著者年譜

マシャード・ジ・アシス Machado de Assis

『ブラス・クーバスの死後の回想』

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出来事
1839年 6月21日、リオデジャネイロで、フランシスコ・ジョゼ・ジ・アシスと、マリア・レオポルジーナ・マシャード・ジ・アシスの長男として誕生する。
1840年 1歳 ペドロ2世の成人式。第2帝政開始。
1841年 2歳 妹のマリア誕生。
1845年 6歳 妹マリアがはしかで死去(4歳)。代母のマリア・ジョゼ・ジ・メンドンサ・バホーゾも死去。
1849年 10歳 母マリア・レオポルジーナが結核で死去。
1850年 11歳 奴隷貿易禁止令。
1854年 15歳 父フランシスコ・ジョゼが、マリア・イネス・ダ・シルヴァと再婚。パウラ・ブリットの書店での勤務開始(推定)。10月3日、「貧しき者たちの新聞」に、詩(「DPJA夫人へのソネット」)を投稿。
1855年 16歳 パウラ・ブリット主宰の「マルモッタ・フルミネンセ」に、詩を定期的に投稿。
1856年 17歳 王立印刷所に印刷工の見習いとして入る。
1858年 19歳 パウラ・ブリット書店で校閲担当。4月11日、ペトロポリスの「パライーバ」に執筆開始(~6月26日)。「コヘイオ・メルカンチル」でも、執筆と校閲を担当。のちに妻となる、カロリーナの兄であるポルトガル出身の詩人、ファウスチーノ・シャヴィエール・ジ・ノヴァイスがリオに到着。
1859年 20歳 「エスペーリョ」で、演劇批評を中心に執筆。『絵画的なブラジル』を共訳。
1860年 21歳 「リオデジャネイロ日誌」の編集者になる(~1867年)。「絵入り週刊」に執筆開始(~1875年)。
1861年 22歳 喜劇『幻滅』、翻訳劇『まぬけに惚れる女たち』を発表。
1862年 23歳 雑誌「未来」(ファウスチーノ・シャヴィエール・ジ・ノヴァイス主宰)、「家族の新聞」に執筆。ブラジル演劇院の検閲官に就任(12月31日~)。
1863年 24歳 『マシャード・ジ・アシス演劇集』を発刊(「プロトコール」と「扉の道」収録)。
1864年 25歳 父フランシスコ・ジョゼ死去。処女詩集『さなぎ』出版。パラグアイ戦争開始。
1866年 27歳 ファウスチーノ・シャヴィエール・ジ・ノヴァイスの母の死に伴い、妹カロリーナが来伯。喜劇『燕尾服姿の神々』発表。「リオデジャネイロ日誌」にヴィトール・ユゴーの『海の労働者』の翻訳を掲載し、同年に3巻本として出版。発狂しはじめたファウスチーノ・シャヴィエール・ジ・ノヴァイスを見舞い、カロリーナと知り合う。
1867年 28歳 薔薇勲章を受章。官報(Di?rio Oficial)の編集長補佐に就任(~1874年)。
1869年 30歳 8月16日、ファウスチーノ・シャヴィエール・ジ・ノヴァイス死去。11月12日、カロリーナ・アウグスタ・シャヴィエール・ジ・ノヴァイスと結婚。
1870年 31歳 4月23日、「午後の新聞」にディケンズの『オリバー・ツイスト』の翻訳を掲載開始するが、すぐに中断。2番目の詩集『蛾』と『リオデジャネイロ小品集』を出版。パラグアイ戦争終了。
1871年 32歳 「自由出生法」施行。
1872年 33歳 最初の長編小説『復活』を出版。
1873年 34歳 『午前十2時の物語』を出版。農業・商業・公共事業省に入省。
1874年 35歳 新聞「グローボ」に『手と手袋』を連載。同年のうちに本として出版。
1875年 36歳 「ガゼッタ・ジ・ノチシアス」創刊、執筆。詩集『アメリカーナス』出版。
1876年 37歳 6月、「ブラジルの図解」に執筆開始(~1878年4月)。「グローボ」に『エレーナ』を連載し(8月6日~9月11日)、同年に本として出版。11月7日、農業局長に昇進。
1877年 38歳 ブラジルの小説の父とも称される、親友ジョゼ・ジ・アレンカール死去。
1878年 39歳 「クルゼイロ」に『ヤヤ・ガルシア』を連載し(1月1日~3月2日)、同年に本として出版。12月27日より翌年3月まで目および腸の病のためノーヴァ・フリブルゴで療養。この間に『ブラス・クーバスの死後の回想』を構想、執筆。
1879年 40歳 6月、雑誌「ヘヴィスタ・ブラジレイラ」に原稿執筆開始。7月15日、雑誌「エスタサォン」にも投稿開始(~1898年3月31日)。
1880年 41歳 2月6日、目の病のために休職。カモンィス3百周年の記念行事の1環として、喜劇『君、君だけ、愛……』を上演。「ヘヴィスタ・ブラジレイラ」に『ブラス・クーバスの死後の回想』を連載(3月15日~12月15日)。
1881年 42歳 『ブラス・クーバスの死後の回想』、『君、君だけ、愛……』が本として出版される。12月18日より「ガゼッタ・ジ・ノチシアス」に頻繁に投稿(~1897年2月28日。それ以後も、1904年6月2日まで時折投稿。その中には有名なクロニカ「週」の連載もある)。
1882年 43歳 短編集『ばらばらの紙』出版。1月5日、3カ月間休職し、ノーヴァ・フリブルゴで療養。
1884年 45歳 『日付のない物語』出版。最後の家(コズミ・ヴェーリョ通り18番地)に引っ越す(それまではアンドラーダス通り、ラランジェイラ地区のサンタ・ルジア通り、カテッチ通りに居住。最後の家は1930年代末に取り壊された)。
1886年 47歳 雑誌「エスタサォン」に『キンカス・ボルバ』連載開始(6月15日~1891年9月15日)。
1888年 49歳 奴隷制度廃止(5月13日法)。
1889年 50歳 3月30日、農業・商業・公共事業省農業局商業部長に昇格。共和制移行。
1890年 51歳 ミナス・ジェライス州ジュイス・ジ・フォーラ、バルバセーナ、シチオ(現アントニオ・カルロス)への旅行(これが生涯唯1のリオ州外の旅となった)。
1891年 52歳 『キンカス・ボルバ』出版。継母マリア・イネス死去。
1893年 54歳 農業・商業・公共事業省交通部長。
1895年 56歳 12月、「ヘヴィスタ・ブラジレイラ」に執筆開始(~1898年10月)。
1896年 57歳 短編集『いろいろな物語』出版。ブラジル文学アカデミーの設立準備委員長に就任。創立後の会長に満場1致で選出。
1897年 58歳 6月20日、ブラジル文学アカデミー創立。カヌードスの乱終結(1896~)。
1898年 59歳 農業大臣秘書官。
1899年 60歳 『ドン・カズムッホ』、『集められたページ』出版。
1901年 62歳 『詩全集』を発表し、その中に「西洋人」が収録される。
1902年 63歳 12月18日、産業・交通・公共事業省会計部長に就任。
1904年 65歳 『エサウとヤコブ』出版。1月、病気の妻を連れてノーヴァ・フリブルゴへ。10月20日、妻カロリーナ死去。
1906年 67歳 『古い家の遺物』出版。
1908年 69歳 遺作『メモリアル・ジ・アイレス』を出版。6月1日、病気のために離職。9月29日、3時20分、自宅で死去。