2024.10.07

10月新刊『赤い小馬/銀の翼で スタインベック傑作選』から、名作「朝めし」の解説を公開します。

スタインベックの短篇を読むということ──「朝めし」を味わう
井上 健
東京大学名誉教授・比較文学
『赤い小馬/銀の翼で スタインベック傑作選』 ジョン・スタインベック/芹澤恵訳

寒い中、田舎道を歩いてきた若い旅人である語り手は、夜もようやく白みかけた頃、通りかかったキャンプ地で、季節労働者の家族のつましい朝食の場に遭遇する。若い母親が赤ん坊を抱いて乳をやりながら、朝食の用意をしている。パンを焼き、ベーコンを炒める匂い、コーヒーの香りが漂ってくる。テントの中から若い男とその父親が姿を現し、一緒に食べていかないかと語り手を誘う。男たちはこの十二日間、綿花摘みの仕事にありつけている、働く気があるなら口をきいてやるが、と持ち掛けられるが、語り手は、先を急ぐのでと断り、ごちそうさま、と告げ、また田舎道を歩き出す。これだけの話である。だが、語り手はこのときのことを思い出すたびに、「不思議なほど温かな歓びが胸に満ちてくる」のであった。

冒頭の寒々とした明け方の風景の描写、ことに、明るみ行き「薄紅色」に染まる東から、「夜の真闇」の西へと、語り手の視線がゆっくり百八十度移動していくあたりは、映画のロングショットを思わせる。夜明けの光が徐々に支配的になっていく様と、労働者一家とのほのぼのとした交流の醸し出す情感とが巧みに重ね合わされる。調理や食事の場面は、視聴覚、嗅覚を総動員して、臨場感豊かに描き出される(赤ん坊が乳を吸う音もたしかな効果音である)。素朴で簡潔な会話のもたらす効果。語彙も文構造も平明ながら、言葉は的確に選び取られ、構成にも無駄がない。短篇作家としてのスタインベックの力量を十分に感じさせる一篇であるに違いない。

季節労働者の父子が働いた十二日間という日数が、キリスト生誕を祝う降誕節の、クリスマスから数えた日数に一致するのは、おそらく偶然ではないだろうし、赤ん坊を抱いた若い母親の姿は聖母像を連想させもする。そう思って読めば、簡素な食事が供されて、語り手がそれを共にする様は、どこか儀式めいてもいるし、焼きたてのホットビスケットの匂いを吸い込んだ若い男の台詞「こたえられないんだよな」や、朝食を頰張った父親が口にする台詞「いやあ、うまい」は、英語原文では“Keerist”(=Christ)であり“God Almighty”なのである。

「朝めし」の冒頭と末尾には、この寒い早朝に味わったことを、語り手が思い起こして問い直す段落が配されている。最終段落で語り手はまず、この体験が何故にかくも「嬉しく快い」ものだったか、「その理由」(some of the reasons)は、わかっていると述べる。しかし、それだけではない。そこにはさらに、「崇高な美に通じる要素」(some element of great beauty)があって、思い出すたび「温かなものが胸を満た」してくれるのである。この言わば二段構えで読者に呈示される、嬉しく快かったその理由を、どう読み分けたらよいのか。

短篇「朝めし」は、スタインベックが一九三四年の五月、移動労働者たちのキャンプを調査に訪れた時の体験をもとにして書かれたもので、三年後に刊行する長篇『怒りの葡萄』には、三人称語りに変換され、主人公トムをめぐる挿話に仕立て直されて、第二十二章として取り入れられている。一九三六年発表の「朝めし」の背景にも、一九三〇年代の不況下のアメリカという現実を見据える、作者スタインベックの社会批判精神は、しかと作動していたはずである。語り手が実際に体験した、具体的な心温まる場面の数々(作中でこれは、しばしば感覚的に描写される)。それが、「嬉しく快い」ものだったと回想する「理由」の主たる中身をなすことはたしかだ。しかしながら、「朝めし」の成立事情を考慮に入れれば、この「嬉しく快い」心象の底流に、大恐慌後の世界をたくましく生き抜いている労働者たちに、現に接することのできた歓びや安堵感があったとしても何の不思議もない。

こうした諸々の目に見える「理由」を、さらに抽象化、観念化して言い直したものが「崇高な美に通じる要素」である以上、それは、このほのぼのとした実体験が搔き立てた人類愛的な啓示とか、先にあげた、宗教的な象徴や顕現(エピファニー)のごときもののはずである。

スタインベックの短篇はこのように実は幾層にも、読者をあれこれと思案させる意匠や仕組み、そして問い掛けに満ちている。そうした複合性や多重性に浸り、それを楽しんで頂ければ幸いである。


[解説:井上 健]
東京大学名誉教授・比較文学

『赤い小馬/銀の翼で スタインベック傑作選』 ジョン・スタインベック /芹澤恵訳

赤い小馬/銀の翼で スタインベック傑作選

ジョン・スタインベック
芹澤 恵 訳
  • 定価:1,364円(税込)
  • ISBN:978-4-334-10468-9
  • 発売日:2024.10.8