小尾芙佐さんの古典新訳文庫での翻訳は、C・ブロンテ『ジェイン・エア』、オースティン『高慢と偏見』、ワイルド『幸福な王子/柘榴の家』に続いて、4作家、4作品めになる。
小尾さんの本好きだった子ども時代から、翻訳家としての活躍ぶりについては、連載コラム「“不実な美女”たちー女性翻訳家の人生をたずねて」でご紹介している。今回は、エリオット生誕200年に新訳を刊行した『サイラス・マーナー』の魅力、翻訳のご苦労についてお聞きした。
──小尾さんが最初に『サイラス・マーナー』に出会ったのは、高校生の時ですね。戦争中、東京の自宅からお母さんの実家に疎開して長野県立伊那女学校に転校なさった。そこでは授業などなく勤労奉仕の日々でした。戦後、新制高校時代になってからの小尾さん(当時は神谷さん)は映画に夢中になり、部活のバスケットボールに没頭なさっていたわけですが、『サイラス・マーナー』は新制高校の英語のテキストだったのでしょうか。
小尾 高校ではなくて、大学受験のために通っていた町の英語塾で渡されたテキストでした。今でも覚えていますが、表紙に機織りをしているサイラスが描かれていて、その暗い絵と英文を読んだ印象から、「サイラス・マーナー=守銭奴」というイメージができあがってしまいました。
エリオットの原書ではなくて、高校生向けに分かりやすく要約した短いテキストでした。後半の話は省略されていたように記憶していますが、単に私がそこまで読まなかったということかもしれません。
津田塾大学に進学してからも、高校時代の英語の授業で『サイラス・マーナー』を副読本(サブリーダー)として読んだというお友だちがいました。「ああ、あの守銭奴の話ね」と言い合って、だれもが暗い小説だと決めつけていたと思います。
男子校でも『サイラス・マーナー』を原書講読で読んだという人が、私と同じ世代では結構います。夏目漱石が英国留学から帰ったおりに、オースティンやブロンテなどの作品とともに、エリオットの『サイラス・マーナー』も持ち帰り、東京帝国大学の講義のテキストに使ったそうですから、その教え子たちが教職につき、授業のテキストとして使ったとも考えられますね。
──その後ずっと、省略されていない『サイラス・マーナー』はお読みにならなかったのですね。
小尾 残念ながら、そういうことになります。守銭奴サイラス・マーナーに、それほどの魅力をおぼえていなかったからです。
ところが数年前、ガブリエル・ゼヴィンの小説を翻訳することになって原書The Storied Life Of A.J.Fikry を読んでいたら、登場人物が『サイラス・マーナー』を好きな小説として挙げていたんです。しかも重要な意味を持つ古典作品として。「なぜ、あの守銭奴の話が?」と首をかしげながら、半世紀ぶりに『サイラス・マーナー』を読んでみたんですね。「ええー⁈ こういう話だったの!」と本当に驚いた(笑)。ずっと誤解していたのです。
後半を読んでいなかった私に、あの作品の魅力はわかりようがなかったんです。サイラスの盗まれた金貨が見つかったというあたりで、「ええーっ?」と声をあげたのを覚えています。
──英語で読まれたのですか?
小尾 まず、岩波文庫の土井治さんの訳で読みました。こんなにスリリングな、こんなに細やかな愛情あふれる筋立てだったのかと驚いて、友人、知人に「『サイラス・マーナー』知ってる? こんなに面白いのよ」と言いふらしました。すると、ほとんどみんな、後半の内容を知らないんです。誰もが「ああ、あの守銭奴の」というわけです。
改めて原文を読みました。原文は、ときおり作者の論理がはさまれていて、決して読みやすいとは言えませんが、これがエリオットの特性であり、魅力でもあります。
第一章に出てくる若いサイラスは、ランタン・ヤードという町に住む、心も暖かくて、信心深い好青年です。ところが親友に裏切られ、傷心のあまり、ふるさとを捨てる。さすらいの末にたどりついた村が、ラヴィロー村。そこでは全く人づきあいをせず、好きな機織りの仕事に没頭するという姿に、守銭奴という暗いイメージはなく、人間的に芯の強い人物だという感じがしました。
機を織る「ぱったん、ぱったん」という音も、私たちには、のどかな快い音だと感じられるけれど、当時のイギリスの田舎では、悪魔が放つ音だと思われていたんですね。サイラスが来る前から村に機織りはいたのですから、ラヴィローの村人も初めて聞いたわけではないのに、サイラスの機を織る音は不気味な音に聞こえたんですね。サイラスの特異な容貌のせいで、恐ろしく感じてしまう。よそものだという偏見から、そんなふうに見られていたのでしょう。ラヴィロー村という僻村の人たちにとって、よそものを受け入れるのは、とても困難なことだったんですね。
──北のほうから来た、変わりもののサイラスをめぐって、ラヴィローの村人たちと、ゴッドフリーたち上流階級の人たちの物語が交錯していきます。昔の研究書を見ると、小説構造として完成度が低いという評論もありますし、本題に入るまでが長々しいという読者の評価も多かったようです。私もむかし読んだ時は、長いと感じたんですが、今回の小尾さんの訳文では長く感じませんでした。
小尾 信心深い若者が、友の裏切りに遭い、“金”にいこいを求めるまでのいきさつを、作者は愛情をこめて描いて、決して長いとは思わないなあ(笑)。
それに、サイラス・マーナーに“守銭奴”という烙印を押すのはどうかと。かれは金貨そのものを愛でている、愛情の代替物なんですね。
ラヴィロー村の、それぞれ個性的な登場人物たちも魅力的です。
──とはいえ、翻訳するとなると、原作の素晴らしさに感動している場合ではなくなりますか?
小尾 そうです! 英文の難しさに加え、ラヴィロー村の方言に泣かされました。村の上流階級であるナンシーも訛っていて、「肉」を「ネク」、「馬」を「ンマ」と言うんですね。(She actually said “mate”for”meat”,……”’oss” for ”horse”,)。
村のハイクラスといっても、オースティンの『高慢と偏見』に出てくる人たちとは、言葉づかいは全く違います。
とくに苦労したのは、虹屋という居酒屋に集まる村人たちの会話(六章)です。英国の中部地方の方言だそうですが、その方言の使い方の見事さを褒めている評者もいます。たとえて言えば、宮沢賢治が東北弁で書いたみたいな感じなのでしょうが、だからと言って日本のどこかの方言をダイレクトに入れたら、それはもうイギリスではなくなってしまいますからね。
昔、アメリカ西部の開拓時代の小説を大阪弁に訳した翻訳がありましたが、やはり大変な違和感がありました。どこかの方言は使えないけれど、かといって標準語は使えない。
ここでは、私が戦争中の疎開先だった長野で、日々耳にしていた農民たちの話しぶりを思い出しながら訳しました。ラヴィロー村の村人たちの感じが少しでも出せていたらと思うのですが。
──『サイラス・マーナー』の読書会をした様子が、雑誌「世界」2020年2月号に掲載されました(向井和美「読書会という幸福」2、岩波書店)。そこでは「訳文の会話に使われているのは名古屋弁らしい」という指摘がありましたが、小尾さんのイメージとしては長野なんですね。
小尾 あれは純粋な名古屋弁でも信州(長野)弁でもありません。ラヴィロー風方言を読者に感じていただけるように工夫しました。
──私は、「〜せなんだ」などの言いまわしが若い人に伝わるか心配でしたが、周囲の人に聞いてみると、絵本やアニメ日本昔話などで見聞きしているので、わかるようです。
小尾 私は、若い人に「守銭奴」という言葉がわかるかな、と心配でしたが、校閲さんからもチェックがきませんでした。
──校閲の方からは、「コール天」に対して「コーデュロイ?」という指摘がありました。そもそも「コール天」という言葉を知らない層もいて、「イカ天みたいな、天ぷらの一種ですか?」という声もありました(笑)。
小尾 今回それを着ているのは、村の実直な青年エアロンだったから、日本における「コーデュロイ」という言葉のイメージは、雰囲気として合わないのよね。
近所に住むウィンスロップのおかみさん、ドリーの口調も、難しかったです。エアロンの母親ですが、方言というだけではなく、彼女の人柄――おせっかいではあるけど、それほど押し付けがましくもない微妙なところに好感がもてますね。キリスト教に対する、あの時代の素朴な考えがドリーのお説教によく現れています。サイラスに向かって、日曜日に働いてはいけない、クリスマスの鐘を聞きなさいと熱心に語るあたり。村の生活にしみついた信仰がよくわかります。
BBC海外ドラマの『サイラス・マーナー』があるのですが、ドリーはきれいな格好をしすぎていて、ちょっと痩せていたし、私のイメージとは違っていました。
──あのドラマも、全体的に暗いトーンで、「サイラス・マーナー=暗い」の典型ですね。今回、解説では、冨田成子さんが作品当時の結婚制度と、対照的な生き方を選ぶ3人の女性たち(ナンシー、プリシラ、エピー)について詳しくお書きになっています。小尾さんは、『サイラス・マーナー』に出てくる女性では、ドリーのほかには誰が気になりましたか。
小尾 ナンシーかしら。使用人がたくさんいる家のお嬢さんだけれど、先ほど言ったように訛っているし、気さくな感じですね、ミートパイを焼いたり。と同時に、独特な倫理観も持っていて、それが彼女を苦しめている。
最後のほうで、夫のゴッドフリーとサイラスが、子どもであるエピーをめぐってやりとりをするところ、そこでのナンシーの場の収め方は、ほんとうにナンシーらしい。ゴッドフリーは優柔不断なダメな男ですが、ナンシーのおかげで少しずつ変わっていった。
ダメ男という意味では、ゴッドフリーの弟もひどいです。けれど、モリーという女性を捨てた兄ゴッドフリーの身勝手さと、ナンシーの道徳的な生き方は対照的ですね。
──私はナンシーの姉プリシラが好きです。『サイラス・マーナー』の昔の解説本で、豊田実氏が「プリシラは捌(さば)け者」だと評していました。本当にサバサバしている。大晦日の舞踏会でドレスアップする場面で、美しい妹と違って「どうせわたしは不器量よ」と言うのですが、卑屈な感じはではないんです。「美人さんは、蠅(はえ)とり器だわ、私らに男を寄せつけないようにがんばってるんだから」など、いま読んでもパンチがきいたセリフがあります。個人的にはもっと登場してほしかったです。サイラス・マーナーの母親も、薬になる野草を摘んでいたというあたり、魔女みたいな存在で、薬草についてのサイラスの距離感も興味深いです。
小尾 エリオットは、人を観察する目が鋭くて、描写が怖いくらいに上手です。
私が1作ずつ訳したオースティン、ブロンテ、エリオットという3人の女性作家の中で、やはりエリオットはすごいと思いました。
エリオットの作品では、『フロス河の水車場』も好きです。これも、最初に接したのは、ずいぶんと昔、大学生の時でした。津田塾の英文講読の教科書に使われたのが、オースティンのPride and PrejudiceとエリオットのThe Mill on the Flossでした。辞書を引いて引いて、読んで読んで……。先生に指名された人が英文和訳を答えるのですが、みんな戦々恐々としていました。そのおかげで、作品の魅力や面白さに気づく前に、難しいという印象が先立ってしまったんですね。
でも、大人になってから読んだ『フロス河の水車場』は感動的でした。エリオットの自伝的な要素があるというのも興味深いです。
そんなふうに津田塾の同級生はエリオットで苦労しているから、もっと長い『ミドルマーチ』なんて言ったら、「えー?」って顔をしますよ。それにしても、廣野由美子さんの『ミドルマーチ』の翻訳はすばらしいですね。こんなに面白い小説だとは知らなかった。
──今回、古典新訳文庫の帯の惹句は「人間を救うのは愛である 孤独な機織りサイラスの運命は?」でしたが、87年前の広告では「女に裏切られた男が一少女の愛に眞人間に返る經路を描いた」とありました。初版から10年後1933年に出た飯田敏雄さん訳『サイラス・マアナー』(新潮社)の巻末の広告です。サイラスが人との接触を拒むようになった決定打は、親友ウイリアムの裏切りだと私は感じたのですが、婚約者だけ前面に出していて「犯罪のかげに女あり」みたいな発想ですよね。ちなみにこの新潮文庫、120頁、35銭でした。
小尾 作品の評価では、作者が小説に顔を出してきて考えを述べるのは、小説として未熟だという批評もあったようですね。
訳者として正直に言うと、物語の流れのなかに突然、作者の見解が出てくるので、訳すときに戸惑うというか、これがなければラクなのになあと思わなくもないですが(笑)、よく読んでみると、それがエリオットの魅力なんですよね。
これがなければ、若い読者もスムーズに話の流れについていけるんじゃないかと思ったりした私に、これこそエリオットのものの見方、世界観、人間観がはっきり示されているわけだからと、これなくしてはエリオットではないと助言してくださった編集の方たちには感謝しています。
小尾 十九章で、サイラスと向きあうゴッドフリーが、サイラスをMr. MarnerではなくMarnerと呼び捨てにするところなど、ラヴィロー村の社会のあり方がはっきり浮かび上がっていますね。
──あの場面は印象的です。父が上流階級だったとわかり、その財産を継いでメデタシメデタシとならないところが痛快です。
小尾 エピーの性格もあるでしょうけれど、育った環境が言わせたのでしょうね。だって彼女は、サイラスに拾われて、愛情いっぱいに育てられて幸せだったんですもの。これが孤児院などにいて不幸せだったら、現れた血縁の金持ちの父のところに行くかもしれませんね。そう彼女に思わせたサイラスは、人間的にすごい人物だと改めて感動します。
──育児をする男性、つまりイクメン。しかも血縁のない子を育てるシングル・ファザーですよね。21世紀の今でも時代の最先端です(笑)。ゴッドフリーとナンシーは、喜んで自分たちのところに来るだろうと疑わず、庶民の幸福を理解できない。上流階級の滑稽さにも読めます。エピーとエアロン、あの二人はうまくいくでしょうか。
小尾 うまくいきますよ! 親を亡くした幼子を、サイラスという変わりものの独身男性が育てる、それを村の人たちが支えるという階級社会の中での助け合いも見事に描かれていますね。よそものを排除するという姿と裏腹ですけれど。
昔のランタン・ヤードを訪れるところもいいですよね。当時のものが何もないという、殺伐とした町の風景があって……。
──あそこで、19世紀の資本主義が発達する様子が描かれているんですね。ちょうどエンゲルスが、『共産党宣言』を出す3年前に『イギリスにおける労働者階級の状態』(一條和生・杉山忠平訳、岩波文庫)で、劣悪な長時間労働、児童労働もあったイギリス(ロンドン、マンチェスター)の悲惨な労働者の状況を描いています。産業革命によって、サイラスのような手織りから自動織機になり、それでお金を儲け資本蓄積していく。
小尾 まさにその時代です。騒音がひどく、ごちゃごちゃと大勢の人が住み、せわしなく行きかう人の血色は悪い。空も見えず、いやな臭いがする。工場ができて、ランタン・ヤードの様子も人の暮らしも、すっかり変わっていた。
──あそこで、裏切った親友や婚約者とばったり会うのではないかと私は期待したのですが。
──え? それより、サイラスの無実が晴らされたかどうかでしょう⁈
小尾 それはどちらも、わからないほうがいいですよ(笑)。
──それと、なるほどと思ったのは、エアロンです。食べ物を作る土地はあるのに活用されていない、それを耕せば食糧は十分に人々にいきわたるみたいなセリフがあって、エリオットは思想書などの翻訳もしていただけに、社会構造についての見方をしのびこませているのだと思います。この作品、読めば読むほど、面白い。読書会をしたくなりますね。
小尾 私の友人や知人で、この本を読んでくれた人たちから「泣きました、感動しました」という感想が送られてきて、とても嬉しいです。
私は、大学3年の時に創刊された早川書房の「ミステリマガジン」をずっと愛読していました。ミステリの翻訳をしたくて早川書房の門を叩いたのですが、ちょうど「SFマガジン」創刊の嵐に巻き込まれて、ほとんどSF作品を訳してきました。
あれほど熱読していたミステリの翻訳はごくわずか。光文社古典新訳文庫で『ジェイン・エア』『高慢と偏見』を訳したとき、「SFの小尾さんがなぜ?」という噂が飛びかったとか。
出版社から与えられた作品を訳してきて、お断りしたものはありません。そうして訳した本が100冊以上になりました。
自ら訳したいと出版社に申し出た作品は、『サイラス・マーナー』が初めて、私にとって記念碑となる訳書です。みなさんも、本当のサイラス・マーナーにぜひ出会ってください。
──ありがとうございました。
(聞き手:大橋由香子、中町俊伸)
『鎌倉ペンクラブ』第22号(2020年1月)に小尾芙佐さんの「マイシネマ・ストーリー:わたしの映画遍歴」というエッセイが掲載されています。また『SFマガジン』2020年2月号には、「私の思い出のSFマガジン」という創刊60周年記念エッセイを小尾さんも寄稿しています。