1914年
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四月四日、仏領インドシナ(コーチシナ)の、サイゴン(現ホーチミン市)近郊、ギアディンに生まれる。父はアンリ・ドナディユー、西南フランスのロ=テ=ガロンヌ県出身、理科の教師(従ってデュラスの本名はマルグリット・ジェルメーヌ・マリー・ドナディユー。後にペンネームとするデュラスは、父の故郷の町の名)。母マリー・ルグランは、東北フランスのパ=ド=カレー県出身で、小学校教師。因みに父は再婚である。二人の兄弟、ピエールとポールがいた。マルグリットは小柄な少女で、成長しても一メートル五二センチにしかならなかった。 |
1915年
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1歳
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両親、二人の兄と共にフランスに帰国。植民地派遣の教育公務員の本国帰国休暇。 |
1917年
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3歳
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一家はサイゴンに戻る。父はハノイのコレージュ院長に任命(インドシナ半島で最も重要な保護領高等中学校)。一家はハノイに移住。夏は中国のユンナンに避暑。 |
1919年
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5歳
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トンキンへ。父は初等教育長(代理)に任命。母も昇進。 |
1920年
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6歳
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この年の初頭、父はカンボジアに赴任。10歳と九歳の男の子の教育のことを思い、家族はハノイに残す。プノンペン赴任。六カ月後には家族も合流(一八カ月滞在)。 |
1921年
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7歳
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父の病気。四月末、病気療養のため帰国。一二月四日、ロ=テ=ガロンヌ県デュラス近郊で死去。 |
1922年
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8歳
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母は正規の休暇をとる。一二歳、一〇歳、八歳の子供を連れて、七月七日、サイゴン発の船に乗る。八月四日、マルセイユ着。まずパ=ド=カレーの実家に帰り、次いでデュラスに赴く。 |
1924年
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10歳
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七月一日、サイゴン着。ピエール一四歳、ポール一三歳。八月にプノンペンへ向かう。母、ヴィン・ロンに任命。初めは拒否。一二月着任。 |
1925~1931年
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11歳~一七歳
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この間に、後に小説等の素材となる重要な体験が起きる。すなわち、父を失った1家はカンボジアのサデックに移住。ピエールは資格試験のためにフランスへ帰国。なかでも特筆すべき事件は、『太平洋の防波堤』のモデルになる、母による、カンボジアのレアムとカンポトの間の海に面した土地の開発権利の取得と、その事業の壮絶な失敗(1927年)。マルグリットは、 |
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サイゴンの高等中学に入学。寄宿生となる。公立校だがカトリック的教育を行った。一五歳の頃、ヴェトナム人の紳士と出会い、その愛人となって、初めての性的快楽を知る(小説『愛人』の物語のモデル。小説では、中国人紳士となっている)。 |
1931年
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17歳
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亡夫の遺産処理のために、母マリーは、ポールとマルグリットを伴いフランスへヴァカンス帰国。 |
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一〇月より、オートゥイユの私立エコール・シアンシアに入学。恋人が出来る。 |
1932年
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18歳
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妊娠していることが分かり、子供を堕ろす。バカロレア(高等教育受験資格試験)の第一部は合格。サイゴンに戻る。マルグリットはバカロレア第二部に、「ヴェトナム語」で合格。 |
1933年
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19歳
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一〇月、サイゴンから帰国。 |
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一一月、パリ大学法学部入学。政治学を学ぶ。 |
1939年
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25歳
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九月三日、仏独開戦。 |
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九月二三日、ロベール・アンテルムと結婚。 |
1942年
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28歳
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五月一六日、最初の子供を出産時に失う。 |
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7月から1944年初頭まで、「印刷用紙検閲委員会」秘書。 |
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10月、ベッティ・フェルナンデス(ラモン・フェルナンデスの2番目の妻)の世話で、サン=ブノワ街5番地のアパルトマンを買い、そこに引っ越す。ここが、1996年に亡くなるまで、デュラスの終の棲家となる。 |
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一一月、ディオニス・マスコロと出会う。なお、ジャン・ヴァリエやロール・アドレールなどの伝記作家によれば、デュラスは、サン=ジェルマンのブラッスリー・リップの常連であり、そこでベッティとも知り合ったというが、リップの、サン=ジェルマン大通りを隔てた向こう側にあるキャフェ・ラ・フロールやドゥー・マゴーには、サルトルを始めとする対独抵抗派の作家や芸術家が集まっていた。この時期に、ベッティの、一種の文芸サロンのような会合の御蔭で、ピエール・ドリユー・ラ・ロシェル、ロベール・ブラジヤック、などの対独協力派の作家や、マルセル・ジュアンドー、アンリ・ミショーなどの作家と知り合い、文壇への登場の糸口となる。ラモン・フェルナンデスが極めて優美にバルザックを読んで、皆が恍惚としたという、『アガタ』の一挿話と無関係ではないことが起こるのも、この頃である。 |
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一二月、愛していた次兄ポールが、サイゴンで、気管支性肺炎で亡くなる。 |
1943年
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29歳
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対独レジスタンスに加わる。そこでフランソワ・ミッテランと出会う。長い友情の始まり。『あつかましき人々』(小説、プロン)。 |
1944年
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30歳
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夫ロベール・アンテルムは、ユダヤ人であるため、逮捕され、強制収容所送りになる(幸運にも翌年、帰国する)。フランス共産党に入党するが数年後に脱退する。ベッティの文芸サロンで知り合っていたガストン・ガリマールが、デュラスの処女作品の出版をする。『静かな生活』(小説、ガリマール)。 |
1945年
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31歳
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ロベール・アンテルムと共に、サン=ブノワ街に、出版社「ラ・シテ・ユニヴェルセル(万国都市)」を設立。二人の周囲に作家や哲学者が集まりだす。 |
1946年
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32歳
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ロベール・アンテルムと離婚。 |
1947年
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33歳
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ディオニス・マスコロとの間に男子をもうける。 |
1950年
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36歳
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サン=ブノワ街のグループは、アルジェリア戦争に際して、政治的な姿勢を鮮明にする。『太平洋の防波堤』(小説、ガリマール)。デュラスの小説で最初に評判になった作品。 |
1952年
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38歳
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『ジブラルタルの水夫』(小説、ガリマール)。 |
1953年
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39歳
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『タルキニアの小馬』(小説、ガリマール)。 |
1954年
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40歳
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『「幾日も木立ちの中で」他三篇』(小説、ガリマール)。 |
1955年
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41歳
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『辻公園』(小説、ガリマール)。 |
1958年
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44歳
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ヌーフル=ル=シャトーに家を買う。『モデラート・カンタービレ』(小説、ミニュイ)。 |
1959年
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45歳
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『セーヌ=エ=オワーズの陸橋』(戯曲、ガリマール)。周到な劇作術にもかかわらず、不評。 |
1960年
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46歳
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『夏の夜の十時半』(小説、ガリマール)、『ヒロシマ、私の恋人』(映画シナリオ及び対話、ガリマール。映画の邦題『二十四時間の情事』)。映画作家としてのデュラスは、国際的なメディアの世界に入った。以後、小説執筆と映画製作は、極めて複雑な関係において展開される。 |
1961年
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47歳
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『かくも長き不在』(映画シナリオ及び対話、ジェラール・ジャルロとの共作、ガリマール)。 |
1962年
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48歳
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『アンデスマ氏の午後』(小説、ガリマール)。 |
1963年
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49歳
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トゥールヴィルのロッシュ・ノワールに、元ホテルだった家を買う(『マルグリット・デュラスのアガタ』と『ガンジスの女』のロケをしたのはここ)。 |
1964年
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50歳
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『ロル・V・シュタインの歓喜』(小説、ガリマール)。 |
1965年
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51歳
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『戯曲集1』(『水源森林資源局』『辻公園』『ラ・ミュジカ』を収める。ガリマール)、『ラホールの副領事』(小説、ガリマール)。 |
1966年
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52歳
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『ラ・ミュジカ』(映画、ポール・スバンとの共作)。 |
1967年
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53歳
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『イギリスの愛人』(小説、ガリマール)。 |
1968年
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54歳
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「五月革命」に積極的に参加。『イギリスの愛人』(戯曲版、『国立民衆劇場手帖』)、『戯曲集2』(『シュザンヌ・アンドレール』『幾日も木立ちの中で』『イエス、たぶん』『シャガ語』『私に会いに来た男』を収める。ガリマール)。 |
1969年
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55歳
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『破壊しに、と彼女は言う』(小説、ミニュイ)、『破壊しに、と彼女は言う』(映画)。 |
1970年
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56歳
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『アバン、サバナ、ダヴィッド』(邦題『ユダヤ人の家』。小説、ガリマール)。 |
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ムージルの『特性のない男』を読み、兄妹の近親相姦の主題に強く惹かれる。 |
1971年
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57歳
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『愛』(小説、ガリマール)、『黄色い太陽』(映画)。 |
1972年
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58歳
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『ナタリー・グランジェ』(映画)。 |
1973年
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59歳
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『インディア・ソング』(テクストおよび戯曲、ガリマール)、『ガンジスの女』(映画)、『ナタリー・グランジェ、ガンジスの女』(映画)。 |
1974年
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60歳
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『しゃべる女たち』(グザヴィエール・ゴーティエとの対話、ミニュイ)。 |
1975年
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61歳
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『インディア・ソング』(映画)。デュラス映画の金字塔である。以後、デュラスは映画製作に打ち込んでいく。 |
1976年
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62歳
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『バクスター、ヴェラ・バクスター』(映画)、『人住まぬカルカッタの、ヴェネチア時代の彼女の名』(映画)、『幾日も木立ちの中で』(映画)。 |
1977年
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63歳
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『トラック』(映画)、『トラック、ミシェル・ポルトとの対談付き』(ミニュイ)、『マルグリット・デュラスの世界』(ミシェル・ポルトとの共著、ミニュイ)、『エデン=シネマ』(戯曲、メルキュール・ド・フランス)。 |
1978年
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64歳
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『船舶ナイト号』(ロザンジュ監督映画)。 |
1979年
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65歳
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『「船舶ナイト号」、「セザレア」、「否定的な手」、及び「オーレリア・スタイナー」の三つのヴァージョン』(メルキュール・ド・フランス)、『セザレア』(ロザンジュ監督映画)、『否定的な手』(ロザンジュ監督映画)、『オーレリア・スタイナー、別題オーレリア・メルボルン』(映画)、『オーレリア・スタイナー、別題オーレリア・ヴァンクーヴァー』(ロザンジュ監督映画)。 |
1980年
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66歳
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『ヴェラ・バクスター、あるいは大西洋の岸辺』(アルバトロス)、『廊下に座っている男』(小説、ミニュイ)、『80年夏』(エッセー、ミニュイ)、『緑の眼』(エッセー、「カイエ・デュ・シネマ」掲載)。この年、ヤン・アンドレアがトゥールヴィルに住み込む。晩年のデュラスの生活を大きく変えることになる事件。後にデュラスの最後を看取るのもヤン。 |
1981年
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67歳
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『アガタ』(戯曲、ミニュイ)、『マルグリット・デュラスのアガタ、あるいは限りなき読み』(映画)、『アウトサイド』(エッセー、アルバン・ミッシェル)、『娘と子供』(カセット、『80年夏』のヤン・アンドレアによる脚色、デュラスの朗読)。 |
1982年
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68歳
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『ローマの対話』(映画)、『大西洋の男』(映画)、『大西洋の男』(小説、ミニュイ)、『サヴァナ・ベイ』(戯曲、初版、ミニュイ。改訂版は翌年)、『死の病い』(小説、ミニュイ)。この年、アルコール中毒の治療のため、ヌイイのアメリカン・ホスピタルに入院。 |
1983年
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69歳
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『戯曲集3』(ヘンリー・ジェイムズ『ジャングルのなかの獣』の脚色、同『アスペルン』の脚色、ストリンドベリー『死の舞踏』の脚色を収める。ガリマール)、『愛人』(小説、ミニュイ)の爆発的人気。ベスト・セラーとなり、いささか遅きに失したとはいえ、ゴンクール賞受賞。 |
1985年
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71歳
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『苦悩』(小説、P.O.L.)、『ラ・ミュジカⅡ』(戯曲、ガリマール)、チェーホフ『かもめ』の翻訳・脚色(戯曲、ガリマール)、『子供達』(映画)。 |
1986年
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72歳
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『青い眼、黒い髪』(小説、ミニュイ)、『ノルマンディー海岸の娼婦』(小説、ミニュイ)。 |
1987年
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73歳
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『エミリー・L』(小説、ミニュイ)。 |
1988年
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74歳
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『夏の雨』(小説、ガリマール)。この年から翌年にかけて健康悪化。 |
1990年
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76歳
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『夏の雨』(小説、P.O.L.)。 |
1991年
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77歳
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『中国北部の愛人』(邦題『北の愛人』。小説、ガリマール)。 |
1992年
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78歳
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『ヤン・アンドレア・シュタイナー』(P.O.L.)。 |
1993年
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79歳
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『エクリール』(ガリマール)、『外部の世界』(P.O.L.)。 |
1995年
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81歳
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『これでおしまい』。 |
1996年
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三月三日、死去。 |
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[付記]デュラスの両親は、植民地へ派遣されていた教育公務員であるから、現地及び本国の行政的アーカイヴに資料はたくさん残っている。それらを徹底的に調査・解読・解釈したのは、ジャン・ヴァリエ『これがマルグリット・デュラスであった』(ファイアール社)第一巻(一九一四~一九四五)二〇〇六年刊、第二巻(一九四六~一九九六)二〇一〇年九月一日刊で、それぞれ七〇一頁、九九六頁の大著である。デュラスは過去の出来事をフィクションの種にしたり、現実とフィクションをないまぜにするから、現在までのところ、信用できる「年譜」というものは、フランス語でも日本語でもないようだ。
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