1859年
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5月2日、中部イングランドのウォールソール(バーミンガムの北西約十キロ)にて、ジェローム・クラップ・ジェロームとして出生(4人姉弟の末っ子)。同名の父ジェローム・クラップ・ジェロームは建築業者・炭鉱経営者で、非国教徒プロテスタントの説教師としても知られた人物だった。母マーグリートは事務弁護士の娘。夫妻の息子ジェロームのミドルネームが途中で「クラプカ」に変わったのは、1家の友人であったハンガリー人の亡命将軍クラプカ・ジェルジ(英語読みではジョージ・クラプカ)にちなんだものだと本人は説明するが、英国ジェローム協会のウェブサイト(www.jeromekjerome.com)は、1家のクラプカ将軍との関わりはジェロームの創作であり、ジェローム自身がジャーナリズムに関わるにあたって「クラップ」より響きのよい「クラプカ」を選んだのではないかと、年代的な証拠を挙げながら推測している。ジェロームの出生時、1家には経済的余裕があり、暮らしぶりは中産階級のものだった。 |
1861年
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2歳
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父ジェローム、事業に失敗。1家はバーミンガムの西にあるスタウアーブリッジに移る。その後、父ジェロームは鉄工場経営、炭鉱事業に手を出して大失敗。1家はやがてロンドンのイースト・エンドのポプラーに移る。ジェローム家にはしばしば借金取りが押しかけていたという。 |
1869年
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10歳
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ロンドンのマリルボーンにあるフィロロジカル・スクール(「家計急変のために没落した軍人・聖職者・商人・技術者の家庭の家長を援助する」という目的で1792年に設立、のち1908年には公立のセント・マリルボーン・グラマー・スクールとなる)に入学。「文献学」という校名は設立母体が文献学と関わりがあったためであり、文献学を専門に教える学校ではない。ちなみにジェロームは自伝の中で、自分の受けた教育を含めイギリスの学校教育はおおむね内容空疎であると批判している。 |
1870年
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11歳
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イギリスで初等教育法が施行される。5歳から十3歳までの児童に広く教育を施すべく、自治体や教会教区に委員会が設けられ、1880年までに全国で3千から4千の初等学校を設立。このことは、ある程度の基礎的教養を持った層が大量に創出されることを意味し、書物の潜在的読者層を広げることにつながった。1880年には、初等教育が義務化されている。 |
1872年
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13歳
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父ジェローム死去。 |
1874年
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14歳
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ジェロームは政治家ないし文人としての将来を夢見ていたが、自活のやむなきに至り、1月にロンドン・アンド・ノース・ウェスタン鉄道に雇われる(最初の仕事は線路沿いの石炭拾いで、のちにはユーストン駅の切符係、広告取りに)。鉄道には4年間勤務。 |
1875年
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16歳
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母マーグリート死去。 |
1877年
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18歳
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芝居好きだった姉の影響で劇団に身を投じ、「ハロルド・クライトン」という芸名で各地をめぐる。劇団は窮乏を極めており、団員たちは巡業先の楽屋に泊まったり、楽屋がない場合は舞台の上で寝たり、ひどい場合は無人の教会の敷地に忍び込んでひさしの下で眠ったりする過酷な生活だったようである。 |
1880年
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21歳
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劇団生活に見切りをつけて、ある町で衣装を売り払い、わずか3十シリングを懐にロンドンへ。晴れた晩には野宿をしたり、雨の晩には簡易宿泊所に泊まったりの生活が続くが、ジャーナリズムの世界で下働きをしていた友人の紹介によって事件記事を書きはじめ、やっと狭い下宿を借りられる身に。短篇小説やエッセイを雑誌・新聞に投稿しはじめるが、なかなか採用されない日々が続いた。しばらく職が安定せず、速記係、クラパムにあった学校の臨時教員、建設業者の帳簿係、通販会社のバイヤーおよび発送係などとして働く。最後に、事務弁護士の事務所で事務員となり、ある程度安定した収入を得るようになる。弁護士の顧客のひとりは『フランダースの犬』で知られる作家ウィーダで、金銭感覚ゼロの彼女がロンドン滞在の折に方々で気まぐれに注文する品々をキャンセルして回るのもジェロームの仕事だったという。タヴィストック・スクウェアの下宿屋のおかみの提案で、『ボートの3人男』のジョージのモデルとなるジョージ・ウィングレイヴ(のちにバークレイズ銀行の支店長)と部屋を共にしたのはこの時代のようである。 |
1885年
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26歳
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劇団員としての経験をユーモラスに綴った著書On the Stage - and Offを、レドンホール・プレス社から1シリングの廉価版で刊行。ジェローム初の単行本となる。『ボートの3人男』のハリスのモデルとなる印刷技術者のカール・ヘンチェルは劇場通いの常連でもあり、ジェロームとこの頃に知り合ったのも演劇についてのディスカッション・サークルを通じてのようである。ジェローム、ウィングレイヴ、ヘンチェルの3人はしばしば1緒にボート遊びに出かけるようになる。 |
1886年
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27歳
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ユーモア・エッセイ集Idle Thoughts of an Idle Fellow刊行。前年のOn the Stage - and Offと合わせ、いささかの文名を得る。また、戯曲Barbaraを売り込んで上演にこぎつけ、劇作家としての活動も始める。 |
1888年
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29歳
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「エティ」ことジョージーナ・ヘンリエッタ・スタンリー・マリスと結婚(エティは前夫との離婚直後だった)、テムズ河に新婚旅行に出かける。ジェロームはエティが最初の結婚で設けた娘「エルシー」ことジョージーナを家庭に加えて愛情深く養育した。新婚旅行の帰途に、『ボートの3人男』執筆を開始。郊外住まいの事務労働者層を主なターゲットとした雑誌『ホーム・チャイムズ』に、8月から連載が始まる(Idle Though of an Idle Fellowも、単行本に先立ってこの雑誌に連載されていた)。 |
1889年
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30歳
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9月、アロウスミス社から『ボートの3人男』の単行本刊行。即座にヒットし、翌年にはテムズ河でボートの登録数が1・5倍になったという。 |
1890年
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31歳
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雇い主であった事務弁護士のアンダーソン・ローズが9月に死去。事務弁護士の資格を取って文筆と兼業することも考えていたジェロームだが、これを潮時に、「ボートを燃やして[背水の陣を敷いて]文筆業にすべての時間を注ぐことにした」(自伝より)。以後、小説、エッセイ、劇作と多産な活動を続ける。ドイツのオーバーアマガウにキリスト受難劇の上演を鑑賞に出かけ、ドイツを気に入る。 |
1891年
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32歳
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前年のオーバーアマガウへの旅行記を含むエッセイ・短篇集Diary of a Pilgrimageを刊行。そのうちの1篇“The New Utopia”は平等国家による人民管理を描いたディストピア小説で、ウィリアム・モリスのユートピア小説『ユートピアだより』(News from Nowhere、1890)へのパロディ的な批評意識が読み取れる。筋立てにおいてロシアの小説家エフゲニー・ザミャーチンの『われら』(1921)と共通点が多いため、『われら』のヒントになったのではないかと言われている。 |
1892年
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33歳
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友人のロバート・バー(推理短篇「放心家組合」で知られる)に誘われ、月刊の絵入り諷刺雑誌『アイドラー』(怠け者)を共同編集で創刊。バーは、共同編集者の候補としてラドヤード・キプリング(インドほかのイギリス植民地を舞台にした小説で知られ、1907年にはノーベル文学賞を受賞)も考えていたが、結局はジェロームがその座を射止めた。『アイドラー』には、キプリングをはじめマーク・トウェイン、アーサー・コナン・ドイル、W・W・ジェイコブズといった当代1流の作家が寄稿している。短篇「猿の手」で知られるジェイコブズはジェロームが発見した書き手だった。 |
1893年
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34歳
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隔週刊行の雑誌『トゥデイ』を創刊。『アイドラー』の編集と合わせ、多忙な日々を送る。『トゥデイ』にも、ロバート・ルイス・スティーヴンソンほか有名作家が連載を行なっている。 |
1897年
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38歳
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『トゥデイ』の記事が原因となり、編集長として名誉棄損で訴えられる。判決では賠償金はゼロに近かったが、巨額の法廷費用の支払いを命じられる。これをきっかけに、『アイドラー』と『トゥデイ』の編集権を譲渡。 |
1898年
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39歳
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エティとの間に娘ロウィーナが出生。ドイツに旅行。 |
1900年
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41歳
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ドイツ旅行の経験をもとに、『ボートの3人男』の続篇『自転車の3人男』(Three Men On a Bummel)を刊行。この年、1家でドイツのドレスデンを訪れ、2年間滞在。 |
1902年
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43歳
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ディケンズの作品を思わせる自伝的小説Paul Kelverを刊行。ジェロームの著作中、もっとも批評家受けが良かった作品。この年までほぼ1年に1冊の割合で著作を刊行していたが、以後はペースが落ちることに。 |
1908年
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49歳
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初の米国講演旅行。セオドア・ローズヴェルト大統領と会見。また、戯曲The Passing of the Third Floor Backを発表。初演時には、シリアスな道徳的プロット――人生に望みを失った人々ばかりが住んでいるみすぼらしい下宿屋にキリストを思わせる新しい客がやってきて、人々の人生をよりよい方向に向かわせる――によって観客をいささか困惑させるも、商業的には成功を収める(1935年には映画化されている)。ただし、インテリ批評家たちには受けが悪く、作家・諷刺画家のマックス・ビアボームは「もう長年にわたってせっせと十流の作品を量産してきたこの書き手にしても珍しいほどの、愚劣きわまる作品」とこき下ろした。 |
1913年
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54歳
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米国に講演旅行。テネシー州チャタヌーガで、黒人差別を非難する演説を行なう。 |
1916年
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57歳
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第1次世界大戦にYМCAの「兵士向けエンターテイナー」という資格で従軍させてほしいと英国軍に交渉するがうまく行かず、フランス軍の救急車運転手として前線に従軍。この経験は、以前から憂鬱に陥りがちな傾向があったジェロームの世界観をいっそう暗くした。ジェロームの秘書によれば、帰ってきたジェロームはまるで別人のようであったという。回想録には「戦争に対して私がいささかなりとも敬意を持っていたとしても、あの経験でそんな気持ちは消え失せた」とある。 |
1921年
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62歳
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養女エルシーが死去、ジェロームを悲嘆させる。 |
1926年
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67歳
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回想録My Life and Timesを刊行。出生地ウォールソールの名誉市民となる。 |
1927年
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68歳
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デヴォンからロンドンへ向かう自動車旅行の途中で脳出血を起こし、2週間後にノーサンプトンの病院で死去。ロンドンのゴールダーズ・グリーンで火葬され、オックスフォードシャーのユーウェルムにあるセント・メアリー教会に埋葬される。 |