2023年7月刊アリストテレス『政治学(上・下)』の訳者・三浦洋さんの「訳者まえがき』(上下巻収録)と「訳者あとがき』(下巻収録)を全文公開します。
この『政治学』(下)は、後半となる第五―八巻を収めました。内容は、ほぼすべてが国制論で、「国制の変動」を主題化した第五巻と、「民主制と寡頭制の課題」を論じる第六巻は議論上つながっています。しかし、「最善の国制」を探究する第七巻と、それを受けて「最善の国家の教育制度」を考察する第八巻は、新たな議論のグループを形成します。それは、本書の全体が次のような分岐構造を持っているからです。
第一―三巻(国家共同体論の原論) | |
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第四―六巻(現実的な最善の国制の探究) | 第七―八巻(理想的な最善の国制の探究) |
ここでいう「現実的な最善の国制の探究」とは、第三巻第七章で示された六種類の国制を基盤にした探究を指し、「理想的な最善の国制の探究」とは、特定の国制の種類にこだわらない純理論的な探究を指します。六種類の国制は、次の通りです。
〈支配者数での分類〉 | 〈正しい国制〉 | 〈逸脱した国制〉 |
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単独者による支配 | 王制 | 独裁制(僭主 制) |
少数者による支配 | 貴族制(最優秀者支配制) | 寡頭制 |
多数者による支配 | 共和制 | 民主制 |
ただし、議論が進むにつれ、この六種類は形式的な分類にすぎないことが判明してゆきます。アリストテレスによれば、現実に存在する多くの国制は、「富」を重視する寡頭制か、「自由」を重視する民主制であり、いずれか一方の特徴だけを強める極端な国制に陥らないよう、国制の混合を進める必要があります。そのため、例えば第五巻第七章では、寡頭制と民主制の混合によって共和制や貴族制が生じるという考え方に基づき、適切な混合こそが国制を安定化させると説かれます。このように、第六巻までの「現実的な最善の国制の探究」では、寡頭制と民主制を現実的な足場のようなものと見なし、そこからより善い国制を目指すという方針が次第に明瞭にされてゆくのです。
それに対し、第七巻以降の「理想的な最善の国制の探究」では、六種類の国制の実質を問題にするような言及はほとんどありません。わずかに第七巻第十一章で、城塞を置く場所が、寡頭制、単独者支配制、民主制、貴族制では異なると述べられる程度です。つまり、完全に理論的な考察を進め、人口や国土面積など最も基礎的な国家の条件から、有徳な市民を作る教育や子どもへの配慮まで、すべて願い通りに実現できる場合のユートピアのような「最善の国制」を追求すると、既存の国制のいずれにもぴったりとは該当しないものになるということです。このように、「国家はこうあるべきだ」という議論をひたすら積み重ねてゆく規範的な探究も、哲学的な政治学の一つのあり方にほかなりません。
そして、政治の最大の仕事は優れた市民の育成だという思想に基づくのが、最終第八巻の教育論です。とりわけ、実用性からは遠い音楽教育の意義が論じられるのは、同じ主題に取り組んだプラトンの『国家』と『法律』への応答にも見えます。その途中、音楽の用途の一種に挙げられる「カタルシス(浄化)」は、アリストテレスの『詩学』でキーワードになっていることから、関連が注目されてきました。この問題に関心を持つ方には、『詩学』と『政治学』の「カタルシス」を比較しながら読んで頂ければ幸いです。
本書は、現代の正義論にとっても古典となる著作です。既に『政治学』(上)に目を通された読者には、その第三巻第九―十三章の原論的な正義論と、この(下)に収められた第六巻第二―三章の現実的な正義論を比べてみて頂けば、論述姿勢の違いが感じられることでしょう。正義の原理は国制ごとに異なり、どの原理も絶対的な正しさを持ちえないという方向に議論を導く第三巻に対し、貧困者と富裕者が混在する国家を見据え、その中に平等と正義を実現しようとする第六巻は極めて現実的な態度で書かれています。つまり、アリストテレスが『ニコマコス倫理学』で提示した「配分的正義」の理論が、実際的な政治哲学に変貌しているのです。だからこそ、第六巻第三章末尾の叙述は強く訴えかけてきます。「平等と正義を求めるのは、常に弱者なのであって、力で優る者たちはまったく顧慮しない」(一三一八b四―五)という文言からは、哲学者の静かな怒りさえ感じられるのではないでしょうか。