「字幕マジックの女たち」ではこれまで、ドイツ語の吉川美奈子さん、スペイン語の比嘉世津子さん、韓国語の福留友子さん、イタリア語の吉岡芳子さん、中国語の樋口裕子さんにインタビューしてきました。
Vol.6 インド映画の松岡環さん登場に合わせるかのように、筆者がよく行く映画館、東京新宿K‘s cinemaでのインド大映画祭(6月17日〜7月7日)、キネカ大森での「インディアンムービーウィーク2023」(6月16日〜7月13日)をはじめ、さまざまな映画館で『RRR』ほかインド映画を観られるようになっています。(*末尾のミニ情報参照)。
この熱いインド映画ブームが日本に生まれるまでには長い道のりがあり、そのために努力したおひとりが松岡環さん。ところが連載1回目(バーグ1、ヒンディー語で「第1部」のような意味)ファミリーヒストリーでは、インドの「イ」の字も出てこない!とご不満な読者もおられたかもしれません。
お待たせしました。バーグ2では、松岡さんと映画の関わり、そしてインドとヒンディー語にたどりつきます。インドとの出会いがいかにドラマチックだったか、ぜひお楽しみください。
松岡環さんプロフィール
まつおか たまき 字幕翻訳者、アジア映画研究者。1976年からインド映画の紹介と研究を開始。字幕翻訳を手がけた作品は『ムトゥ 踊るマハラジャ』『きっと、うまくいく』『パッドマン 5億人の女性を救った男』ほか多数。著書に『アジア・映画の都』(めこん、1997)『レスリー・チャンの香港』(平凡社,2008)、共編著に松岡環・高倉嘉男著、夏目深雪編著『新たなるインド映画の世界』(PICK UP PRESS、2021)ほか。
松岡環さんの共編著書
〈構成・文 大橋由香子〉
〈भाग(バーグ)2〉
大阪のど真ん中、大阪外国語大学でヒンディー語と格闘する
子ども時代から、ラジオを聞くことが日常の娯楽だった。ラジオはもちろんNHK。落語や浪曲などの演芸が、子ども心にも楽しかった。テレビは、親が見せたくなかったのか、近所の家より買うのが遅く、1964年の東京オリンピックの頃、やっと家にやってきた。 小学生のとき、自宅から歩いて5分ぐらいのところに貸本屋ができた。マンガの単行本がたくさん揃っていたので、ときどき借りに行った。
「マンガが大好きで、いくらでも読んでいたい。でも、家で読んでいると母に叱られるので、10円だったかな、お金を貸本屋さんに渡して、その場で立ち読みさせてもらったこともあります。少女マンガの雑誌では『りぼん』を夢中になって読んでいました。すると母に、『手伝いをしなさい』といつも叱られました。 男の子向けのマンガ雑誌『少年』や『冒険王』は、近所の男の子の家に行って読ませてもらってましたね。うちの親だけではなく、当時はテレビやマンガに批判的な大人が多かったと思います。活字の本では、『世界の童話』『世界の神話』といった類いの本を買ってもらって、よく読んでいました」
中学を卒業するまでは、体格も良くて男子よりも大きかった。その上、勉強は常にトップクラスの環さん。
「大きな顔をしてましたね(笑)。小学校時代はガキ大将と言ってもいいかもしれません。男の子たちを引き連れて、自転車で遠出したりしていました」
中学生になると、マンガは卒業して『女学生の友』という雑誌を定期購読するようになる。少女小説が何本か連載されているA5版の雑誌で、母も楽しみにして読んでいた。母が購読していたのは婦人雑誌『主婦と生活』で、環もときどき見ることもあった。
都会育ちの母と姫路の映画館に通い、高校時代は年間63本
母・阿やは、姫路に来てから、かつての映画好きの血が目覚めたのか、環をよく映画に連れて行ってくれた。 阿やの母親(環の祖母)は、東京女子師範学校(現お茶の水女子大)を卒業(あるいは専攻科の修了)したらしく、娘たちにも高等教育を受けさせた。姉妹4人とも、東大阪市にある樟蔭女学校の短大にあたる女子専門学校(女専)を修了している。阿やの専攻は食物科で、調理師の免許も持っていた。
姉妹たちは若い頃、大都会の文化を享受していたようで、樟蔭に通うかたわら、梅田(大阪駅前の繁華街)の映画館によく通ったという。その時の映画グッズのいくつかを残していた母は、1965年ごろに「これを淀川長治さんに送ってほしい」と言いだし、環さんは、淀川氏が編集長をしていた『映画の友』という雑誌の編集部気付けで送ったこともあった(反応は何も返ってこなかったそうだが)。
「母は、若い頃からの映画好きだったんですね。有年(うね)では映画など見られなかったでしょうから、姫路に引っ越してからは、『この子が見たがるから』と私を口実にして、昼間、映画館に行き、父が帰るまでに夕食のおかずの材料を買って帰宅していました。1960年代は映画の全盛期でしたから、姫路市だけで5つか6つ映画館があったと思います。姫路駅ビルができて『文化ホール』というミニシアターができると、欧米の名作映画を再映のかたちで上映してくれました。『黒い牡牛』(1956年、アメリカ)や、ディズニーの『砂漠は生きている』(1953)など、2週間に1回だったか、作品が替わるたびに母と観に行ったものです」
父の秀夫も映画は嫌いではなかったようで、お正月などには東映や松竹の2本立てに連れて行ってくれた。父の好みは日本映画で、中村錦之助や大川橋蔵などの時代劇をよく観ていた。
両親とも、博物館や美術館通いも好きだった。環は、父に倉敷の大原美術館や京都の岡崎美術館、国立博物館などの展覧会に連れて行ってもらった。母とは神戸の白鶴美術館などにも行った。
「映画も美術館も、父か母、片方とだけ一緒に行きました。夫婦そろっての外出はあまりなくて、そんなところは明治人らしかったのかもしれません」
環自身が映画に夢中になり始めたのは、1962年、中学2年生の時に『ウェスト・サイド物語』(1961)を見てからだ。中3ぐらいからは、ひとりで映画館に行くようになり、エルヴィス・プレスリー主演作『ガール!ガール!ガール!』(1962)や『アカプルコの海』(1963)にハマり、欧米のポップスにも夢中になる。エルヴィスの他のお気に入りは、イギリスの歌手クリフ・リチャードだった。
高校生になると、大阪の叔母ちゑの家に泊まって、姫路では公開が遅いハリウッド・ミュージカル映画を見たり、初のシネラマ映画を見たりした。
「当時の姫路の映画館は入退場の入れ替えがなかったので、ずっと居られるんです。日曜日には、2本立てをそれぞれ2回ずつ見ていました。映画料金のほかに、パンフレットも買って、映画雑誌も定期購読して、映画音楽のサントラ盤(レコード)も買って……、お小遣いはすべて映画に消えてしまいました。高校3年生の時、さすがに後ろめたく感じて、年間に見た本数を数えてみました。なんと、63本だったのを憶えています」
ちなみに母の4姉妹、叔母たちのその後は、長女・ふみは大分県竹田市に嫁ぎ、三女・と志は豊中市在住の樟蔭女学校教師の妻になった。四女・ちゑは大阪府下のお寺の息子の妻となったが、夫を戦争で亡くし、小児麻痺にかかった息子の慶和と一緒に、戦後の一時期、有年の松岡家で預かったこともある。嫁の身内の面倒を見るのを嫌がる夫も多かったなかで、世話好きな秀夫に母・阿やは感謝していたそうだ。ちゑはその後、中学校の家庭科教師として長く勤務し、息子を育てあげた。
偏差値による進路指導で決まったインド・パキスタン語
環の兄・秀樹は、在野の考古学者としての父の後を継ぐ形で、日本史専攻の大学院生となり、社会科教師になった。父は環に何も言わなかったが、『自分は医師としての父の後を継がなくてはいけないのではないか』と勝手に思いこみ、姫路の受験校・姫路西高に通い、理系コースを選択していた。しかし映画三昧の日々で、中学時代はトップだった成績は、たちまち低空飛行となる。
「数学、化学、物理が全部ダメで、高2ぐらいで落ちこぼれとなっていましたが、幸か不幸か、英語と国語の成績はよかったんです。進路指導で先生に『国立一期は薬学でもどこでも理系を受けてもいいが、落ちる覚悟でいろ。二期は外語大に行け。女の子だから姫路から近い大阪外大だな。松岡の偏差値で入れる学科は、モンゴル語とインド・パキスタン語だが、どちらにする?』と言われました」
医師は無理でも薬剤師になれれば、と思っていたが、進学校の進路指導は偏差値重視、本人の希望など二の次だった。
「国立大に入ることを大命題にして、偏差値を基準に、生徒たちをあちこちに振り分けているだけ、という感じでした。私も、外国に行ったこともないし、外国人と話したのはカトリック教会の神父さんだけだったので、モンゴルやインドやパキスタンに関する知識は皆無でした。ガンディーくらいは社会科で習ったかもしれませんが、特に興味があったわけではありません。それは高校教師も同じです。ただ一人、英文法の松村先生が、『インド・パキスタン語はやめときなさい。僕は東パキスタンで勤務したことがあるけど、それは大変なとこやで~』と止めて下さったんですが、そのときは、もう進路を決めたあとでした。今から思えば、その松村先生だけが、現実をご存知だったんですね。教員になる前に、商社に勤めていらしたのだと思います」
では、なぜ環さんは、モンゴル語科ではなくインド・パキスタン語科を選んだのだろうか。
「インドとパキスタン、二つあるから、選択の幅がある感じがしたんですね」と笑う。
京都大学薬学部を受験したが、やはり不合格。滑り止めで受けた私学の関西学院大学社会学部、京都府立大学とも合格し、入学金を払ってもらったが、「お前のために、何万円も払わされた」と、この大金ロスについて、母にはあとあとまで嘆かれた。
こうして1967年4月、第2志望であり本命でもある大阪外国語大学(現在は合併して大阪大学)外国語学部インド・パキスタン語科に入学、下宿して大学に通う新生活が始まった。
当時のキャンパスは、大阪のど真ん中の上本町8丁目にあった。近鉄線の上本町6丁目で降りて、8丁目に来るまでの道は誘惑の多い歓楽街。雀荘、喫茶店、風俗店などが並び、大学までたどり着くのが大変だった。校舎は古い建物で、1棟だけあった6階建て校舎もエレベーターがない。当時の大阪外大は、文部省の予算が下から3番目に少ないと言われていた。
そして、インド・パキスタン語の勉学が始まる。
「最初の授業で、先生が新聞を持って来て、こう言うんです。『はい、これがインドのヒンディー語の新聞で、こっちがパキスタンのウルドゥー語の新聞です。君たちは、どちらかを選ばなければいけません』。もちろん、初めて見る文字です。ウルドゥー語はアラビア文字で、ふにゃらふにゃらしている。ヒンディー語のほうがまだ読みやすいんじゃないか、と思って選びました」
新入生35人のうち女性は6人。落第して留年した上級生が19人も加わり、1年生は54人にもなっていた。新入生35人が、ヒンディー語志望とウルドゥー語志望に分かれ、授業が始まった。
「厳しい学科で、1年ごとに振り分けがあり、試験をしては落とすという繰り返しです。1年の勉強は文法中心で、本当に面白くなかったんです。興味を持つように教えるということがない、媚びない先生ばかり(笑)。ある先生は、『ヒンディー語は、仕事でインドに行っても何の役にも立ちません。なぜなら、商社でもどこでも英語を使うからです』と明言していました。インドにはたくさんの言語があるので、たとえヒンディー語が公用語であっても、他の言語が母語の人に配慮して、共通語としては英語が使われるのが現実です。でも、初めて学ぶ学生に、もう少し意欲を持たせてくださってもよかったのにね」
インド人の先生がひとりいて、一切、日本語は使わない授業だった。窓の外にある池を指して「ターラーブ・メーン・マチュリー・ハィ(तालाब में मछली है )」とおっしゃる。「池(の中)には 魚(が)います」という意味だが、学生たちは「マチュリー」がわからない。外語大の池は汚いので、「ボーフラのことかな?」と話し合っていたら、先生から「マチュリーは魚です!」と怒られたこともある。
「ヒンディー語−日本語」の辞書がないのでロシア語も学んだ
環は1年生最後の試験で赤点をとったが、追試で少しおまけしてもらい進級できた。前年度の落第生があまりに多かったので、先生たちも反省したのかもしれない。
そもそも当時は、昔の教授が作った「語彙集」があるだけで、ヒンディー語−日本語の辞書がなかった。ヒンディー語−英語の辞書はあったが、つけられた訳語はいいかげんとしか言いようがなかった。
「ヒンディー語−ロシア語の辞書が優れていると聞いて、2年生からはロシア語も学ぶことにしました。ロシア語の田中先生は女性で優しいし、キリル文字は面白いし、ロシア民謡も覚えられるし、楽しかったです。2年目の武藤先生のクラスでは、チェーホフも読みました。恋に落ちると相手への二人称が『あなた』から『君』になるとか、なるほど、そういうふうに文学は読むのか、と気づかされましたね」
第2外国語で英語、第3外国語でロシア語をとった。ソ連(当時)は世界戦略として経済的にもインドを重要視しており、インドも、アメリカではなくソ連寄りの外交方針をとっていた。そのため、「ちゃんと辞書の形をしている」のはロシア語版だけだったようだ。
第1外国語のヒンディー語も、2年生になると授業で小説が取り上げられるようになった。
「少しわからない単語があっても、推理して読んでいくと面白くなりました。インド文学にも、夏目漱石や森鴎外に当たる作家がいて、こういうふうに考えるんだ、と新鮮に感じたり、古賀先生は文化史の本、谷村先生は純文学と、いろんな内容のものを読んでくださって、それぞれに面白かったり。インド人の先生は詩を読むとき、使われているいろいろな擬態語をそれらしく読んでくださるし。『サンサン(सन सन)』は日本語の『ヒューヒュー』のようなニュアンスで、「サン〜サン〜」と読むなど、ヒンディー語に興味がわいてきました」
ヒンディー語の元の言語であるため必修科目となっているサンスクリット語も学んだ。
「そこまでは良かったんですが、3年になると大学が封鎖されて、授業ができなくなってしまったんです」
環が3年生だった1970年、各地で大学解体や自己否定などを叫ぶ学生運動が盛んになり、大阪外大にもその嵐が吹いてきた。4年生の途中まで封鎖は続き、裏の公園や喫茶店で授業が行われたりしたが、普段のようには学べない。新左翼の学生運動に共感できなかった環にとって、このまま卒業するのは中途半端で納得できなかった。両親は、勉強するなら学資は出してやるという方針だったので、大学院進学を決意した。
ところが、主任の古賀教授から「大阪外大の大学院はできたばかりで学生がいない。ひとり入ってこられても困るから、東京外大に行きなさい」と言われてしまう。
「東京外大の主任教授である土井先生との間に、成績が悪くても入れてやってくれ、みたいな密約ができていたんでしょうね。東京外大の受験のとき、『君は教職の資格は持ってる? それなら入れてあげよう。大学院を出てもヒンディー語教師の職はないからね』と面接で言われて、英語と国語の教員免許があったおかげで合格してしまったんです」
こうして、1971年4月、環は東京へ引っ越し、東京外国語大学大学院アジア第二外国語専攻の学生となる。
(続く)
(原題『Pad Man』ヒンディー語/2018、日本公開2018年12月7日)
日本でもここ数年「生理の貧困」が話題になっているが、インドでは生理(月経)用ナプキンは高価で入手できない女性が多い。不衛生な布を使っている妻のために、安くて使いやすいナプキンを作ることを決意した夫・ラクシュミの孤軍奮闘ぶりを描く。試作品を自分で使ってみる姿に、村の人たちはラクシュミを変人扱いし、妻からも離婚を宣言されるほど。
それでも諦めずに挑戦を続け、ついにナプキンを完成させる。手作りの製造機も開発し、村の女性たちに雇用の場を提供することにもつなげた。実在の人物・アルナーチャラム・ムルガナンダム氏をモデルにした作品で、インドにおける月経のタブーの感覚も知ることができる。
『パッドマン 5億人の女性を救った男』
監督・脚本: R・バールキ キャスト: アクシャイ・クマール、ソーナム・カプール
DVD 4,180円(税込)
発売・販売元:ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント
© 2018 CAPE OF GOOD FILMS LLP. All Rights Reserved.
インドの映画館では、観客は映像に合わせて自然と踊ったり歌ったりするそうです。紙吹雪や鳴り物、発声ありの熱狂的なインド映画鑑賞スタイル(マサラ)で月1回上映する「マーダム・オル・マサラ」(南インドのタミル語)が、キネカ大森とシネ・リーブル池袋で始まっています。8月の作品は、キネカ大森が8月12日『WARウォー‼︎』、9月は、松岡さんが字幕翻訳を手がけた『ムトゥ 踊るマハラジャ 4K&5.1chデジタルリマスター版』です。 詳細はそれぞれの映画館のHPでご確認ください。
大橋由香子(おおはし ゆかこ) プロフィール
フリーライター・編集者。月刊「翻訳の世界」(バベル・プレス)やムック「翻訳事典」(アルク)等で翻訳者へのインタビュー取材を手がけてきた。光文社古典新訳文庫の創設時スタッフでもある。著書『同時通訳者 鳥飼玖美子』『生命科学者 中村桂子』(理論社)『満心愛の人 益富鶯子と古謝トヨ子:フィリピン引き揚げ孤児と育ての親』(インパクト出版会)『異文化から学ぶ文章表現塾』(新水社、共著)ほか。