1898年
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二月一〇日、南ドイツのアウグスブルクで製紙工場支配人の長男として誕生。 |
1908年
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10歳
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レアール・ギムナジウムに入学。 |
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(1914年七月、第一次世界大戦勃発) |
1917年
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19歳
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ミュンヘン大学哲学部入学、のちに医学部に転部。 |
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(一〇月、ロシア革命。一一月、ソビエト政権樹立) |
1918年
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20歳
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召集されて敗戦までアウグスブルク陸軍病院に衛生兵として勤務。 |
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詩『死んだ兵士の言い伝え』が生まれる。 |
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処女戯曲『バール』完成。 |
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(一一月、皇帝ヴィルへルム二世が亡命し、第一次世界大戦終結。ベルリンでスパルタクス団が蜂起し、ドイツ革命が起こる) |
1919年
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21歳
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ドイツ革命を扱った戯曲『夜打つ太鼓』執筆。 |
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同棲中のパウラ・バンホルツァーが男児フランクを出産。 |
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(七月、ドイツ国民議会が憲法を採択し、ヴァイマル共和国誕生) |
1920年
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22歳
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母死去。 |
1922年
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24歳
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『夜打つ太鼓』ミュンヘンでの初演成功により、クライスト賞を受賞。 |
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ミュンヘン小劇場の文芸部員になる。 |
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歌手マリアンネ・ツォフと結婚。 |
1923年
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25歳
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娘ハンナ誕生。 |
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ミュンヘンで『都会のジャングル』初演、ライプチヒで『バール』初演。 |
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ベルリンで女優ヘレーネ・ヴァイゲルと出会う。 |
1924年
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26歳
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マーロウの改作でブレヒト演出の『エドワードⅡ世の生涯』の初演。 |
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ドイツ座の文芸部員になったため、ベルリンに移住する。 |
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エリーザベト・ハウプトマンと親密になり、秘書として協力して貰うようになる。ヘレーネ・ヴァイゲルが男児シュテファンを出産。 |
1926年
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28歳
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『男は男だ』初演。 |
1927年
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29歳
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詩集『家庭用説教集』出版。 |
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ヴァイルがソング劇『(小)マハゴニー』を作曲。 |
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ピスカートアの政治劇場に協力。 |
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新聞紙上に「叙事的演劇の困難」発表。 |
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マリアンネ・ツォフと離婚。 |
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ジョン・ゲイの『乞食オペラ』がロンドンで1920年よりリバイバル上演されヒット。その原作をエリーザベト・ハウプトマンが一九二七―二八年にかけてドイツ語に翻訳。 |
1928年
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30歳
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エリーザベト・ハウプトマンと共に『乞食オペラ』を改作し、クルト・ヴァイルが作曲した『三文オペラ』がベルリンで初演され大成功。 |
1929年
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31歳
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ヴァイゲルと結婚。 |
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一連の「教育劇」の試みを始める。『屠場の聖ヨハンナ』執筆。 |
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思想家ベンヤミンと知り合う。 |
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教育劇『リンドバークの飛行』執筆。 |
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(一〇月、ニューヨーク株式恐慌から世界経済恐慌起こる) |
1930年
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32歳
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ライプチヒでヴァイル作曲のオペラ『マハゴニー市の興亡』初演。『処置』を労働者グループと共同で上演。 |
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『三文オペラ』の映画化を巡り「三文訴訟」事件。 |
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娘バルバラ誕生。 |
1931年
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33歳
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G・W・パプスト監督の映画『三文オペラ』完成。 |
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労働者劇団の女優マルガレーテ・シュテフィンと知り合う。 |
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『ハムレット』をラジオ台本に改作。 |
1932年
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34歳
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映画『クーレ・ヴァンペ』完成。 |
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ソビエトへ旅行。 |
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『母』が上演禁止になる。 |
1933年
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35歳
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『処置』上演禁止。 |
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『丸頭ととんがり頭』完成。 |
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国会議事堂放火事件の翌日にブレヒト・ファミリーは、プラハ、ウィーン経由でデンマークへ亡命。 |
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(三月、ヒトラーが政権掌握) |
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ブレヒト作・ヴァイル作曲のバレエ『小市民の七つの大罪』上演のためパリへ。 |
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デンマークのスヴェンボルに移住。女優ルート・ベルラウがブレヒト一家を訪問。 |
1934年
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36歳
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マルガレーテ・シュテフィンをデンマークに呼ぶ。 |
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アムステルダムで小説『三文小説』出版。 |
1935年
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37歳
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モスクワへ旅行。ナチスによりドイツ市民権を剥奪される。 |
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ルート・ベルラウとパリの文化擁護国際作家会議に出席。 |
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『母』上演のためアメリカへ。 |
1936年
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38歳
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アメリカから帰国。ロンドンの文化擁護国際作家会議に出席。 |
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コペンハーゲンで『丸頭ととんがり頭』初演。 |
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(七月、スペイン内乱が勃発。八月、ベルリン・オリンピック) |
1937年
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39歳
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ルート・ベルラウとパリで行われた文化擁護国際作家会議に参加。 |
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『第三帝国の恐怖と悲惨』執筆開始。 |
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『第三帝国の恐怖と悲惨』と『カラールのおかみさんの銃』がパリで上演。 |
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(一一月、日独伊防共協定成立) |
1938年
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40歳
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『作業日誌』をつけ始める。 |
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マルガレーテ・シュテフィンと『ガリレオの生涯』執筆。 |
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(三月、ドイツがオーストリアを併合) |
1939年
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41歳
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スウェーデンのリンディゲー島へ亡命。 |
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『肝っ玉/母アンナの子連れ従軍記』完成。 |
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(八月、独ソ不可侵条約締結。九月、第二次世界大戦勃発) |
1940年
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42歳
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ルート・ベルラウやマルガレーテ・シュテフィンと『セチュアンの善人』執筆。 |
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フィンランドのヘルシンキに移り、夏を作家ヘッラ・ヴォリヨキの領地で過ごす。ルート・ベルラウが家族を捨ててやってくる。 |
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九月、スペイン国境でベンヤミン自殺。 |
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『地主プンティラと下男マッティ』と『亡命者の対話』執筆。 |
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(四月、ドイツ軍がデンマークやノルウェーに侵入。六月、ドイツ軍がパリ占領) |
1941年
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43歳
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『アルトゥロ・ウイの抑えることもできた興隆』執筆。 |
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アメリカのビザが下り、モスクワ経由でアメリカへ亡命。 |
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四月、『肝っ玉/母アンナの子連れ従軍記』がチューリヒで初演。 |
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六月、モスクワでマルガレーテ・シュテフィン病死。 |
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七月、サンペドロに到着、ハリウッド郊外のサンタモニカに住む。 |
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(六月、独ソ戦開始) |
1942年
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44歳
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フリッツ・ラング監督の映画『刑吏もまた死す』のシナリオ執筆、翌年公開。 |
1943年
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45歳
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『第二次世界大戦中のシュベイク』完成。 |
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ニューヨーク旅行。 |
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ドイツ亡命者の委員会設立を巡って、トーマス・マンと不和になる。 |
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(九月、イタリア無条件降伏) |
1944年
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46歳
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ルート・ベルラウと『コーカサスの白墨の輪』執筆開始。 |
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亡命知識人団体「民主ドイツ委員会」設立。 |
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(六月、連合国軍がノルマンディ上陸) |
1945年
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47歳
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『第三帝国の恐怖と悲惨』ニューヨークで上演。 |
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(二月、ヤルタ会議。四月、ヒトラーの自殺。五月、ドイツ無条件降。八月、広島・長崎に原爆投下。日本の降伏により第二次世界大戦終結) |
1947年
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49歳
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英語版『ガリレオ』を俳優チャールズ・ロートンと改作し、ビバリーヒルズで上演。 |
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一一月、非米活動査問委員会の審問を受けた後、スイスのチューリヒに脱出。 |
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『ガリレオ』ニューヨークで上演。 |
1948年
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50歳
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ソフォクレスの『アンティゴネ』を改作してヘレーネ・ヴァイゲル主演でスイスのクール市立劇場で上演。 |
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西ドイツが入国拒否、一〇月にプラハ経由で東ベルリンに到着。 |
1949年
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51歳
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ドイツ座で『肝っ玉/母アンナの子連れ従軍記』を上演して大成功。 |
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ヘレーネ・ヴァイゲル主宰で劇団ベルリーナー・アンサンブル結成。 |
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一一月、『地主プンティラと下男マッティ』が初演。 |
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(五月、ドイツ連邦共和国=西ドイツ、一〇月、ドイツ民主共和国=東ドイツが成立) |
1950年
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52歳
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芸術アカデミー会員になる。 |
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レンツの『家庭教師』改作を上演。 |
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(二月、アメリカでマッカーシー旋風。一二月、ドイツ再軍備決定) |
1951年
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53歳
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『母』、ゲアハルト・ハウプトマンの二部作を改作した『ビーバーの外套』、『放火』など上演。 |
1952年
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54歳
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ゲーテの『ウルファウスト』を改作して上演。 |
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ベルリン郊外ブコウに別荘を持つ。 |
1953年
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55歳
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東西ベルリンのペンクラブの会長に選ばれる。 |
1954年
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56歳
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パリの国際演劇祭で『肝っ玉/母アンナの子連れ従軍記』が最優秀上演と最優秀演出に選ばれる。 |
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ニューヨークのオフブロードウェイで、ロッテ・レーニアをジェニー役にした『3文オペラ』が大ヒット。10年のロングラン。 |
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スターリン国際平和賞受賞。 |
1955年
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57歳
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パリの国際演劇祭で『コーカサスの白墨の輪』が第二位を受賞。 |
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詩集『ブコウの悲歌』刊行。 |
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『ガリレオの生涯』の稽古開始。 |
1956年
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58歳
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二月の誕生日に、ミラノのピッコロテアトロ座のジョルジュ・ストレーラー演出の『三文オペラ』の初日に観に出かけて、ブレヒトはこの作品が再生されたと絶賛。 |
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大学病院に入院。西ドイツ議会に再軍備反対の抗議文を書く。 |
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八月一四日、心筋梗塞のため死去。 |