「字幕マジックの女たち」ではこれまで、ドイツ語の吉川美奈子さん、スペイン語の比嘉世津子さん、韓国語の福留友子さん、イタリア語の吉岡芳子さん、中国語の樋口裕子さんにインタビューしてきました。Vol.6 の松岡環さんは、日本にインド映画を紹介してきた先駆者のおひとりです。
インド映画の日本での受容は、1998年公開の『ムトゥ 踊るマハラジャ』(1995)で一気にファンが増え、その後2013年の『きっと、うまくいく』(2009)と2018年の『バーフバリ王の凱旋』(2017)のヒットを経て、『RRR』(2021)が本年大ヒットとなるまでには、様々な紆余曲折がありました。松岡環さんご自身も、大阪外語大から東京外語大の大学院に進学。就職して結婚。やがて初めてのインド旅行によって、映画紹介への道を本格的に歩んでいかれます。折り折りの転換点、悲しい別れについても、今回のバーグ3でお伝えします。
松岡環さんプロフィール
まつおか たまき 字幕翻訳者、アジア映画研究者。1976年からインド映画の紹介と研究を開始。字幕翻訳を手がけた作品は『ムトゥ 踊るマハラジャ』『きっと、うまくいく』『パッドマン 5億人の女性を救った男』ほか多数。著書に『アジア・映画の都』(めこん、1997)『レスリー・チャンの香港』(平凡社,2008)、共編著に松岡環・高倉嘉男著、夏目深雪編著『新たなるインド映画の世界』(PICK UP PRESS、2021)ほか。
松岡環さんの共編著書
〈構成・文 大橋由香子〉
〈भाग(バーグ)3〉
人生の転換点:初のインド旅行でいよいよ映画に魅せられる
1971年4月、環は東京外国語大学大学院アジア第二言語専攻へと進学し、東京へとやってきた。当時、東京外大は北区西ヶ原にあった。
「大学院の入試の時も、寒いだろうと思って、服をたくさん着こんでひざ掛けまで持ってきたら、教室にスチームが入っていて驚きました。大阪外大はダルマストーブしかありませんでしたから。入学してみたら、建物にはみんなエレベーターがあって、あまりの違いにびっくりしました。
下宿は学校に通うのに便利な、赤羽が最寄り駅の北区志茂という所にしました。大家さんはご主人を亡くされた方で、お子さんたちと階下に住み、2階が5部屋ほどあって各部屋台所付き、トイレは共同、という当時の平均的な独身アパートです。とてもいい大家さんでした」
東京外大大学院では、学部生と同じクラスで受ける授業もあり、大阪外大時代とそれほど変わらない日常だったが、金田一春彦先生の国語学など、楽しい授業もあった。
インド大使館主催の映画会で「プレスリー映画と似てる!」と魅せられる
そんなある日、主任教授の土井久弥先生からこう言われた。「君はヒンディー語の読み書きはまずまずだが、話す・聞くが全然ダメだね。インド人がインド映画の上映会をやっているから、行って映画を観て、耳を慣らしてきなさい」。
その時勧められたのが、インド大使館が主催する在日インド人のための映画上映会。砂防会館ホール(千代田区平河町)で年1回行われていて、環が初めて行った年の上映作品は、『悲しき人形』(原題「Khilona」おもちゃ、玩具の意味、1970年製作)というヒンディー語の映画だった。
金持ちの家の息子が婚約者に心がわりされてしまい、精神に変調をきたしてしまう。そこで体裁を整えるために、親たちは踊り子(芸者)を嫁にする。だが、彼女の献身的な世話で息子が正気に戻ると、親たちは、踊り子の嫁を追い出し、良家の娘と結婚させようとする。しかし息子はそれを断り、「私の妻はこの踊り子の彼女だけだ」と言う。
「映画を観て、ヒンディー語を聞いていて、ストーリーがすごくよくわかるというか、理解できてうれしかったんです。そのうえ、昔、大好きだったエルヴィス・プレスリーの主演作品みたいなミュージカルだったので、『プレスリー映画と似てる!』と、すっかり気に入ってしまいました。いつかインドに行って、インド映画を観よう! と決意した瞬間です」
ミュージカル好きと映画好きとが、インド娯楽映画で結びついた。
「自分のめざすものはこれだ」と、すっかりインド映画の虜になってしまった。
「思い起こせば、大阪での学部生時代に一度だけインド映画を観たことがありました。1970年の大阪万博記念の映画祭で『グーピとバーガの冒険』というモノクロの子ども向け映画でした。実はそれはサタジット・レイ監督の作品だったのですが、ベンガル語作品でおまけに英語字幕上映だったため、あまり楽しめませんでした。ですので、『Khilona(悲しき人形)』は衝撃的でした」
ところが当時、一般の人がインド映画を観る機会はほとんどなかった。神保町の岩波ホールで、サタジット・レイ監督の三部作が上映されたくらい。『大地のうた』(1955年/日本公開1966年)、『大河のうた』(1956年/日本公開1970年)、『大樹のうた』(1959年/日本公開1974年)である。
どうしたらインド映画をもっと鑑賞できるのか、考える日々だった。
さて、家庭教師などのアルバイトをしながら東京生活を楽しんでいた環だが、実は、大阪外大時代に、同級生のMと恋仲になっていた。
「群馬出身の彼が話す言葉は、関西人のわたしには標準語に聞こえて、なんだか『頭が良さそう』と感じたんですね。勉強がよくできる、かっこいい人だったんです」
この連載の前回「バーグ2」で、大学祭でのインド模擬店の写真を掲載した。白い服の松岡さんが振り返る先の左側、後ろ姿で写っているのがMだ。
彼も卒業して東京に来るはずだったが、卒業論文が仕上がらずに留年していた。
翌1972年にやっと東京に来て、国会図書館や東京都教員採用試験を受けたものの不合格、私立中学校の教員に就職が決まった。
Mも東京に来て約半年、環は東京生活が2年目になった大学院2年の夏、授業を受けていた東京外大アジア・アフリカ言語文化研究所(AA研)の中村平治先生から、「AA研で職員を募集しているけど、受けてみない?」と声をかけられる。
「中村先生は、ご自分の研究助手のような形で私が働くと便利だと思い、勧めてくださったようです。早く結婚したかった私は、就職すれば結婚できると考え、このお話に飛びついて受験しました。無事に試験に合格し、東京外大は国立大だったので人事院の協議採用という形で、10月16日から文部事務官としての勤務が決まり、即、大学院を中退してしまったんです。
主任教授の土井先生ともう一人の担当教官である田中敏雄先生からは、『あと半年で修了なのに、もったいない』『僕たちの努力はどうなるんだ』と大いに嘆かれました。でもわたしは、『就職したら結婚できる』という思いでいっぱいだったんですね」
1972年秋、東京外大の敷地内にあるAA研に就職。AA研の先生たちの研究補佐をする女性10人の「研究部」という部署に配置された。
ところが、中村先生の所属する南アジア部門ではなく、アラビア・ペルシア部門の担当となり、アラビア語・ペルシア語を学ぶよう言われる。
「私たちが補佐をする先生方は、言語学や人類学、歴史学など専攻はさまざまですが、研究部の職員は、担当する部門の言語がある程度わからないと補佐がしにくいんです。それで自費で夜間の学校に通って学びました。ペルシア語は三鷹にあるアジア・アフリカ語学院、アラビア語は代々木にあったイスラーム関係の協会の講座に通いました。
日本語に中国の漢字が入っているように、インドの言葉には、アラビア語やペルシア語からの借用語がたくさん入っています。ですからアラビア語やペルシア語を勉強していると、『この言葉も知ってる、あれも知ってる』という感じで楽しかったです。本当に学んで良かったし、後日のアジア映画研究でも大いに助けになりました。人生、何が幸いするかわからない、特に語学はそうですね」
環が働き始めた1970年代はじめは、男女雇用機会均等法ができる10年以上も前のこと。女性は男性の補助職という考え方が強く、お茶くみや掃除、コピーとりなどの雑用は、女性がやる業務という時代だった。
AA研は国立大学の付属研究所なので、職員は国家公務員になるため、民間企業に比べると性による差別は比較的少なく、安定していて、女性にとっては悪くない職場だったかもしれない。環はここで職業生活をスタートさせた。
そして、就職から約半年後の1973年3月、Mと結婚した。双方の両親を呼んで、箱根神社で式をあげた。最初のアパートと同じ赤羽近くの2間のアパートが新居になった。
一方、映画への思いはどうなったのだろうか。「インド『映画』への道」と題したエッセイで、環は次のように書いている。
キュートな女優ムムターズが一本気な踊り子を熱演したこの映画(引用者注:『悲しき人形』)は、インド娯楽映画初体験者だった私をその魅力に目覚めさせてくれたが、まだインド映画のビデオさえ出ていなかった頃のこと、本格的なインド映画狂いになるにはインドに行って映画をある程度の数見るまで待たなくてはならなかったのだ。
で、やっとのことでお金を貯め、75年暮れインドに行った私は、『炎 SHOLAY』(75)や『歌うたいつつ GEET GATA CHAL』(75)などという傑作の公開時に出会わせる。そして帰国する飛行機の中ではすでに、何としてもこの娯楽映画の極めつけ、インド映画を日本に紹介しなければ、という決意にメラメラと燃えていたのである。*
(*環が字幕翻訳を手がけたインド映画『ラジュー出世する』劇場プログラム、編集・発行:新日本映画社、1997より)末尾コラム参照
このように、映画紹介の決意に火をつけることになった初のインド旅行の背後には、実は、悲しい出来事があった。
ヒンディー語を学んでよかったと実感した初のインド旅行
新婚生活から約1年9ヶ月が過ぎた1974年12月10日、Mが行方不明になった。
警察に行方不明届を出し、群馬から両親が出てきて占い師にも占ってもらったが見つからない。
翌1975年1月3日、住居近くの荒川で遺体が発見された。27歳だった。
勤務先の中学校で授業がうまくいかないという話は聞いていたが、環も同僚の先生たちも、彼を一生懸命に励ました。それが鬱病の患者には酷な仕打ちだということは、当時は知られていなかった。
Mの姉によると、高校時代から鬱の傾向があり、いつか自死するのではと危惧していたとのことだった。 大学時代からの恋愛が、このような形で終焉を迎えたことが、どれほどのダメージか、はかりしれない。
1周忌のあと、前年に行方を捜した期間を日本で迎えたくなかった環は、1975年12月末から翌年1月にかけてインドへと旅立った。それが、先のエッセイに書かれた、初のインド旅行なのである。
「初めてボンベイ(現ムンバイ)の空港に降り立ったとき、パッと見えた風景は『焼け野原みたい』と感じました。でも、市内に移動すると、裁判所や大学などイギリス風の古い美しい建物が並んでいて、まるでイギリスの街にいるみたいなんです。
インドの人は、みんなお節介で親切で、買い物していると、騙(だま)されていないかとチェックする人が現れます。わたしがヒンディー語で『これはいくらですか?』と聞きながら値切っていたら、お節介にも英語に通訳してくれたり。デリーの観光をしていたとき、建造物の説明板の前でヒンディー語の看板を読み上げたら、『この字が読めなかったんですよ、ヒンディー語が読める人がいてよかったわ』と感謝されたり」
宿泊したのはYWCA、夕方のおやつも含めて1日4食も出してくれて、環は大助かり。念願の映画館は、そのYWCAで同室だったギリジャーさんという人に、「こうやってチケットを買って観るのよ」と教えてもらった。
彼女はリバティという古い映画館に連れて行ってくれた。チケットの値段は、1階より2階のほうが高く、2階は「バルコニー」とか「ドレス・サークル」と呼ばれる。1階も2階も、後ろの席になるほど値段が高い。
「どの映画館でも、お客さんの反応がいいんですよ。歌のシーンが出てくると、みんな歌い出したり口笛を吹いたり、椅子の肘掛を叩いてリズムをとったりするんです。インドの観客たちは、映画をこうやって楽しむんだ! すごいな、と感心しました。
最初の旅行では7本の映画を観ましたが、観るたびに自分のヒンディー語が上手になるのがわかるのもうれしかったです。旅行中、ヒンディー語をしゃべると心を開いてくれる人が多くて、いろんな場面で『ヒンディー語がしゃべれてよかった!』と実感しました」
高校や大学の先生たちに言われた「ヒンディー語を学んでもあまり役に立たない」という通説を、環は身をもって覆(くつがえ)した。
今から47年前のインドは、現在よりずっと貧しかった。
同じ頃にインドに行った友人が「タクシーの床の鉄板に穴が開いてて、信じられない! 車検はないの?」と驚いていたが、環は、床の穴はよけて乗ればいいのに、とそれほど気にならない。
貧富の差も大きい。知人が連れて行ってくれたインド人の家は、昔ながらの建物にあるフラットだったが、部屋の中にブランコ(吊りソファー)がある豪華なお宅だった。
また、大阪外大時代に東京外大大学院進学を勧めてくれた主任教授の古賀勝郎先生が、ちょうどインドに滞在していた。古賀先生が紹介してくれたお友だちのシャルマーさんから、お昼ご飯を食べにいらっしゃいと誘われ、環は一人で出かけた。
「昼食に招待されましたが、テーブルに用意されていたのは一人分の食事だけ。私だけが食べて、シャルマーさんとご家族は少し離れた場所に座り、ニコニコと見ていて、一緒には食べない。不思議に思って、あとで古賀先生にその話をすると、『それは当たり前だよ、シャルマーさんはカースト上位のバラモン階級だからね。君のような外国人は不浄な人間だから、一緒に食事をしたら相手の穢 (けが)れが口から入ってしまう。だから共食はできないんだ。外国人は、“ムレッチャ”と呼ばれて、一番下の階層だからね』と説明されて、カースト制度というものを実感しました」
この共食の禁忌から、料理人は一番上のバラモンカーストがなることが多い。上の階級であればこそ、誰でもが安心して口に入れられるのだという。
共食とともにカースト概念が重視されるのが、結婚。同じカーストでないと結婚できない。ただし、女性は上のカーストの人となら結婚できる。逆に、男性が上のカーストの人と結婚したら、村八分になる。
こうして、インドの人々の暮らしとインド映画の魅力を体感して日本に戻ってきた環は、いよいよインド映画紹介へと邁進する。苗字は、三回忌のあと松岡に戻していた。そして、Mを失った年末から年始は、インドを訪れることが毎年の習慣になっていく。
「AA研」の封筒から、岩波ホールとの繋がりができた
幸い、職場のAA研にはたくさんの資料がある。東京外大の図書館も使える。恵まれた環境を活用して、コツコツとインド映画について調べていった。
1978年秋からは、B5版8ページの月刊情報誌『インド通信』を臼田わか子と発行する。
「臼田わか子さんとは、1976年末からの2度目のインド旅行で知り合いました。その時は、旅行の最初の部分をAA研の図書館司書で、ベンガル語がよくできる友人と同行したのですが、彼女が臼田雅之さんを知っていて、カルカッタ(現コルカタ)での宿泊所、ラーマクリシュナ・ミッションを紹介してもらったのです。のちに東海大の先生となる臼田雅之さんはカルカッタに留学中で、奥さんのわか子さんとミッションに5年間滞在しており、そこで初めて臼田わか子さんと出会ったわけです。
そして、わか子さんは帰国後AA研でアルバイトとして働くことになり、いろいろ話すうちに友人になり、『インド通信』を発行しよう、となったのです。インド関係の催し物が一目でわかったり、インドに関するちょっとした知識が得られたりするミニコミ誌があると便利じゃない? ということで、最初は手書きでガリ版刷りでした」
発行元は、インド文化交流センター事務局とした。20号からは印刷所に頼んでオフセット印刷になり、やがてワープロ印字、パソコン印字になる。
開始1年ぐらいで臼田が妊娠したため、環の自宅に集まって、通信の発送作業を兼ねた月1回の会合が定着した。その後、小磯千尋、関口真里も加わり、事務局メンバーは女性4人。
『インド通信』本体が20gぐらい、重量合計50gになるまでは同じ値段で郵送できるので、催し物のチラシ同封を引き受けた。インターネットがなかった時代、読者にも、催し物の主催者にも喜ばれた。 1993年からは編集担当が関口真理に移行して、最盛期の会員数は約1000名になり、2018年10月の480号で休刊するまで、40年続いた。
「AA 研の仕事は、お茶くみやコピー取りのほか、会議に出席して録音などの運営補助をしたり、教官の出版物の編集をしたりという知的作業をすることも多かったです。なにより、インド以外のアジア・アフリカ諸国の事情に触れることで、世界が大きく広がりました。それに、私がインド映画紹介に熱意を傾けていることを知った教官の皆さんは、新聞に書く機会を与えてくださったり、調査地で得たインド映画に関する情報や資料をくださったりと、いろいろ協力してくださいました。
でも、事務室の私のデスクをのぞきこんだ山口昌男先生から、『松岡がまた映画の原稿書いてるよ』と言われて、『先生、大きな声で言わないでください!』と慌てたり……、呑気(のんき)な時代でしたね」
そんなある日、AA研のさらなるメリットに環は遭遇する。
『インド通信』の発行とともに、1978年ごろから、インド映画のビデオを携えて、いい映画があるのでぜひ観てみてくださいと、映画関係者を訪ねていた。
サタジット・レイ監督の三部作を上映した神保町の岩波ホールにも、なんのツテもなく、アポイント(約束)無しで突撃訪問。対応してくれた人からは、「いやあ、うちはちょっと……」と、やんわりと断られた。
ところが、環がビデオカセットや資料を入れていた古封筒の「アジア・アフリカ言語文化研究所」の文字に気づいたその人は、「AA研の方ですか? 山口昌男先生には、いつもお世話になっています」と態度が変わり、話を聞いてくれた。
「“この封筒の文字が目に入らぬか”みたいな、AA研の威力ですね(笑)。これがきっかけで、岩波ホールとお近づきになれました。
その後、『チェスをする人 Shatranj Ke Khilari』(1977)というヒンディー語の映画を、字幕翻訳の大御所である清水俊二さんが英語から重訳なさっていて、その試写を見せていただく機会がありました。1か所、訳が違うと思うところがあり、それをお伝えしたりしました。清水さんはとてもお仕事が早くて、その代わり読みづらい文字をお書きになるそうで、字幕原稿の読み違いだったのか、英訳が違っていたのか、今となってはわかりませんが」
『チェスをする人』は1981年4月18日に日本で公開された。
こうして環は、1980年代の日本で着実にインド映画紹介の道を進んでいった。
(続く)
(原題『Raju Ban Gaya Gentleman』ヒンディー語/1992、日本公開1997年5月17日)
ダージリンの大学を卒業し、一旗あげるためにボンベイに来たラジュー(演じるのはシャー・ルク・カーン)は、あてにした知人が夜逃げし、しかも水をかけられるなど災難つづき。ところが水をかけた女性レヌ(ジュヒー・チャーウラー)と、いつしか恋仲になる。しかもレヌの紹介で、ラジューは建築会社に就職して出世街道まっしぐら! と思いきや、ピンチが訪れる。ラジューはどう乗り切るのか?
劇場プログラム(左写真 プログラム提供:松岡環)には、登場人物の名前は「ラージュー」「レーヌー」の表記のほうが原語に近いが、字幕の字数等の関係上、比較的弱い音引きは割愛させていただいた、と注意書きが入っている。
インドの映画館では、観客は映像に合わせて自然と踊ったり歌ったりするそうです。紙吹雪や鳴り物、発声ありの熱狂的なインド映画鑑賞スタイル(マサラ)で月1回上映する「マーダム・オル・マサラ」(南インドのタミル語)、キネカ大森の「月一マサラ」9月9日は、松岡環さんが字幕翻訳を手がけた『ムトゥ 踊るマハラジャ 4K&5.1chデジタルリマスター版』です。シネ・リーブル池袋は、9月17日【マーダム・オル・マサラ】で『Rラージクマール』上映です。詳細はそれぞれの映画館のHPでご確認ください。
「ニュースの波」という意味の「カバル・ラハリヤ」は、2002年に創刊された地方新聞。作っているのはダリト*という下層カーストの女性たち。性暴力、鉱山の劣悪な労働、トイレや電気がない住宅環境など、地域の暮らしに根ざした報道を続けている。2016年には、スマホを使ったデジタル配信に挑戦。映画は、女性記者たちがスマホを初めて手にし、アルファベットを覚え、互いに教えあい、助け合い、取材に向かう姿を追う。14歳で結婚し二人の娘がいるミーラをはじめ、女性記者たちは、夫や父親、周囲の無理解にあいながら、ペン(スマホ)の力で人を守り、世の中を変えようとする。女性記者を見下ろす男たちの視線は万国共通だが、立ちはだかるカーストを思うとき、彼女たちの力強さと優しさに胸があつくなる。
*ダリトとは「壊された人びと」を意味するヒンディー語であり、2000年の歴史をもつカースト制度のもと、「不可触民」と呼ばれてきた人びとが、抑圧の壁を打ち破る意思を表明するために自らつけた呼称。(映画パンフレットの小森恵氏の解説より。松岡環さんも、映画パンフレットに、映像の背景への理解が深まる解説記事を寄稿しています。)
大橋由香子(おおはし ゆかこ) プロフィール
フリーライター・編集者。月刊「翻訳の世界」(バベル・プレス)やムック「翻訳事典」(アルク)等で翻訳者へのインタビュー取材を手がけてきた。光文社古典新訳文庫の創設時スタッフでもある。著書『同時通訳者 鳥飼玖美子』『生命科学者 中村桂子』(理論社)『満心愛の人 益富鶯子と古謝トヨ子:フィリピン引き揚げ孤児と育ての親』(インパクト出版会)『異文化から学ぶ文章表現塾』(新水社、共著)ほか。