2023.07.29

アリストテレス『政治学』訳者あとがき・三浦洋

2023年7月刊アリストテレス『政治学(上・下)』の訳者・三浦洋さんの「訳者まえがき』(上下巻収録)と「訳者あとがき』(下巻収録)を全文公開します。

『政治学(上)』訳者まえがき
『政治学(下)』訳者まえがき
『政治学』訳者あとがき・三浦洋

哲学と民主主義。

古代ギリシャ人の最大の発明はこの二つだと、ずっと信じてきました。ほぼ同じ時代に誕生した芸術とオリンピックの( とりこ ) になっているいまも、フィロソフィアー(知への愛)とデーモクラティアー(民衆による支配)への憧憬は変わりません。むしろ、政治の世界における反知性主義の進行が指摘される現代であればこそ、哲学と民主主義は、ますます手を携え合うべき関係になっているように思われます。

アリストテレスの主要な著作の中では『形而上学( けいじじょうがく ) 』に次ぐ長編の『政治学』を訳し始めた際、大著の隅々を味わえる喜びとともに、向こう岸の見えない大海を渡るような茫漠とした思いにも包まれました。そうした折節、しばしば手にとっては個人的な感慨に耽ったのが、学生時代の愛読書だった出 隆( いで たかし ) (一八九二―一九八〇年)の『ギリシアの哲学と政治』(岩波書店、一九四三年)です。

独特の文体で哲学と政治の理想を語る、この古典的書物と邂逅しなかったなら、大学卒業後に北海道内の新聞社で約六年間、記者として働くこともなかったでしょうし、その後、大学院に入学して学び直すこともなかったでしょう。三十路も半ばを過ぎてから研究者として歩み出し、二〇〇五年には小さな研究会に参加するため、英国オックスフォード大学を初めて訪れました。その折、たまたま宿泊したB&B(英国の民宿)の住所が、この『政治学』の底本を校訂したウィリアム・デイヴィッド・ロス卿(一八七七―一九七一年)のかつての住居の近くだったことを、ロスに師事した出隆の文章で知った時には驚いたものです。このように自分の来し方を振り返ると、いま『政治学』の翻訳に取り組めたことが決して偶然には思われません。

個人的な思いをもう一つ書かせて頂けば、『政治学』を通読して最も心に残ったのは、どんな貧困者も参加できる「共同食事」の制度でした。アリストテレスは、その重要性を繰り返し語っています。現代の「ナショナル・ミニマム(最低限の生活保障)」や「ベーシック・インカム(最低限の所得保障)」の思想につながる制度で、福祉あるいは厚生の原型として普遍性を持つことはいうまでもありませんが、四歳まで北海道三笠市の炭鉱住宅──「炭住」と略称され、形状による通称は「ハーモニカ長屋」──で育った訳者にとって、「共同食事」は現実の体験に属します。

鉱山では同一の企業で働く労働者の世帯が一つの共同体を形成し、そこには集会場のような大食堂もあれば、プールほどの大きさを持つ共同浴場もありました。二十代から採炭夫として働いた父は、石炭の粉塵で真っ黒になった顔を共同浴場で洗い、無学ながら手がけた文芸創作誌の同人たちと大食堂で長時間、談義を交わしました。病院も映画館も商店も、歩いて数分以内のところにあり、この「ヤマの共同体」が、子どもの目には世界の全体のように映っていたにちがいありません。アリストテレスが「共同体」や「共同食事」という言葉を使うたび、訳者の心に浮かんだのはこの原風景です。

『詩学』 アリストテレス/三浦洋 訳

『詩学』
アリストテレス/三浦洋 訳

アリストテレスの著作の翻訳に関していえば、『政治学』に先立って『詩学』に取り組んだ経験が役立ちました。二つの著作は「カタルシス(浄化)」の概念をめぐって相互に参照される関係にありますから、ともに新訳が完成したことで、ある程度は訳者としての責任を果たせたのではないかと思います。 また、アリストテレスの『自然学』や動物学の著作群、さらには論理学系の著作の語彙に馴染んでいたことも幸いしました。とはいえ、『政治学』の翻訳作業が容易だったわけではありません。「いったい翻訳とは何だろうか」と考え込む日もありました。一九九六年にノーベル文学賞を受賞したポーランドのヴィスワヴァ・シンボルスカ(一九二三―二〇一二年)は、いかにもショパンの国の女流詩人らしく、翻訳とは「二台のピアノの音を聴き比べること」だと書いています。詩人の至言に従えば、古代ギリシャ語というピアノと現代日本語というピアノを鳴らしてみて、二つの音が近づくように調整を繰り返せばよいわけですけれども、かえって根本的な音色の違いを痛感する場合さえありました。

そんな時は、古代ギリシャ語の一語あるいは一文を、現代日本語の一語あるいは一文に置き換えようとする、自分に染み付いた習性を捨て、「アリストテレスが同じ内容を現代日本語で述べたらどうなるか」を自問自答して訳文に反映させるよう心がけました。それは、取りも直さず、大学院時代の恩師である田中享英( たかふさ ) 先生から受けた教えの反映でもあります。田中先生は、アリストテレス哲学を論じた拙稿の問題含みの箇所に、しばしば緑色のペンで「原文を味読せよ」と簡潔に書き記されました。まさに翻訳とは味読の別名だと悟ったいま、頂戴した言葉の重みをあらためて実感します。

もとより、どんな分野の書物であれ、新たに一冊の翻訳書を刊行することは文化的な一大プロジェクトであって、翻訳作業はその一部にすぎません。今回も、翻訳編集部の中町俊伸編集長をはじめ、光文社の皆様にはさまざまな面でお世話になりました。謝意を言葉には尽くせませんが、心よりお礼申し上げます。

二〇二三年 初春の令月を迎えた札幌にて 三浦 洋


[三浦洋さんプロフィール]
1960年生まれ。北海道情報大学情報メディア学部教授。博士(文学)。北海道大学大学院文学研究科(哲学専攻)博士課程修了。研究分野は、古代ギリシャ哲学を中心に、哲学、倫理学、芸術学にわたる。分担執筆に「地域連携型の芸術教育」(『北大 教養教育のすべて』所収)、訳書に『詩学』(アリストテレス)、「アリストテレス霊魂論註解」(フランシスコ・デ・トレド、『中世思想原典集成20 近世のスコラ学』所収、共訳)がある。
三浦洋さん 光文社古典新訳文庫での訳書一覧

『政治学(上)』アリストテレス/三浦洋訳

政治学(上)

アリストテレス
三浦 洋 訳
  • 定価:1,760円(税込)
  • ISBN:978-4-334-75482-2
  • 発売日:2023.07.12

『政治学(下)』アリストテレス/三浦洋訳

政治学(下)

アリストテレス
三浦 洋 訳
      • 定価:1,540円(税込)
      • ISBN:978-4-334-75483-9
      • 発売日:2023.07.12