1821年
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10月30日(新暦11月11日)、軍医の父ミハイル・アンドレーヴィチ(1789~1839)、母マリヤ・フョードロヴナ(1800~37)の次男として生まれる。兄弟姉妹は長男ミハイル(1820~64)ほか、4男4女。 |
1831年
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10歳
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父がトゥーラ県にダロヴォーエ村を買い、以後、夏の休暇をこの村で過ごすことになる。このころシラー作の芝居『群盗』を見、決定的な感銘を受ける。翌年、父は隣村のチェルマシニャーを買う。 |
1834年
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13歳
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兄ミハイルとフョードル、モスクワのチェルマーク寄宿学校に入学。 |
1837年
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16歳
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1月、プーシキン、決闘で死去。2月27日、母マリヤ、肺結核で死去。3月、プーシキンの死の知らせに接する。兄ミハイルとフョードル、ペテルブルグの予備寄宿学校に入学。父ミハイル、病院を辞職。 |
1838年
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17歳
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1月、中央工兵学校に入学許可。不合格となった兄は4月にレーヴェリ(現在のターリン)に移る。10月、試験の成績優れず原級にとどまる。この年、イギリスの作家アン・ラドクリフの影響のもと、「ヴェネツィアの生活の小説」を書く。グーベル訳のゲーテ『ファウスト』第1部が出版され、この時期に読んだ形跡がある。 |
1839年
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18歳
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6月、父ミハイルがチェルマシニャーのはずれで農奴たちに殺害される(8日=推定)。父はその直前、隣の領地の女領主アレクサンドラ・ラグヴィヨーノワと結婚する意志があった。父の死の知らせを受けたあと、初めての癲癇を起こしたという家族の証言。 |
1840年
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19歳
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11月、下士官に任命される。読書に熱中。この年から翌年にかけ、史劇「マリア・スチュアート」「ボリス・ゴドゥノフ」を創作(散逸)。 |
1843年
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22歳
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8月、工兵学校を卒業、陸軍少尉に任命される。工兵局製図課に勤務。バルザックの『ウージェニー・グランデ』をロシア語に翻訳。 |
1844年
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23歳
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2月、遺産相続権を放棄。10月、工兵局を退職、『貧しき人々』の執筆に専念する。作家グリゴローヴィチと共同生活。 |
1845年
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24歳
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5月末、『貧しき人々』完成。評論家の大立者ベリンスキーに絶賛される。 |
1846年
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25歳
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1月、『貧しき人々』が詩人ネクラーソフの総合誌「ペテルブルグ文集」に掲載される。その後、『分身』(2月)、『プロハルチン氏』(10月)を雑誌「祖国雑記」に発表するが不評。10月末、詩人ネクラーソフと口論、雑誌「現代人」と決別する。 |
1847年
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26歳
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2月、社会主義者ペトラシェフスキーの会への接近。ベリンスキーと論争し、不和となる。秋から暮れにかけて、『家主の妻』(10月、11月)を「祖国雑記」に発表。 |
1848年
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27歳
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2月、『弱い心』を「祖国雑記」に発表。5月、ベリンスキー死去。秋から冬にかけ、ペトラシェフスキーの会に頻繁に出入り。12月、『白夜』が「祖国雑記」に掲載される。ほかに『ポルズンコフ』『クリスマス・ツリーと結婚式』などを発表。 |
1849年
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28歳
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1、2月、『ネートチカ・ネズワーノワ』の最初の部分を「祖国雑記」に発表。春、ペトラシェフスキーの会が分裂する。4月15日、ベリンスキーがゴーゴリに宛てた「手紙」を朗読。4月23日、皇帝直属第3課による捜査が入り、ペトラシェフスキー会のメンバー34名とともに逮捕され、ペトロパヴロフスク要塞監獄に収監される。11月16日、有罪判決を受ける。12月22日、セミョーノフスキー練兵場に連れ出され、死刑を宣告されるが、執行の直前に皇帝の恩赦が下り、同月24日、シベリアの流刑地に向けて旅立つ。 |
1850年
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29歳
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1月、トボリスク着、12月党員(ムラヴィヨフ、アンネンコフら)の妻たちから『聖書』を贈られる。同23日、シベリアのオムスク監獄に到着。その後の監獄体験がのちに『死の家の記録』として結実する。 |
1854年
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33歳
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2月、刑期満了。3月、セミパラチンスクのシベリア守備大隊に配属される。県庁書記イサーエフと知り合い、その妻マリアに恋をする。 |
1855年
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34歳
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8月、イサーエフ死去。 |
1857年
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36歳
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2月、クズネーツクでイサーエフ未亡人マリアと結婚。貴族としての権利を回復する。『小さな英雄』を執筆。 |
1858年
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37歳
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10月、兄ミハイルの雑誌「時代」誌の発行許可が下りる。 |
1859年
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38歳
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3月(4月?)、『伯父様の夢』を雑誌「ロシアの言葉」に発表。7月、セミパラチンスクを出発し、8月、トヴェーリに着く。11、12月、『スチェパンチコヴォ村とその住人』を「祖国雑記」に発表。12月、10年ぶりにペテルブルグに帰還する。 |
1860年
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39歳
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9月、『死の家の記録』の連載が週刊誌「ロシア世界」で開始される。連載は翌年「時代」に移る。 |
1861年
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40歳
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1月、兄ミハイルが「時代」を発刊。「時代」に『虐げられた人々』を連載する。2月19日、農奴解放令発布。9月、作家志望の若い女性アポリナーリア・スースロワを知る。 |
1862年
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41歳
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6月、最初のヨーロッパ旅行に出発。パリ、ロンドン、ジュネーヴ、フィレンツェなどを訪ね、9月に帰国する。『死の家の記録』第2部、『いやな話』などを執筆。 |
1863年
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42歳
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5月、「時代」が発行停止となる。8月、アポリナーリア・スースロワとヨーロッパ旅行に出発。イタリア各地を旅し、10月中旬に帰国。賭博に熱中する。 |
1864年
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43歳
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1月、兄ミハイルが雑誌「世紀」を発刊する。3、4月、『地下室の手記』を「世紀」に発表。4月15日、妻マリア、結核のためにモスクワで死去。7月10日、兄ミハイル、急病で死去。兄の遺族の面倒をみる。9月、友人のグリゴーリエフが死去。 |
1865年
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44歳
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3月、「世紀」廃刊となる。この時期、コルヴィン・クルコフスカヤに結婚を申し込む。7月、3度目のヨーロッパ旅行に出発。10月中旬に帰国。『鰐』執筆。 |
1866年
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45歳
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1月、『罪と罰』の連載を「ロシア報知」で開始(12月号で完結)。10月、速記者のアンナ・グリゴーリエヴナ・スニートキナの助けを借り、口述で『賭博者』を完成させる。11月8日、アンナに結婚を申し込む。以降、口述執筆のスタイルがとられる。 |
1867年
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46歳
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2月15日、アンナと結婚。4月14日、アンナとヨーロッパ旅行に出発、ベルリン着。その後、ドレスデン、バーデン・バーデン、バーゼルを経て、8月にジュネーヴに到着。ドレスデンではラファエロ『サン・シストの聖母』を、バーゼルでは『死せるキリスト』を見る。バーデン・バーデンでは賭博に熱中。『白痴』の執筆。 |
1868年
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47歳
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1月、『白痴』の連載が「ロシア報知」で始まる(翌年2月号で完結)。2月22日、娘ソフィア誕生するが、5月12日に死亡する。9月にミラノに移り、さらにフィレンツェに向かう。 |
1869年
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48歳
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ヴェネツィア、ボローニャ、トリエステ、ウィーン、プラハを経て、8月、ドレスデンに戻る。9月、娘リュボーフィ誕生。11月、モスクワで社会主義者ネチャーエフらによる内ゲバ殺人事件。 |
1870年
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49歳
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1月、2月、『永遠の夫』を雑誌「朝焼け」に連載。 |
1871年
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50歳
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1月、『悪霊』の連載を雑誌「ロシア報知」で開始。7月、ドレスデンを発ち、ペテルブルグに着く。出発の前に、国境での検閲を恐れ『白痴』『悪霊』の草稿を焼く。このとき、妻アンナ「創作ノート」を別便で帰る母親に託して救う。7月16日、息子フョードルが誕生する。パリ・コンミューンに否定的な態度をとる。 |
1872年
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51歳
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5月、スターラヤ・ルッサに行く。9月、ペテルブルグに戻る。11月、12月、『悪霊』第3部が「ロシア報知」に発表され連載完結。12月、週刊誌「市民」の編集を引き受ける。 |
1873年
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52歳
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1月、ドストエフスキー編集による「市民」の刊行開始。『作家の日記』を連載。「ボボーク」(『作家の日記』第6章)などを執筆。 |
1874年
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53歳
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4月、「市民」の編集を離れる。5月、スターラヤ・ルッサに行く。6月、ドイツの保養地エムスに向かう。この冬はスターラヤ・ルッサで過ごす。 |
1875年
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54歳
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1月、『未成年』の連載を「祖国雑記」で開始、12月号で完結。5月末、病気療養のためにエムスに行き、7月にスターラヤ・ルッサに戻る。8月10日、次男アレクセイ生まれる。 |
1876年
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55歳
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2月、雑誌「作家の日記」の刊行を始める。3月、ペテルソンからの手紙でニコライ・フョードロフの思想を知り、衝撃を受ける。5月から6月にかけてスターラヤ・ルッサで過ごし、7月、ドイツのエムスに向かう。11月、「おとなしい女」を「作家の日記」に発表。他に「キリストのヨールカに召された少年」「百姓マレイ」「百歳の老婆」など。 |
1877年
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56歳
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4月、「おかしな男の夢」を「作家の日記」に発表。7月、ダロヴォーエ、チェルマシニャーを40年ぶりに訪問。チェルマシニャーでは、スメルジャコフの母リザヴェータのモデルになった「神がかり女」アグラフェーナ・チモフェーエヴナにも会う。12月、ネクラーソフ死去。 |
1878年
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57歳
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1月24日、女性革命家ヴェーラ・ザスーリチがペテルブルグ特別市長官トレーポフ将軍を狙撃、重傷を負わせる。3月、ザスーリチの裁判に出席。5月16日、次男アレクセイが癲癇の発作で死去。6月、哲学者ウラジーミル・ソロヴィヨフと、オプチナ修道院を訪ね、アンブローシー長老と対面する。 |
1879年
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58歳
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1月、『カラマーゾフの兄弟』の連載を「ロシア報知」で開始(第1編、第2編)。このあと各地で、進行中の『カラマーゾフの兄弟』の朗読をたびたび行う。7月、エムスに向かう。9月、ロシアに戻る。 |
1880年
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59歳
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6月、プーシキン記念祭で講演(「プーシキン講演」)、聴衆に異常な興奮を巻き起こす。その後、スターラヤ・ルッサに戻る。夏、子どもたちにシラーの『群盗』を読んできかせる。11月、『カラマーゾフの兄弟』完結。12月、単行本『カラマーゾフの兄弟』2分冊で刊行。 |
1881年
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1月25日、転がったペンを拾おうと棚を動かしたさいに咽喉から出血。28日、肺動脈破裂、妻、子どもたちと別れをつげる。午後8時38分、絶命する。享年59 |
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『カラマーゾフの兄弟』連載
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「ロシア報知」
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1879年、1、2、4、5、6、8、9、10、11月号。1880年、1、4、7、8、9、10、11月号。
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『カラマーゾフの兄弟』単行本
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1880年、12月初め、2分冊で刊行(第1分冊=第1部、第2部。第2分冊=第3部、第4部、エピローグ)。なお、全巻そろった原稿は行方不明。
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