ドイツ語の吉川美奈子さん、スペイン語の比嘉世津子さん、韓国語の福留友子さんと、映像の字幕翻訳に携わる女たちへのインタビュー・シリーズ第4弾は、イタリア語の吉岡芳子さんにご登場いただきます。
2020年春、新型コロナウィルスの影響で人と会うことも憚られ、会議やイベントはオンラインになっていきました。「打ち上げが楽しみで仕事するのに、打ち上げどころか、打ち合わせもできないのよね」とおっしゃる吉岡さん。外出自粛が少しずつ緩んできたある日、吉岡さんにとっても(私にとっても)久しぶりの「生インタビュー」を(おそるおそる)敢行いたしました。
なぜ、イタリア語や映画に惹かれていったのか、イタリア映画の魅力、そしてデジタル化される前、フィルム時代の映画字幕についても語っていただきます。
2回目 episodio2は、憧れのイタリアでの日々と、字幕翻訳の仕事をするまでのお話です。
吉岡芳子さんプロフィール
よしおか よしこ 1951年東京都生まれ。早稲田大学日本文学科卒業。外資系企業への勤務、イタリア留学を経て、イタリア語字幕翻訳者へ。主な字幕翻訳作品に、タヴィアーニ兄弟の『父 パードレ・パドローネ』『カオス シチリア物語』、ベルトルッチの『1900年』『暗殺の森』、フェリーニの『甘い生活』『81/2』『女の都』、トルナトーレの『ニュー・シネマ・パラダイス』、ベニーニの『ライフ・イズ・ビューティフル』、オルミの『ポー川のひかり』など。訳書『マリア・カラス 情熱の伝説』(クリスティーナ・H・キアレッリ著、新潮社)、『ライフ・イズ・ビューティフル』(ベニーニ、チェラーミ著、角川書店)他。著書『決定版! Viva イタリア映画120選』(清流出版)。
〈構成・文 大橋由香子〉
「字幕マジックの女たち 映像×多言語×翻訳」 Vol.4 吉岡芳子さん〈イタリア語〉Episodio1
「字幕マジックの女たち 映像×多言語×翻訳」 Vol.4 吉岡芳子さん〈イタリア語〉Episodio3
「字幕マジックの女たち 映像×多言語×翻訳」 Vol.4 吉岡芳子さん〈イタリア語〉番外編
episodio2 映画を読み取る技と、映画を愛する心を教わった
外資系企業に3年間勤務し、お金が貯まった吉岡さんは、1975年ついにイタリア行きを決行する。25歳だった。
「『めざすは、チネチッタの映画実験センター』と言いたいところですが、実は何の情報も得られず、ちゃんとしたプランは立っていなかったのです。とくにイタリアの情報は観光関係のものばかり。それもアメリカなどに比べるとはるかに少ない。それでも、どうしてもイタリアへ行きたい!一世一代の見切り発車でした。ローマに着いたのは6月末。イタリアの新学期は10月ということは分かっていたので、それまではイタリア語学校で基礎固めをするつもりでした。日本で予約したホテルは3日ほどで引き払って小さなペンションに移り、日本で調べておいたイタリア語学校に通い、ローマ暮しが始まりました。
見るもの聞くもの全てが新鮮で。市内地図を買って歩きまわりました。ある時、ちょっとステキな古書店に行きあたって、つい入ってしまった。そうしたら、なんと、フェリーニ監督の『道』のシナリオ採録本があったの。即、買いました。いつかフェリーニ監督に会えたらサインしてもらおう! と心に決めてね。ローマにいればきっと出会えると思いこんでいたのです」
ローマにも少し慣れてきた7月末、イタリア語学校が夏休みになってしまったので、“外国人学生がとりあえず行く”というペルージャの外国人大学に、吉岡さんも行くことにした(当時は、インターネットで願書を出すなどありえなかった時代、最初のイタリア語学校も、この外国人大学も、現地に着いてから学校に出向いて申し込んでいた)。
中部内陸の典型的中世都市である小さな美しい町で、イタリア語の夏期講習に通うのだ。たまたま知り合った老夫婦の家に下宿させてもらうという幸運にも恵まれて、イタリアでの初めての夏休みは充実したものになった。
やがて秋になったのでローマへ戻った。
ところが、入学するつもりの映画実験センターは閉鎖されていた。政治的混乱や経済的理由のためだったようだ。
イタリアは、1969年フォンターナ広場爆破事件を皮切りに、武装組織によるテロ活動が活発化し、1970年代、ヨーロッパは「鉛の時代」に突入する。(マルガレーテ・フォン・トロッタ監督の映画『鉛の時代』は西ドイツの過激派やテロリズムを描いている。1977年秋にドイツ赤軍に誘拐された経済界の要人の遺体が、ベルギーで発見された)
吉岡さんは、目的の学校が閉鎖されていて、しばし途方に暮れた。しかし、イタリア語学校のツテを頼って、私立の映像メディア・スクールに入学することができた。それでも10月に始まるはずの新学期は11月にずれこんだ。
「日本なら物事はスムーズに進むのが当たり前ですが、イタリアでは、いちいち滞るんです」
そして、11月2日。『ソドムの市』の撮影を終えたピエロ・パオロ・パゾリーニ監督が殺される事件が発生。追悼集会の広場を埋め尽くした群衆の中に、吉岡さんもいた。パゾリーニ監督を殺したのは極右のネオファシストだとも言われた(事実は未だ定かではない)。
イタリアも「鉛の時代」が続き、78年には「赤い旅団」という極左集団がアルド・モーロ元首相を誘拐暗殺する。
のちに吉岡さんが字幕翻訳することになった映画『夜よ、こんにちは』はこの事件を描いた作品だが、当時のイタリアは、こんな政治的混乱期だったのだ。
膜がかかった状態が急にクリアになった
そうこうするうちに11月半ば、新学期がようやく始まった。
「日本のイタリア文化会館の講座で文法はバッチリだし、ペルージャで夏期講習も受けたし、いよいよ本番だと意気込んだのですが・・・授業はちんぷんかんぷん。先生は『分からないところはどんどん質問しなさい』と言ってくださるが、どこが分からないのかさえ分からない(笑)。
耳に残った数個の単語を書き留めて、下宿に帰って辞書をひき、内容を想像するという状態でした。今なら、簡単に録音して復習できるのにね」
辞書をひき想像力をふくらませる日々を送って約5か月が過ぎたころのある日。
「突然、先生の話が“1フレーズ”そのまま理解できたの。大げさに聞こえるかもしれませんが、映画『奇跡の人』のヘレン・ケラーのようでした。サリバン先生が井戸水をポンプで汲みだして、ざぁーざぁーとヘレン・ケラーの手にかける。すると、それまで暴れていたヘレンが一瞬動きを止めて、手で水を感じ、この冷たい液体が“water”と分かる。あの瞬間みたいでした。それまでの膜がかかったような状態が、急にクリアになった感じ。不思議ですね」
ウンベルト・エーコの記号論、表象論など、目新しい科目も少しずつ分かるようになり、友達との交流もぐんとスムーズになった。
さて、政治的混乱期とは言っても、市民生活は普通に営まれていた。
「ローマは不思議な、魅力あふれる街。ン十年も経った今でも憶えている、とっておきの出来事を話しましょう。
ある昼下がり、テーヴェレ川にかかる大きな橋を一人で歩いていたら、向こうからやってきた、ヒゲもじゃの若者が私の前に立つと、『Roma e’bella.Tu sei bella.Ti do un bacio!(ローマは美しい、君はきれいだ。キスしてあげる)』と言って、おでこにチュッとして『チャオ!』と行ってしまったの、ありえないでしょ、ほかの街では。
もちろん、“スクーターに乗った二人組”という古典的なひったくりにも遭ったし、バスの中でスリのおばさんと戦ったこともありますよ。でも、ローマはやっぱり世界でただ一つの街」
吉岡さんは、すっかりローマに魅入られてしまったようだ。
アルバイトも経験した。航空会社勤務の友人の紹介で、日本人観光客の案内をするイタリア人ガイドの通訳だ。当時イタリアの通貨は“リラ”。1リラは0.3円くらいだった。物価も日本に比べるとかなり安く、東京で暮らすよりずっと楽だったが、臨時収入はありがたかった。自分では決して足を踏み入れない高級ブランド店に入ったのもアルバイトの副産物だ。
「半世紀前のローマのブランド店といえば、グッチがダントツ一位。スペイン階段の真ん前の Via Condotti にあるグッチの店は、いつも観光客でいっぱいでした。通訳でグッチへ行った時、某社長夫人が日本円で50万ほどのバッグをあっさりお買い求めになって、世の中にこんなに高いハンドバッグがあるなんて!と初めて知りました。
このコンドッティ通りには、ブルガリ、フェラガモ、カルティエの小さな店もあったかな。Gucciのお向かいに『カフェ・グレコ』があり、ここも観光客御用達。なので、このブランド通りを地元の民は敬遠していました、『高いばっかりでダサい』って。もちろん、やっかみも半分以上ですけど(笑)。私にも、この通りに並行して何本かある通りのほうが、特色があって楽しかったですね、センスのいい文房具店やしゃれた雑貨店があって」
そして、3年が過ぎた。
専門学校の課程も終了し、クラスメイトの多くはそれぞれの故郷へ帰って行く。「そろそろ潮時かな」と吉岡さんも帰国することにした。
結局、この滞在中にフェリーニ監督には会えず、『道』にサインをもらうことはできなかった。
フランス映画社の柴田駿・川喜多和子との出会い
3年ぶりの日本。電車は定刻に発着するし、バッグを肩にかけて歩いてもひったくられる心配はない。帰国当初は、その安心感にしみじみと浸ったそうだ。
そんな吉岡さんは、イタリア映画の字幕翻訳に携わりたいと漠然と考えていた。映画配給会社に電話をしてみるが「採用はありません」という答えが返ってきたのみ。友人のツテを頼りに、何とか道が拓けないだろうかと思い悩む日々が続いた。
そんなある日、フランス映画社社長の柴田駿(はやお)さん、副社長・川喜多和子さんから連絡がきた。
「お恥ずかしい話ですが、どういう経由で私に声をかけてくださったのか、どうしても思い出せないのです。イタリアから帰国した映画好きがいると、どなたかからお聞きになったのかもしれませんね。当時は、イタリア映画は英語版からの重訳だったので、直接、イタリア語から翻訳したいと考えていらしたようです」
柴田さんから学んだことは、「映像でわかることに言葉は要らない。正確さは必ずしも正しくはない。言葉を切り捨てるのではなく凝縮することが大事」だという。
「フランス映画社は、銀座1丁目の小さな、かなり古いビルにありました。ビルの何階だったのかさえ憶えていないのだけれど、そう広くないオフィスには書類や本があふれていました。そこへ、翻訳した原稿を持っていくと、柴田さんが添削してくださる。和子さんも目を通されてアドバイスをくださる。
つまり、字幕翻訳の基本から、文字通り手とり足とり教えてくださったのです。まさに人生の恩人です。柴田さんからは映画を読み取る技を、和子さんからは映画を愛する心を教えていただきました」
川喜多和子さんは、川喜多長政、川喜多かしこの娘。15歳でバレエを学ぶためにイギリスに留学し、ヨーロッパ各国の文化に親しんだ。両親とともに、ヨーロッパで開催される数々の映画祭に参加。フランス映画社はヨーロッパ映画の輸入だけでなく、日本映画の海外進出にも大いに貢献していた。
「和子さんは、映画に関わる全ての人に心からの敬意をはらう方でした。“自分のことは、いちばん最後に考えなさい”という、母かしこさんの教えを、つねに実行なさっていました」
こうした修業を経て、『父 パードレ・パドローネ』(タヴィアーニ兄弟監督)がクレジットに吉岡さんの名前が出た最初の作品である。
大好きなイタリア語の字幕翻訳を仕事にした吉岡さんは、フランス映画社の仕事をはじめ、他の映画配給会社からも仕事がくるようになり、イタリア映画祭でも活躍する。
かつて映画字幕の文字は手書きだった
今回、吉岡さんのお宅にインタビューに伺った時、書き文字の原稿と銅板を見せてくださった。
独特の書き文字で字幕映画を観たことがある人は、現在30歳以上だろうか(小学生で映画鑑賞していればもっと若い?)。
字幕文字は、画数の多い漢字は略字にしたり、瞬時に読みやすいようバランスをとったりと、独自の工夫が凝らされている。また、例えば口という字のように囲まれている形は、どこかに穴が空いている。
当初は外国映画配給会社の制作部や字幕工場の専属職員が担当していた。映画字幕師、タイトル・ライター、書き屋さんなどと呼ばれ、フリーランスの人もいた。
21世紀の今は消えてしまった字幕文字を含め、外国映画のフィルムに日本語字幕が入るまでのプロセスについて、ごくかいつまんで説明しよう。時代や言語による違いがあるが、吉岡さんの経験をもとに作業を再構成してみると……。
字幕翻訳者が、まず映画を見る。試写の後、録音した映画の音声を聞きながら、原語のダイアローグ・リストのセリフに、息継ぎなどで適度な長さに切る(この作業を「ハコ書き」「ハコ割」などと呼ぶ)。
→セリフのブレスや文節最初にスラッシュ(/)を入れ、そこに通し番号を振っていく。字幕制作会社の専門スタッフが、この番号ごとにセリフの長さ(時間)を測ってリストにする。
→このリストにそって、1秒4文字、1行10字で2行まで(縦書きの場合。横書きだと1行12〜13字2行)という制限の中、字幕翻訳者が日本語にしていく。
配給会社担当者とのやりとり(中間チェック)を経て、字幕原稿が完成する。
「イタリア映画の場合(あくまで私の経験ですが)、最初の『ハコ書き』の段階がいちばん苦労なのです。ダイアローグ・リストと実際に画面で語られるセリフが違ったり、1〜2行抜けたりするのは日常茶飯事。まるまる3ページ抜けていたこともありました。こういう場合はヒアリングで補筆するのですが、聞いたことのない方言やスラングが混じっていることもあって、そんな時はイタリア人の友人に助けてもらうしかないのです。間違いなく通し番号を振るのも、意外と大変なんですよ。当時は原稿も手書きでしたから」
こうして字幕翻訳者が完成させた原稿を、今度はタイトル・ライターが、通し番号ごとに白い紙にペンを使って黒インクで書く。
この白紙をフィルムサイズに縮小して撮影し、銅板や亜鉛版に焼き付けて文字の部分だけ腐食させると、文字が浮いた凸版ができる。
口などの字に切れ目を入れるのは、この過程をスムーズにするためだという。
銅板に1枚ずつ通し番号を振り、切断。(左は横書き、右の2つは縦書きの字幕)
→フィルムに乳剤を塗り柔らかくしたところに銅板文字を打っていく(パチ打ち)。
→塗った薬を乾かすため字幕を打ったフィルムをハンガーにかけて乾かしフィルムバスケットに収める。
できたフィルム(初号)を、字幕翻訳者、配給会社担当者が試写する。
ミスがあった場合は、この段階で修正して「完成稿」を作り、それを公開用のフィルムに打ちこむ。
この気の遠くなるような手作業、吉岡さんが手がけた作品では、 佐藤英夫さんや片平哲さん(九段工房)の手書き文字が多かったという。佐藤さんの文字は、息子さんによってデジタル文字になっている。
「字幕文字は手書きですから、ライターさんによって微妙に異なります。どんなに長い映画でも、書き手は一人。標準的な90分の映画でも字幕の数は約800枚。長編になれば1000枚、2000枚にもなります。その全部を、しかも一枚ずつ異なる内容を同じ書体で書くなんて! まさに職人技の極致です。日本語という文字文化の一つの到達点とさえ言えると思います」
いよいよ吉岡さんの夢がかなうお話は、来年のお楽しみに。
(続く)
鎌倉駅から小町通りを歩き、八幡宮前の通りに抜ける手前を左に曲がると、黒い板塀が現れる。そこには、川喜多長政・かしこ夫妻の旧邸を建て替えた映画記念館が佇んでいる。
フィルム映写機で上映する映画館、資料室、そして展示室。吉岡芳子さんが映画字幕の仕事をするきっかけとなった川喜多和子さんの姿も、常設展示の写真で見ることができる。
筆者が訪れた日の企画展は「生誕100年 激動の時代を生きた二人の女優—原節子と山口淑子」。日独合作映画「新しい土」完成後、原節子と川喜多夫妻が渡欧した時の写真や、出演作の映画ポスターから、時代の変節が感じられる。
12月18日からの企画展は「バレエ映画の世界—日本バレエ発祥の地・鎌倉」。「赤い靴」ほか、映画の上映やトークも楽しみだ。外の遊歩道から見える別邸(旧和辻邸)も、趣がある(この別邸については、本連載の後半に登場するので、乞うご期待)。
大橋由香子(おおはし ゆかこ) プロフィール
フリーライター・編集者。月刊「翻訳の世界」(バベル・プレス)やムック「翻訳事典」(アルク)等で翻訳者へのインタビュー取材を手がけてきた。光文社古典新訳文庫の創設時スタッフでもある。著書『同時通訳者 鳥飼玖美子』『生命科学者 中村桂子』(理論社)『満心愛の人 益富鶯子と古謝トヨ子:フィリピン引き揚げ孤児と育ての親』(インパクト出版会)『異文化から学ぶ文章表現塾』(新水社、共著)ほか。『エトセトラ』(エトセトラブックス)で「Who is She?」連載中。