前回のVol.5 中国語・樋口裕子さんからずいぶん時間が経過してしまいました。やっとVol.6のスタートです。今回は、ヒンディー語の字幕翻訳をなさる松岡環さんのご登場。
日本でのインド映画ブームは、1998年公開の『ムトゥ 踊るマハラジャ』で一気にファンが増えました。その後の紆余曲折を経ながら、『バーフバリ』二部作(2105、2017)を経て、現在は『RRR』(2021)の大ヒットによって、すっかり定着・拡大中です。このようにインド映画を楽しめるようになるまでには、多くの人たちの努力と試行錯誤がありました。松岡環さんは、その中心的な人物のおひとりです。
インド映画の紹介に始まり、字幕翻訳も手がけるようになる経緯を知るために、まずはご両親の人生を追ってみましょう。(以下、人名の敬称は略させていただきます)
松岡環さんプロフィール
まつおか たまき 字幕翻訳者、アジア映画研究者。1976年からインド映画の紹介と研究を開始。字幕翻訳を手がけた作品は『ムトゥ 踊るマハラジャ』『きっと、うまくいく』『パッドマン 5億人の女性を救った男』ほか多数。著書に『アジア・映画の都』(めこん、1997)『レスリー・チャンの香港』(平凡社,2008)、共編著に松岡環・高倉嘉男著、夏目深雪編著『新たなるインド映画の世界』(PICK UP PRESS、2021)ほか。
松岡環さんの共編著書
〈構成・文 大橋由香子〉
〈भाग(バーグ)1〉
インド映画紹介にいたるファミリーヒストリー
松岡環が生まれたのは1949年1月13日。兵庫県の西、岡山県の近くにある赤穂市有年(うね)だった。赤穂といえば、塩と「忠臣蔵」の赤穂浪士で有名な土地。有年は内陸部で山に囲まれていたが、環は小さいころ海岸べりに行くと、海水を自然乾燥させる塩田があったのを覚えているという。
父である松岡秀夫(1904年2月生)は、6人兄弟姉妹の四男だった。秀夫の父(環の祖父、会ったことはない)は、紺屋(染め物屋)だったが、長男には酒造会社を経営させ、次男は大学医学部に進ませて地元で松岡病院を開設した。
気楽な四男坊の秀夫は、村の小学校を卒業してから、有年よりも都会の龍野市の中学、金沢市の第四高等学校、そして京都大学医学部で学んだ。京大では陸上部で、色が黒いことから「クロ」と呼ばれていたという。
病院でインターンをしていたとき、看護婦さんに「松岡先生は気が弱いから眼科だわね」と言われ、眼科医として京都の大学病院に勤務するつもりで見合いをして、結婚相手も決まっていた。
そんなとき、松岡病院の院長である兄・與之助が、妻と幼い娘4人を残して急死してしまう。急きょ、秀夫が病院を継ぐことになり、故郷の有年に戻ってきた。
一方、環の母・木部﨑阿やは、1909年3月大阪市此花区上福島北(現福島区福島)、大阪駅に近い「都会」で生まれ育った。阿やは、四女一男の二番めの次女、下に三女、長男、四女がいた。
阿やの父・木部﨑了道(環の母方の祖父)は、寺の住職をしながら、大阪大学の非常勤講師としても勤務していた。
「学者特有の浮世離れした人物だったようで、母の一番下の妹である叔母のちゑは、『えらいぼんやりさんでな、いつも考え事ばっかりしてはったからやと思うけど、阪神電車に轢かれて亡くなりはったんよ』と言ってました」
悲しい話のはずだが、環にとって祖父は、「学問に夢中のぼんやりさん」という印象が強い。
寺の跡継ぎとなる息子(環の母の弟)は幼かったため、親戚や知人の僧侶に出張してもらって寺を守っていたが、やがて息子も病死。結局、親戚から養子をもらって寺を存続させた。その前に四人の娘たちは全員、結婚して生家を離れていた。
阿やは、京都とかの都会で勤務医師の妻になるはずが、1932年に兵庫県有年村に嫁ぎ、松岡病院の院長夫人としての新婚生活をスタートさせた。
都会の大阪からやってきたお嫁さんに、最初、村の人たちは好奇心いっぱいだった。
文金高島田の頭が人力車の幌(ほろ)につかえると「大きな花嫁さんや」と言われ、「洗濯物から石鹸のええ匂いがする」「あの奥さん、石鹸つことってや」などと、いろいろ噂されたという。
多趣味で考古学好きな医者の父
1935年には、長女・都(みやこ)が誕生したが、「丹毒」(細菌感染症)によって生後3ヶ月ほどで亡くなってしまう。1939年1月に長男・秀樹が誕生。阿やは、病院長の妻としての仕事のほか、農業もやって夫を助けながら子育てをした。
「父の専門は眼科でしたが、村で唯一の病院ですから時には内科や外科も診察し、山陽本線が通っていたため鉄道監察医や、小学校の校医もする『なんでも屋』でした。自分のことを『亡くなった兄の長女・綾子が成長して医師になって戻ってくるまでの腰掛け院長』と割り切っていたようです。ところが、祖母と亡兄の妻も亡くなり、兄の4人の娘を、自分の娘同様に育てなくてはならなくなり、太平洋戦争などの影響もあって、かなり長い期間にわたって院長の座にとどまることになりました」
病院に図書室などを作って文化センターのようにしていた亡兄の遺志を継いで、秀夫も「松岡文庫」という書籍コーナーを設け、患者だけでなく村の人たちにも本を貸し出した。(大きくなってからの環は、以前、松岡文庫にあった本でモーパッサン著『脂肪の塊』を読んだが、戦争中の出版物のせいか伏せ字があったのを覚えている。)
1934年、秀夫は重度の喉頭結核にかかり、京都府立医大病院に入院する。
「列車で京都に発つ時は、たくさんの人が見送りに駅にきてくれたそうですが、みんな『これで見納めやな、次に帰ってくるときはお棺の中やで』と思っていたらしい。幸運にも完治して帰ることができた上に、結核罹患の病歴のために徴兵を免れました。日中戦争から太平洋戦争期にかけて、配給システムなどを見た父は、『これは社会主義に移行しているのだ』と歓迎したらしいです」
日本とイタリアと三国同盟を結んだナチスドイツの正式名称も「国家社会主義ドイツ労働者党」だった。ファシズムと社会主義が近しいものだということは、皮肉なことに、その後の歴史も物語っている。
秀夫は大政翼賛会の系列にある有年文化協会を作って雑誌を発行するなど、積極的に戦争体制に協力した。そうした活動によって、戦後は公職追放となってしまう。
公職追放で暇になると、秀夫は考古学に熱を入れ出した。兵庫県南西部は、古代から豪族が支配し、古墳など様々な遺跡が残っている。出土した遺物が、村の文化施設のようになっていた松岡病院に持ち込まれることもあったようだ。
環が生まれたのは、そんな1949年1月13日だった。
「命名は、兄の名前・秀樹から、『ひでき』『たまき』と韻を踏んだそうですが、亡くなった姉も『都』と漢字一文字だったので、一文字だけの『環』はそれに倣ったのかもしれませんね」
父は遺跡の発掘や遺物展示を本格化させる。お乳に栄養があるというので飼っていたヤギの小屋を後に整備して、「有年考古館」と称して展示を始める。
姫路に転居し、日本舞踊を習った小学生時代
環が有年にいたのは、3歳までだった。父の兄の娘・綾子が無事に大学を終えて医師となり、同じ医師の伴侶を得て、長男・徹(とおる)が生まれる。徹と環は、ほぼ同じ年、幼いせいか、よくケンカしていた。
「お互いに気が強かったのかもしれませんね。両親が徹ちゃんと近くにいないほうがいいと思ったのか、有年の学校では教育が心許ないと思ったのか、姫路市に引っ越すことになりました。10歳上の兄・秀樹も大阪府豊中市の母の妹・と志の家に下宿して中学に通っていたんです。姫路市の八代東ノ町(現・八代本町)というところに家を買って、兄も一緒に暮らすことになりました。また、母方の祖母も、戦争中に有年に疎開してそのまま同居していたのですが、一緒に姫路に越してきて、私が幼稚園の時に亡くなるまで同居していました」
父・秀夫は、毎朝7時すぎに家を出て、バスで姫路駅まで行き、山陽本線で有年まで通った。松岡病院は松岡医院と改称され綾子夫婦が経営したが、村の文化センター所長のような秀夫には、そのまま「院長」として勤めてもらうことになった。有年駅から病院まで歩くと1時間かかるため、毎朝、綾子の夫が車で駅まで迎えにきてくれた。
ちなみに、秀夫の亡き兄の4人娘(環のいとこ)のうち、長女は病院を継いだが、妹たちはその後、どうなったのか。
次女の美枝子は、神戸にある私立学校経営者の息子と結婚したが、夫が戦死し、その学校で長く教師や寮の舎監として勤務した。三女の暢子は赤穂市坂越の医師に嫁ぎ、男女の子どもを育てた。四女の茂子は障害児教育に携わった後に、神戸市の酒店の主人と結婚、三女をもうけたが、早く亡くなっている。
「両親の4人の姪、つまり私のいとこたちは、育ててくれた父と母に感謝してくれていて、後年その恩恵が私のところにやってきます。実家にいた頃はお盆と暮れに色々なプレゼントを毎年もらいました」
家の窓からは、姫路の名物・姫路城が原生林越しに遠くに見えて、環境のいいところだった。
城北幼稚園、城北小学校と、隣り合う2カ所に7年間通学した。広嶺中学校は小学校の通学路からさらに3倍ぐらい北にあり、中学3年生になって自転車通学できるまでは、毎日歩いて通った。ちなみに高校は、幼稚園の向かいにあったので、自宅から高校までの道は都合13年間歩いたことになる。
「中学校からの帰り道には、田んぼでレンゲをつんだり、山できれいな石を拾ったりと、よく寄り道をしました。今からすると、のんびりした生活でしたね」
有年に縁のある佐野先生という藤間流の女性師範が姫路にも教室を開いたので、環も6歳から日本舞踊を始めた。「菊づくし」「京の四季」「祇園小唄」「奴さん」などの短いものから始まって、「汐汲み」「雨の五郎」「外記猿」など長唄の踊りも習った。母に似て背が高い環は、男役をやらされることが多かった。
「男役をやるのは不満でしたが、踊りは好きでしたね。
『近江のお兼』では、石を持ち上げる力持ちの女の役なんかもやりましたし、親戚の結婚式で踊ることもありました。父から引き継いだ“目立ちたがり屋”だったので(笑)、人前で踊るのが良かったのかも。中学になると勉強が忙しくなって、やめてしまいましたが、今も歌舞伎の演目や長唄など、たまに『あ、あれだ』とわかるのは日本舞踊をやっていたおかげ、ありがたいです。体を動かすことは好きになったものの、学校の運動会や体育などの運動は苦手でした」
松岡家は浄土真宗で、毎食、手を合わせて食前の祈りをする習慣があった。母方の父がお寺のお坊さんだったこともあってか、行儀などには厳しかったという。
このように仏教系の家庭にも関わらず、環は小学校5年生ぐらいから高校生まで、姫路にあるカトリック教会の日曜学校に通っていた。聖書の話などが面白くて、教会の日曜ミサにも出席していた。ベルギー人の神父がいて英語も教えてもらっていたので、親は塾のように見なしていたのかもしれない。
教会に通うことは許していた親も、環が洗礼を受けたいと言った時は、「大人になってから考えなさい」と止めたそうで、結局、信者にはならなった。
(続く)
(原題『3 Idiots』ヒンディー語/2009、日本公開2013年5月18日)
理系大学ICEはインドの超エリートが進学する超難関校。型破りな自由人ランチョー、動物の写真を撮るのが好きなファルハーン、貧しい親の期待を背負う苦学生ラージュー。この3人の同級生が繰り広げるキャンパス・ライフを描きながら、10年後の彼らの姿も追っていく。
ガリ勉を強いる頭の硬い学長と、その娘で、父に反発しランチョーに惹かれるピアも登場し、笑いと涙の学生生活が10年後の現在へとつながってくる。ランチョーの生い立ちの謎も絡まり、インドの学歴社会の過酷さとともに、熱い友情と思いがけない展開に、きっと心があたたかくなる。
監督:ラージクマール・ヒラニ 主演:アーミル・カーン
大橋由香子(おおはし ゆかこ) プロフィール
フリーライター・編集者。月刊「翻訳の世界」(バベル・プレス)やムック「翻訳事典」(アルク)等で翻訳者へのインタビュー取材を手がけてきた。光文社古典新訳文庫の創設時スタッフでもある。著書『同時通訳者 鳥飼玖美子』『生命科学者 中村桂子』(理論社)『満心愛の人 益富鶯子と古謝トヨ子:フィリピン引き揚げ孤児と育ての親』(インパクト出版会)『異文化から学ぶ文章表現塾』(新水社、共著)ほか。