何を言いたいのか、俄かにはわからないところがたくさんある。でも、そういうこと書き方を必要としているということが、読んでいたらわかるわけです。だから、読むこと自体が大変で、まだ日本語訳がなかったころから四苦八苦しながら読み解いて、『ジュネの奇蹟』(日本文芸社、1994年、日本文芸社)という本を書いたんです。

そうやってサルトルでもデリダでもない、僕なりのジュネの像がかなりはっきりと見えてきた。まあ、簡単に言うとそういう道をたどってきました。

「動物になること」、「女性になること」、「子どもになること」

──たとえば、他の文学者でジュネに似た人っているでしょうか。

宇野 端的に言って、いないと思います。父親がいなくて母親にも捨てられて、里子に出されてという宿命のなかで育っていって、社会の外側で生きる非行少年になって、その後で世界中に読まれる作家になった。そういう道筋をたどってきたのに、あれだけ明晰に自分に立場を説明できる、そういう意味ではものすごく鮮明な自意識を持った人ですし、その上でその分析には、世界や歴史についての透徹した視線が含まれているわけですよね。そういうふうにして、しかも、それが文学的な言葉の創造と相俟って、彼のようなすごく大きなスケールに至った例は、あまりないと思う。僕が自著で「ジュネの奇蹟」という言葉を使ったのも、『薔薇の奇跡』と同じくジュネ自身が、めったにない一つの現象であって、しかもそれはけして異常なことではなくて、彼のメッセージというのは、今の世界が必要とするメッセージであると思っているからなんです。

──安易にまとめてはいけませんが、ジュネが育つ過程で見てきた世界、そこから受けざるを得なかったいろんな傷、それを言葉と向かい合わせて、文学的な自己表現の高みに至ろうとしたら、今の世界、そこでの支配的な言語体系や常識とは、どうしったって対立せざるを得ないでしょう。とすれば、これを世界の側からみれば、ジュネは反転した世界の自画像、ほかならぬ我々の写し絵だとも言えると思うんです。しかもジュネは、自分により親和的だったサルトル的な世界とも和解しなかった。というより、できなかった。ジュネはその意味で、人間社会に刺さる永遠の棘だと思います。

宇野 うん、彼は、悪の世界に入るという形で、ものすごく激しい対立を生きちゃったわけです。ところが、その悪の世界にいる自分と、そこで出会った人間たちが、どういう者たちで、どんな欲望を持っているのかということを、つぶさに透視するように見ることのできる、ニーチェの言葉で言うと「善悪の彼岸」みたいな視線を持つようになった。だから、ただ悪を擁護しているだけではないし、そこはすごく複雑で、『薔薇の奇跡』でも、もうこんな世界はたくさんだ、牢獄ほど嫌なところはないと言いながら、アルカモーヌの薔薇の奇跡のような不思議なビジョンも生まれる場所として描き込んでいく。

同性愛については、ジュネは、半分以上は女性的な観点を持っていて、男を愛するということは、必然的に自分が受動的な性に化するという問題でもあることを、『薔薇の奇跡』でもつぶさに書いています。しかも、そこは男らしさを競う世界でもあるから、凄い葛藤があるし、それが実に精妙に書かれてもいるわけで、そういう女性的な立場がジュネには濃厚にあって、それをある種葛藤をもって生きたことも、精密に表現していると思う。

──それは、ジュネの女性性と言ってよいのでしょうか。

宇野 いいと思います。ジュネの身体がどういう意味合いを持っているかと考えるときには、ドゥルーズとガタリ*5がさかんに言った「動物になること」、「女性になること」、「子どもになること」、これらは思考においても文学においても重要であるということが、参考になるかもしれません、いまではもはや陳腐に聞こえるかもしれないですが。僕はとても重要な問題提起だったと思いますし、ジュネの性的な問題がどういう思考を生み出しているかということについても、ぼくなりに考えてきました。

言葉の創造については、たとえばちょっとした発音の違いとか、囚人たちは俗語をどう使うかなど、ほんの些細なことをめぐって、ジュネの思考はどんどん動いて行きますよね。そういうところに、ものすごく敏感だし、楽しんでもいるわけですけど。 そういう言葉の細部をめぐる創造と、もう一つは独特の幻想あるいは幻視の力がジュネにはあって、『薔薇の奇跡』では、最後にアルカモーヌを幻想的に脱獄させる試みもあって、それがまさにテーマですよね。それからもう一つ大事なのは、批判的な思考の力です、批判哲学的と言いたくなるほどの。

ですから、一応ジュネの思考の生地というか、ベースみたいなものを考えると、もちろんほかにもありますが、「言葉の力」と「幻想の力」と「思考の力」と、それぞれは違うものだけれど、とりあえずはその三つのものが、切り離せない形でくるくるくるくる回転しながら動いて行くというイメージです。そして、その一つ一つの力が桁外れに強い人だったと思うんです。

*5ドゥルーズ:ジル・ドゥルーズ/Gilles Deleuze(1925〜1995年)。フランスの哲学者。20世紀のフランス現代思想を代表する一人。ジャック・デリダ、フェリックス・ガタリなどとともにポスト構造主義の時代を代表する哲学者とされる。

ガタリ:ピエール=フェリックス・ガタリ/Pierre-Félix Guattari(1930〜1992年)。フランスの哲学者、精神分析学者、精神科医。1968年の五月革命後に出会ったジル・ドゥルーズとの間に、『アンチ・オイディプス』『千のプラトー』ほか、多くの共著がある。

──リニアな統合に向かうのではなくて、むしろ統合的な視点を無化するように回転し続けている......。

宇野 そうですね。翻訳している最中は、どんどん近視眼的になってきて、一つの語句をにらんで辞書を一所懸命に見なおしたりして、混沌として見える訳文を解きほぐそうとするわけですが、訳し終えた『薔薇の奇跡』の訳文を、読者としてのスピードで、読み返してみたときに受けた印象は、ジュネは読む人が困惑するような混乱を、意図的につくりだしているんだな、というものでした。そんなに作為的でもないんだろうけど、でもわざと、とも言えるという感じです。同じころに書いた『ブレストの乱暴者』(Querelle de Brest 1947/1953、邦訳:澁澤龍彦訳、河出書房新社、1988年)などでは、これとは違った、やや推理小説的な構成的とも言えるような、比較的読みやすい書き方も実際にしているわけですから。

『薔薇の奇跡』は、とくにアルカモーヌとディヴェールとビュルカンの三人の話が入り混じって唐突に入ってくるでしょう、まるで組紐を編むように。一つのエピソードが、いつでもほかのエピソードに滑り込むように、ぐちゃぐちゃに書いてあるわけですよね。だから普通の一定のスピードで読むと、混沌としていて、初めて読む読者はかなり面喰って混乱する。でも、それはただの混乱ではなく、実に精巧に、組み紐のように編まれている混沌なんです。そして、そういう混沌を作りだしたこと自体が素晴らしいなと思えてきた。

──何本かの紐があって、その一本一本を丁寧に編み上げ、それで一本の紐ができて、なおかつバラバラで、しかも、まとまっているという......。

宇野 その混乱の根本には何かまったく自発的なものがあって、囚人にどの程度の執筆時間があるのかわかりませんけれども、でも、看守に原稿を没収されたりもしているわけですね。そういう状況で書いたもので、普通の作家だったら思う存分に書ける条件ではないのに、異常な集中力で書いているわけです。実際は、いたるところで執筆は中断されているんでしょうけど、その切断されたということを実にうまく使い、逆手に取りながらこういうものを作り上げたんだなという感じです。

──切断さえも受け入れる。その受容の力と覚悟たるや、並みじゃないですね。それがジュネのアクチュアルな生の実相、宇野さんの言葉でいえば「組紐」だったのもしれないですが。

宇野 ジュネは「時間」という言葉をよく使うんです。時間論というほど複雑ではないけれど、でも物語ではない生きられた時間を語るわけです。そこにはいろんな様相があって、けっしてリニアではないわけですし、そういう不連続であったり、可逆的であったり、循環的であったり、反復的であったりするような時間の様相について、驚くほどはっきり意識していますよね。ジュネは、「空間は奪われるものだ」といいます。空間は制限されるもの、牢獄のように閉じ込められたりするものだと。だけど、いかに懲役があろうとも、「時間は聖なるものだ」と言っています。つまり、時間を奪うことは絶対にできないと。

──ジュネが書いた戯曲にも関係すると思いますが、たとえば冒頭に言った演劇博物館の展覧会でフューチャーされていた60年代のいわゆるアングラ劇では、役者それぞれの身体が持っている個々の記憶の時間性や歴史性みたいなものを、いかに舞台の上で現前させ、なおかつ戯曲を成立させるかが問題にされました。冒頭の土方巽に戻ると、身体にある時間の記憶が持っている不思議な力が、舞踏や舞台を成立させるということに、眼目の一つがあった。

宇野 ジュネは、そういう意味での時間という問いを、やはりずっと持っていますよね。それが、どんな哲学者よりも哲学的だったジュネというイメージを与えるわけだけれども。サルトルは、哲学者が文学者を分析したと思っていたかもしれないけれど、確かにジュネは、一人のすさまじいユニークな哲学者でもあったんだと思います。

──やはり、ジュネはサルトルの視線だけでは、蔽い切れないものに満ち溢れていたと。それは、60年代末の視線ではジュネを蔽い切れないというのと、ほぼ同義だと思います。先生は80年代にジュネと向かい合おうと思われて、その後はどうなさったんですか。

宇野 少しずつ読んで行って、浅田彰などが編集していた『GS』という雑誌が87年にジュネを特集したときにエッセイを書きました。たぶん、そのあたりが最初だったんじゃないかな。その後、ジュネを本格的にやってみませんかと言ってくれる人がいて本格的に考えるようになり、90年代の初め、92年にフランスに一年、研究休暇でいきましたから、その間にジュネ論のヴィジョンを作ろうという感じで、一日のうちの半分は『千のプラトー』(『千のプラトー──資本主義と分裂症』、ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ著、宇野邦一、小沢秋広、田中敏彦、豊崎光一、宮林寛、守中高明訳、河出書房新社、1994年)を訳し、もう半分はジュネを読んでいた。それがさっきの『ジュネの奇蹟』になった。その増補改訂版が別の出版社から2004年に出ています(『ジャン・ジュネ 身振りと内在平面』、以文社)。フランスで開催されたシンポジムで発表したときの原稿なども加えました。そのときはデリダも参加して、長話をしていきましたけど。

──そのすぐ後に、光文社古典新訳文庫の話をさせていただいた。2008年だったかな。

宇野 その直後に、みすず書房から、ある種散文詩とも言える変わった本(『判決』、ジャン・ジュネ著、宇野邦一訳、みすず書房、2012年)を出しています。

──ということは、80年代以来、ジュネは、先生の主要な関心の一つであり続けているわけですね。

宇野 そう。『薔薇の奇跡』の翻訳に長い時間がかかったこともあって、その間もずっと関心を持ち続けてきたわけです(笑)。

 

ジュネのラディカルな現代性について

──今、必要なジュネというテーマで一言くださいと言われたら、何と答えますか。

宇野 ジュネには、書くことで顕現した「言葉の力」、「幻想の力」という異様な力があったと思うんですよ。それから、もう一つは、やはりジュネの政治とのかかわりです。かかわり方のユニークさというか、ユニークというだけではなくて、そこにはある種、普遍的な何かがあると思うんですよね。

いま世界中で、政治の大変化が起こっているでしょう。ネオリベ的、グローバリゼーション的な力が、結果として暴力の連鎖を生み出しているという場面はいたるところにあって、その傾向はジグザグしながらも、だんだん大きな流れ、傾向になってきている。一部ではナショナリズムとか、まったく古めかしい反動もあって、新しい抵抗や政治のヴィジョンが見えにくくなっている。抵抗勢力も、従来と同じスローガンや同じ言語、同じ運動ではもう抵抗できないという問題を持っているわけですよね。それに対しても、少しずつ、いろんな試みがあるわけですけど。

そういう流れを見ると、ジュネの政治とのかかわり方には、マルクス主義を含む国家的なものへの批判という、毅然としたコアのようなものがあります。今は国家と資本とグローバリゼーションの全体が、一体となってそういう暴力を生み出しているわけですから、そのすさまじい力に対して、ジュネが具体的にどういう態度で立ち向かったのかと考えてみることが大切で必要なことなんじゃないかと思います。それに、ジュネ自身もいろんな場面をくぐりぬけていますよ。たとえば、一時期はドイツ赤軍の暴力を擁護する文章を書いて、「ル・モンド」紙の一面にそれが載って批判を受け、伝記なんかを読むと、相当落ち込んだりもしています。

だけど、ジュネが言いたかったのは、国家の暴力と抵抗勢力の暴力とでは、まったく性質が違うということで、そういう意味でドイツ赤軍の暴力を肯定したわけですよ。ですから、ジュネが一度は熱く擁護した闘争であっても、たとえばパレスチナに寄り添いながらも、パレスチナが普通の国家になっていくことに対しては、まったく批判的だった。パレスチナが普通の国家になったときには、もう私はここにいないだろうと、そういう態度を貫いた。だから、あらゆる党派的なもの、つまり党派はすでに小さな国家を形作るわけだから、それに対してはすごく敏感な人だったわけで、その敏感さは、彼の言語能力や詩的能力と密接につながっていた。

それは、ある意味で彼の身体観にもかかわることです。彼はあまり「身体」とは言っていませんが、たとえば特に身振りとか、やはり身体への視線は特筆すべきと思うんですよ。それは性的魅力ということにもつながるわけで、彼の身体に密着する政治的抵抗の根拠みたいなものは、従来の政治をことごとく批判せざるを得ないような、そういう立場を作り上げていたと思います。ブラックパンサーとか、あの時代では相当過激な闘争を展開した党派を、擁護したりもしたわけですけど、結局〜党とか〜派とかに決して組することができない資質だった。

つまりジュネの擁護の仕方っていうのは、スローガンには興味がないという感じで、身体、身振りを擁護するという感じなんです。『恋する虜』には、アラファトがキャンプに自由に出入りしていいよというパスポートをジュネに渡していたと書いてあります。契約書のようなものがあったかどうかは知りませんが、ジュネは、いつかパレスチナに関する本を書くという約束をする。何年たっても書かないから、いつできるんだという催促もちょっとはあったみたいですけど、出来上がったのが『恋する虜』だった。まだアラビア語には訳されていないと思いますが、フランス人だって日本人だって読み難い、とてつもなく複雑な代物だった。

──およそ、政治的ではなかったわけですね。

宇野 ええ。だけど、よく読めば100パーセント政治しかないというようなものですけど。そのなかに「ジャコメティ*6は毎日、世界の最後の光をみつめていた」なんて書いてあったりするんですけどね。

*6 ジャコメッティ:アルベルト・ジャコメッティ/Alberto Giacometti(1901〜1966年)。スイス出身の彫刻家。絵画や版画の作品も多く、とくに第二次世界大戦後に作られた、針金のように極端に細く、長く引き伸ばされた人物像で有名。しばしば実存主義的と評される。

──政治的効果が期待できない、政治的な文書なんですね。

宇野 それだからこそ全く違う次元にある政治というもののヴィジョンをしっかり作り上げたとも言えるわけで、そういう意味では晩年のエッセイである『恋する虜』や『判決』や『公然たる敵』などを読めば、今の政治が抱えている問題に対する、一つの応答の形が読み取れると思います。

──最後に、『薔薇の奇跡』の翻訳は、一番苦労なさったことは何でしょう。

宇野 第一には、関係代名詞というもののある西洋の文章を、どうやって読みやすい日本語の文章にするかということに心を砕きました。今はプルーストでさえも、高遠(弘美)さんの古典新訳のような、日本語の流れですんなり読んで行ける訳を作るということが、技術的な面でも実現されてきましたよね。思想書の翻訳については僕も、ある程度そういう方向でやって来たんだけれども、長編小説の訳というのは初めてでしたから、さらに平明さと日本語らしさみたいなものがまず求められるところがあって、編集とのチェックのやり取りの中で、僕なりに注文を聞きながら、もちろん残すところは残しながら、全部検討していきました。例を出すとすると、たとえば「古池や かわず飛びこむ水の音」という句を、「古い池があってカエルが跳びこんで水の音がしました」というように口語に訳をするとします。現代日本語の簡単な文章に訳すにしても、無数にヴァリエーションがある。小説の中の文章としては、これに解説的な含みももたせたい。そういう中で、調律していかなければいけない。だから、一度のやり取りで平明になったようでも、その訳文の向うに、もう数段階の作業があって、それが難しいと思うと同時に、面白くもあった。

その上で、ジュネって作家がいかに難しい作家であるかということも僕なりに痛感しました。彼は複雑な要素を折りたたんで組紐を編んでいる、不連続や切断までも芸術にしてしまうしたたかな書き手で、たぶん、世界文学のなかでも特別に濃密な言葉を持った人だと思うんですよ。

それにジュネの面白さは圧倒的にそういう細部にありますから、単にわかりやすい訳文を作って面白さを消してしまっては元も子もない。編集部のコメントも「わかりません」の連続というところがあって、わかるようにしたいと思うのと、組み紐のように書いてあるわけですから、紐の配列を整理してしまうと、もうジュネではなくなってしまうというギリギリのところがあるんですよね。韜晦と言ってもいい、あるいは意図的としか思えないような不連続性とかがあって、わからないところも随所にあるわけです。それをどこまで開いて、どこで開く手を止めようか、その見極めが一苦労でした。刊行された後に読みなおしてみて、ちょっとしたことですけど、まだ付箋を着けた、直したいところが結構残っています。

(聞き手:今野哲男)

薔薇の奇跡

薔薇の奇跡

  • ジュネ/宇野邦一 訳
  • 定価(本体1,280円+税)
  • ISBN:75344-3
  • 発売日:2016.11.9
花のノートルダム

花のノートルダム

  • ジュネ/中条省平 訳
  • 定価(本体1,020円+税)
  • ISBN:75214-9
  • 発売日:2010.10.13