1818年
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十月二十八日(新暦十一月九日)、タタールの血をひく将校の父セルゲイと大地主の母ワルワーラとの次男として、ロシア中部のオリョール県に生まれる。 |
1827年
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9歳
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家族とともにモスクワに移る。 |
1833年
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15歳
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モスクワ大学文学部に入学。 |
1834年
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16歳
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家族がペテルブルクに移ったため、ペテルブルク大学哲学部に転じる(36年に卒業)。十一月、父死去。 |
1838年
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20歳
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最初の詩「夕べ」を発表する。5月、ベルリン大学に留学。この頃、スタンケーヴィチ、グラノフスキーらと親しく交際する。ヘーゲル哲学に詳しく非常にすぐれていたスタンケーヴィチは、自分を慕って集まる青年たちとスタンケーヴィチ・サークルを成していた。 |
1840年
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22歳
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無政府主義者バクーニンと知りあい、短期間いっしょに暮らす。 |
1841年
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23歳
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帰国し、バクーニンの妹タチヤーナとの間に淡い恋がめばえる。 |
1842年
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24歳
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領地スパスコエで、4月、裁縫女イワノワがトゥルゲーネフの娘ポーリーヌを生む。批評家ベリンスキーと知りあい、以後、ベリンスキーが死ぬまで(48年)友情が続く。 |
1843年
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25歳
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匿名で叙事詩『パラーシャ』を発表し、ベリンスキーに絶賛される。内務省に勤めはじめる(45年に退職)。スペイン出身の歌姫ポーリーヌ・ヴィアルドーがロシア公演に来て大成功をおさめた際に知りあう。ポーリーヌは一生の恋人となる。 |
1847年
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29歳
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短編「ホーリとカリーヌィチ」を発表して、作家としての名声を得る。以後、次々に短編を発表して『猟人日記』にまとめ、刊行(52年)。この頃ドイツ、フランス、ロシアを行き来する。 |
1848年
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30歳
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パリで革命に立ち会う。 |
1850年
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32歳
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中編『余計者の日記』を発表。短編「あいびき」を発表(二葉亭四迷が翻訳して明治の文壇に大きな影響を与えることになる「あひびき」の原作)。十一月、母死去。領地の農奴を解放する。 |
1851年
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33歳
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短編「三つの出会い」を発表する(二葉亭四迷が「めぐりあひ」と題して訳したもの)。 |
1852年
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34歳
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「モスクワ報知」にゴーゴリを追悼した『ペテルブルクからの手紙』を発表。それをとがめられ領地スパスコエに1年半蟄居させられる。中編『ムムー』を発表。 |
1855年
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37歳
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戯曲『村のひと月』を発表。トルストイと知りあう。 |
1856年
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38歳
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長編『ルージン』、中編『ファウスト』を発表。 |
1858年
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40歳
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中編『アーシャ』を発表(日本語訳では「片恋」と題されることが多い)。 |
1859年
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41歳
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長編『貴族の巣』を発表。 |
1860年
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42歳
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「ハムレットとドン・キホーテ」という講演をおこない、その原稿を発表。長編『その前夜』、中編『初恋』を発表する。 |
1861年
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43歳
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農奴解放令が公布される。『父と子』を脱稿。トルストイと娘の養育をめぐって仲たがいし、あやうく決闘に発展しそうになったが、避けられた。 |
1862年
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44歳
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長編『父と子』を刊行。 |
1863年
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45歳
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ゴンクール兄弟との交際が始まる。バーデン・バーデンでドストエフスキーと会う。 |
1864年
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46歳
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短編「幻」を発表。 |
1867年
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49歳
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中編『煙』を発表。ドストエフスキーと喧嘩になる。 |
1872年
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54歳
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中編『春の水』を発表。この頃、ゾラ、フローベール、ドーデ、ジョルジュ・サンドらと親しく交流する。 |
1874年
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56歳
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フローベール、ゾラ、ドーデ、エドモン・ド・ゴンクールとともに、五人会食会を始める。 |
1877年
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59歳
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長編『処女地』を発表。 |
1878年
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60歳
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トルストイと和解する。ロシアに帰ったときにトルストイの領地ヤースナヤ・ポリャーナを訪ねる。『散文詩』のほとんどを書きあげる。 |
1879年
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61歳
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オックスフォード大学から名誉博士号を授与される。 |
1882年
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64歳
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脊髄癌が悪化する。『散文詩』を発表。 |
1883年
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65歳
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中編『クララ・ミリッチ(死後)』を発表。六月、創作活動に戻るよう呼びかけた手紙をトルストイに送る。八月「終焉」を口述。八月二十二日(新暦九月三日)、パリ郊外ヴィアルドー夫人の別荘で永眠。 |