著者年譜

アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ

『ちいさな王子』

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出来事
1900年  6月29日(金曜日)、アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ、リヨンにて誕生。ジャン・ド・サン=テグジュペリ伯爵とマリー・ボワイエ・ド・フォンコロンブの第3子にして長男。長女マリー=マドレーヌは3歳、次女シモーヌは2歳年上。
1902年 2歳  弟フランソワ誕生。
1904年 4歳  妹ガブリエル誕生。まもなく、父ジャンが病死。1家は母方の祖父シャルル・ド・フォンコロンブが所有する南仏サン=トロペ近郊、ラ・モールの屋敷に移り住む。
1907年 7歳  祖父シャルル没。母方の大叔母ド・トリコー伯爵夫人の庇護を受け、子どもたちの暮らしは伯爵夫人の住むサン=モーリス・ド・レマンスの屋敷、および同夫人のリヨンのアパルトマンの2カ所で営まれる。
1909年 9歳  夏、1家はル・マンに転居。ル・マンの聖十字架学院に入学、厳しい寮生活を送る。
1912年 12歳  サン=モーリス近くの飛行場で、飛行機搭乗の初体験。
1914年 14歳  10月、弟とともにノートルダム・ド・モングレ学院に転校。
1915年 15歳  スイス・フリブールの聖ヨハネ学院寄宿生となる。
1917年 17歳  6月、大学入学資格試験に合格。パリの寄宿舎で海軍兵学校受験の準備(受験には結局、失敗)。夏、弟フランソワが病死。享年15
1921年 21歳  兵役。ストラスブールの第2航空連隊に編入され、飛行士を希望するも地上勤務となる。自費で飛行機操縦を学び民間飛行免許を取得。
1923年 23歳  ル・ブールジェ飛行場で事故を起こし重傷を負う。除隊後、パリに戻り、瓦製造会社で事務の仕事をしたり、トラック製造販売会社のセールスマンをしたりする。
 恋人ルイーズ・ド・ヴィルモランとの婚約が破棄され、失意の淵に沈む。
1926年 26歳  4月、ジャン・プレヴォーの編集する文芸誌「銀の船」に処女短編「飛行士」を掲載。6月、長姉マリー=マドレーヌが病死。10月、ラテコエール郵便航空会社に入社。飛行士ギヨメ、メルモーズと知り合い終生の友情を結ぶ。
1927年 27歳  トゥールーズ|カサブランカ、さらにはカサブランカ|ダカールを結ぶ定期郵便飛行に従事。砂漠への不時着事故を体験。10月、サハラ砂漠の中継基地キャップ・ジュビー(リオ・デ・オロ)に飛行場主任として赴任。
1929年 29歳  フランスに帰国。ガリマール社から『南方郵便機』刊行。ブエノスアイレスに派遣され、ギヨメ、メルモーズらと南アメリカにおける郵便航路開発に携わる。アエロポスタ・アルヘンティーナ社(フランス・アエロポスタル社の系列会社)の支配人となる。『夜間飛行』執筆。
1930年 30歳  6月、アンデス山脈で消息を絶ったギヨメを捜索。奇跡的に生還。エルサルバドル出身のアルゼンチン人女性コンスエロ・スンシンを紹介される。コンスエロはアントワーヌの2歳年下。すでに2度の結婚歴があったが、最初の夫は結婚2年後に死亡。2番目の夫である30歳年上の作家エンリケ・ゴメス・カリーリョは、1927年に病死していた。
1931年 31歳  フランスに帰国。コンスエロと結婚。『夜間飛行』の原稿を読んだアンドレ・ジード、感動して序文を寄せる。刊行された『夜間飛行』はフェミナ賞を受賞。ただちに英語・独語に翻訳され、ハリウッドで映画化されて1933年に封切られる(クラレンス・ブラウン監督、ジョン・バリモア、クラーク・ゲーブル出演)。
1932年 32歳  アントワーヌの母、大叔母ド・トリコー伯爵夫人の没後、1919年より所有していたサン=モーリスの屋敷を売却。
1933年 33歳  南仏サン=ラファエルで水上飛行機のテスト飛行中に事故を起こし、危うく溺死しかける。
1934年 34歳  アエロポスタル社など4社を統合してできたエール・フランス社に入社。
1935年 35歳  コンスエロとの暮らし、経済状況悪化の1途をたどる。「パリ・ソワール」紙特派員としてモスクワに1カ月滞在、ルポルタージュを寄稿。左翼運動家にして作家のレオン・ヴェルトと知り合い友情を結ぶ。10月、サン=テグジュペリ脚本による映画『アンヌ=マリー』撮影(レーモン・ベルナール監督、アナベラ出演)。12月末、購入したばかりの念願の自家用シムーン機に乗ってパリ|サイゴン間の夜間飛行スピード記録に挑戦するが、リビア砂漠に墜落。飛行機は大破するも助かる。
1936年 36歳  8月、スペイン内戦の取材でカタロニアに1ヶ月滞在。10月、『南方郵便機』映画化される(監督ピエール・ビヨン、ピエール=リシャール・ヴィルム主演)。12月、メルモーズ、大西洋上空で消息を絶つ。
1937年 37歳  4月、ふたたびスペインへ(7月まで)。マドリッドでヘミングウェイ、ドス・パソスと会う。
1938年 38歳  2月、ニューヨーク|プンタ・アレナス間の飛行レースに参加。前年に購入した2機目のシムーン機で臨んだがグアテマラで離陸に失敗、人事不省となる大怪我を負う。ニューヨークで静養しながら『人間の土地』を執筆。
1939年 39歳  『人間の土地』刊行、アカデミー・フランセーズ小説大賞を受賞。英訳も評判を呼び、全米図書賞受賞。9月、フランスの対ドイツ宣戦にともない動員され、33-2偵察部隊に配属。偵察飛行の同僚機が次々に撃墜される。
1940年 40歳  6月、フランス降伏。除隊後、『城砦』執筆。11月、輸送飛行中のギヨメが地中海上空で撃墜されたことを知る。12月、アメリカに向け出港。映画監督ジャン・ルノワールと同室となり意気投合。
1941年 41歳  1月、ニューヨークに落ち着く。ヴィシー派、ド・ゴール派のいずれにも属さず政治的に孤立。フランスの分裂状態に対する憂い深まる。夏、グアテマラの事故の後遺症を治すため手術を受ける。カリフォルニアで療養。アナベラと再会、彼女にプレゼントされたアンデルセンの童話『ちいさな人魚(人魚姫)』を病院のベッドで読む。11月、コンスエロがフランスからやってくる。
1942年 42歳  2月、『戦う操縦士』の英訳版を先に刊行。夏、『ちいさな王子』執筆。11月、連合軍が北アフリカに上陸作戦を展開。アントワーヌは33-2偵察部隊への復帰を願って奔走。『戦う操縦士』がフランスでも刊行されるが発禁となる。
1943年 43歳  4月、『ちいさな王子』フランス語版および英訳版がアメリカで同時に刊行される(フランスでの出版は1946年)。ニューヨークを去ってアルジェへ。33-2偵察部隊に復帰。35歳までのパイロットのみに搭乗を許されていた最新の高性能機ライトニングP38を操縦。8月、着陸ミスにより予備役に回される。中断していた『城砦』の執筆を再開。
1944年 44歳  2月、「ラルシュ」誌に「人質への手紙」を発表。5月、サルディーニャ島アルゲーロ基地の33-2偵察部隊に復帰。7月31日、ロッキードF-5Bライトニング機で偵察飛行に出たまま消息を絶つ。33-2偵察部隊における最後の任務であり、帰還後は引退する予定だった。
1948年  『城砦』刊行。
1998年  9月、サン=テグジュペリが身につけていた物と思われる銀のブレスレットがマルセイユ沖でトロール船の網に掛かる。
2003年  F-5Bの残骸がマルセイユ沖の海底で発見され、調査の結果サン=テグジュペリの乗機であることが明らかとなった。機体の損傷が激しいため、墜落原因はいまなお特定されていない。