2023年7月刊アリストテレス『政治学(上・下)』の訳者・三浦洋さんの「訳者まえがき』(上下巻収録)と「訳者あとがき』(下巻収録)を全文公開します。
「人間は自然本性的に国家を形成する動物である」という名言は、古代ギリシャの哲学者アリストテレス(紀元前三八四—前三二二年)が残したものですが、この『政治学』の第一巻第二章にあります。読み始めると、数頁進んだところで出会うでしょう。もっとも、この新訳で「国家を形成する動物」と訳した部分は、従来、「国家的動物」、「ポリス的動物」、「政治的動物」と訳されることもあったため、なぜ多様な和訳が可能なのかを最初に説明しておきます。
古代ギリシャに存在したアテナイやスパルタなどの都市国家は、「ポリス」と呼ばれていました。アテナイの場合、全盛期の紀元前五世紀の全人口は二、三十万人程度で、領土の面積は佐賀県くらいだったと推測されていますので、規模では現代の典型的な国家に及びません。共同体としての成り立ちにおいても、近代的な国家の概念には収まりにくい点が多々ありますが、一つの地域の人間集団が政治的支配によってまとまっていたという、極めて緩やかな意味で「ポリス」は「国家」ととらえられます。
何より、「政治」を意味する英語のpolitics は、本書の原題「タ・ポリーティカ」と同じく、もともとは「ポリス」の形容詞形であり、「国家に関するさまざまな事柄」を意味します。したがって、本書を『国家学』ないし『国家論』と呼ぶことも十分に可能ですが、訳者は『政治学』という伝統的な書名に従った上で、「ポリス」から派生した形容詞を訳す際は、「国家を運営する」、「国家を形成する」などと表現し、「政治」あるいは「政治的」という語の使用は最小限にとどめました。そこには、家の政治である「家政」から、国家の運営を明確に区別するという意図もあります。
また、本書の大部分を占める内容からすれば、『国制論』という書名で呼ぶことも可能だと思われます。アリストテレスは第四巻第十一章で、「ある意味では、国制は国家にとっての生き方」であると述べていますが、政治学の実践的な目的が最善の国家の実現である以上、主要な課題は「最善の国制」の探究になるわけです。これは、アリストテレスの師プラトンが『国家』と『法律』の両著作で「最善の国制」を考察したことへの、批判を含んだ応答の試みでもあります。
ところが、「最善の国制」の探究との関連で、全八巻(この新訳では〈上〉第一―四巻、〈下〉第五―八巻に分割)の『政治学』の構成には問題点が指摘されてきました。それは、次に示す標準的な①の配列よりも、②の配列の方がよいという、一部の研究者の主張に集約されます。
① 第一—三巻→ 第四―六巻→ 第七―八巻
② 第一―三巻→ 第七―八巻→ 第四―六巻
このように二通りの配列が提案された理由は複雑なため、「解説」であらためて述べますが、大まかにいうと、「最善の国制」に関する考察の序文に当たる論述が、第三巻の最終第十八章、第四巻第一章、第七巻第一章の三カ所に見られることにあります。つまり、古来の①の配列に固執せず、②を採用しても第三巻第十八章と第七巻第一章を接続させることができ、むしろ議論の流れとして①より自然だとの見方があるということです。しかし、実際には①も②も難点を抱えています。それゆえ、本書を読み進める際には、全八巻が次のような分岐構造になっていると想定し、三つのグループは緩やかに関連し合っていると考えるのがよいでしょう。
第一―三巻(国家共同体論の原論) | |
/ | \ |
第四―六巻(現実的な最善の国制の探究) | 第七―八巻(理想的な最善の国制の探究) |
ここでいう「現実的な最善の国制の探究」とは、第三巻第七章で示される六種類の国制を基盤にした探究を指し、「理想的な最善の国制の探究」とは、特定の国制の種類にこだわらない純理論的な探究を指します。六種類の国制は、次の通りです。
〈支配者数での分類〉 | 〈正しい国制〉 | 〈逸脱した国制〉 |
---|---|---|
単独者による支配 | 王制 | 独裁制(僭主 制) |
少数者による支配 | 貴族制(最優秀者支配制) | 寡頭制 |
多数者による支配 | 共和制 | 民主制 |
民主制が〈逸脱した国制〉に含まれていることは意外に思われるかもしれませんが、これは、『政治学』の前篇に当たる『ニコマコス倫理学』第八巻第十章で既に述べられていました。しかし、『政治学』第四―六巻では、民主制と他の国制との混合が推奨され、より優れた国制のあり方が模索されます。
この(上)第一―四巻の主部となるのは、家の発生から国家共同体の形成に至る自然発生論(第一巻)を基礎に置き、先人の国家論などの吟味(第二巻)を経て、「国家とは何か」、「市民とは何か」と原理的に問う政治学の原論(第三巻)ですが、第一巻には経済学に関わる内容も含まれます。「知の巨人」アリストテレスが、財産、貨幣、金融に向ける眼差しは鋭く、自然に基づく家政学の観点からの経済学批判が展開されるのです。その自然主義的な政治経済思想に普遍性があればこそ、現代のロールズとサンデルの正義論、センとヌスバウムの能力論をはじめ、近世のホッブズ、モンテスキュー、ルソー、ヘーゲル、マルクスなどの社会哲学に影響を与えたわけです。
ちなみに、訳者の印象に残った本書の言葉をつなぎ合わせると、「人間は、民主制国家の運営者を籤 引きで決め、全員が公費で共同食事を行う動物である」となります。何だか、近未来のポリスのようではありませんか? 政治哲学の古典中の古典が提示する多様な国家像は、なお現代に教訓と模範を指し示してくれることでしょう。
国家体制には三つの形態がある。そして、この三形態のいわば堕落形態といえる逸脱的な形態も、同じく三つある。本来の国家体制のうち二つは王制と優秀者支配制であるが、三つ目は財産の査定に基づく国制であり、財産査定制のように呼ばれるのがそれにふさわしいと思えるけれども、これを大多数の人々は、「国家体制」と[一般的な呼び名で]呼び慣わしている。これらのうち最善なのは王制であり、財産査定制がなかでもっとも劣った国制である。
そして王制の逸脱形態は、僭主制である。なぜこう分類するかといえば、両方の国制ともに単一君主制でありつつ、そのあいだの相違はこれ以上ないほど大きいからである。つまり僭主のほうは、自分自身にとっての利益を考慮するが、王は支配される人々の利益を考慮するのである。なぜなら、自足していてあらゆる善さの点で優越していなければ、[ほんとうの意味での]王ではないのだし、そのように自足している人というものは、何もそれ以上必要とするものがないからである。こうしてそれゆえに、このような王は自分にとって利益となるものを考慮せず、支配される人々にとって有用なものを考慮するだろう。というのも、このようでない人は「くじに当たってなった王様」のようなものであろうから。他方僭主制は、王制の正反対である。僭主は自分にとって善いものを追求するからである。そして、この点で、それがもっとも劣った国制であることがいっそう明瞭になる。最善なものの反対こそ、もっとも劣ったものだからである。
王制からは、僭主制への移行が起こる。僭主制とは単一君主制の劣悪な形態であり、「不良な王」が僭主となるからである。また、優秀者支配制からは、支配者たちが富裕さをもっとも重んじることにより、人間本来の価値に反して国 の財貨を配分し、善の全部ないし大部分を自分たちに配して支配的役職をも自分たちで独占する場合に、そうした支配者たちの悪徳に起因して、寡頭制に向かう移行が起こる。この結果、もっとも高潔な人々ではなく、少数の不良な人間たちが支配するのである。他方財産査定制からは民主制へ移行する。これらは隣接しあう国制だからである。なぜなら、財産査定制も多数の大衆の国制であろうとしており、一定の課税財産のうちにある人々はすべて、等しいからである。[僭主制、寡頭制、民主制の三つの逸脱的国制のなかで]民主制はもっとも不良性の程度が少ないものである。というのも、民主制は、まっとうな国家体制の形態をわずかだけ逸脱しているからである。
もろもろの国家体制が変転するのは、以上のような仕方によることがもっとも多い。なぜなら、このようであるならば変化はもっとも少ないし、また、変化することはもっとも容易だからである。
ところで人は、こうしたものに似たもの、すなわちそのサンプル見本のようなものを、家のさまざまな形態においても見て取るであろう。実際、息子に対する父の支配は王制の形をとる。父は自分の子どもたちのことを、気遣うからである。ここからホメロスも、ゼウスを「父」と呼んでいる。王制は、父権的支配であろうとするものだからである。しかしペルシャにおいては、父親の「僭主制的支配」がおこなわれている。ペルシャの人々は息子たちを、まるで奴隷のように扱うからである。また、奴隷たちに対する主人の支配もまた、僭主制的なものである。なぜなら、この支配においては主人の利益[のみ]が実現されるからである。奴隷に対するこのような支配のほうは、正しいように思われる。しかし、ペルシャにおける子どもに対する支配は、誤っている。というのも、人々の支配は支配される人間の種類に応じて異なっているからである。
その一方で、夫婦の共同関係は「優秀者支配制的」であるように思われる。というのも、男性は価値によって支配し、男性が支配すべき事柄にかんして支配するのであり、女性にふさわしい事柄は女性に割り当てる。だが、男性がすべてを支配するに及ぶと、寡頭制的支配へと移行する。なぜなら、男性はそのとき、双方の価値に反して、自分がよりすぐれているというそのかぎりにおいてではなく、支配をおこなっているからである。そして、場合によって相続人である女性が支配することもある。このとき、支配は徳 によるのではなく、寡頭制における支配のように富と力によるものとなる。
他方、兄弟の共同性は財産査定制に似ている。年齢において相違する点を別にすれば、兄弟は互いに等しいからである。このことゆえに、年齢差が大きいときには、兄弟の愛 はもはや兄弟的なものではなくなる。
また他方では、「民主制」は主人を欠く家において(そのような家では家族全員が等しいから)、あるいは家長が弱体で各人がやりたいようにやる自由をもつような家においてもっともよく見られる「国制」である。
(訳/渡辺邦夫・立花幸司)