1898年
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一一月二九日、北アイルランドのベルファスト市に生まれる。父アルバート・ジェイムズ・ルイスは事務弁護士、母フローレンス・オーガスタ・ハミルトン・ルイスは牧師の娘で、当時の女性としてはめずらしく、ベルファスト市のクイーンズ・カレッジで大学教育を受けていた。 |
1902年
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3歳
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自身のファースト・ネームおよびミドル・ネームを嫌ったルイスは、家族に自分を「ジャクシー」と呼ぶように求め、他の名前で呼ばれても返事をしなくなる。これ以降、家族と友人は生涯彼を「ジャック」と呼ぶ。服を着た動物が登場する物語を好んで読む。この頃、兄ウォレンとの共作の物語「動物の国」を創作する。 |
1908年
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9歳
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八月二三日、母フローレンス、癌により死去。 |
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九月、兄と同じイングランドのハートフォードシャーにあるウィニヤード校に入学。当初、「まわりから聞こえてくるイングランド訛りがまるで悪魔の唸り声のよう」に聞こえ、イングランドの風景にも「嫌悪の情」を感じたという。(『喜びのおとずれ』) |
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元々アイルランド教会のプロテスタントであったが、イングランド国教会の教義に触れ、キリスト教に篤い信仰心をもつようになる。 |
1910年
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11歳
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夏、ウィニヤード校が廃校となる。 |
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ベルファスト市のキャンベル校に入学するも、病気により数カ月で退学。なお、キャンベル校は、イングランドの学校よりは肌に合った。 |
1911年
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12歳
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一月、キャンベル校に不満をもっていた父の考えにより、イングランド西部のウスターシャーにある予備学校チェアバーグ校に入学。 |
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この時期、イングランドの風景の美しさを発見する。妖精ものの小説を好んで読み、「いつも小妖精を心に思い描くようになり、そのためについに幻覚の未開地に迷い込む」こともあった(『喜びのおとずれ』)。徐々にキリスト教にたいする信仰を失う。 |
1913年
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14歳
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チェアバーグ校近隣のパブリック・スクールの一つであるモルヴァーン・カレッジに入学。 |
1914年
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15歳
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モルヴァーン・カレッジになじめず、退学させてくれるよう父親に手紙で請う。 |
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八月、イギリス、ドイツに宣戦布告。 |
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九月、モルヴァーン・カレッジを退学。父のかつての恩師であり、イングランドのサリー州在住のウィリアム・カークパトリック氏の自宅で個人指導を受けながら大学受験の準備をすることになる。 |
1916年
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17歳
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一二月、オックスフォード大学奨学生試験を受験。ユニヴァーシティ・カレッジの奨学生に選ばれる。 |
1917年
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18歳
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学位取得予備試験において数学で不合格となるが、四月からオックスフォード大学内に寄宿することを許可され、大学生活を開始。 |
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オックスフォード大学のキーブル・カレッジに宿舎のある士官候補生大隊に召集され、パディ・ムーアと同室になる。 |
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一一月、軽歩兵隊の少尉としてフランス戦線に出征。 |
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この頃、ジョージ・マクドナルド(一八二四―一九〇五)の『ファンタステス』(一八五八)に夢中になる。 |
1918年
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19歳
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二月、〈塹壕熱〉と呼ばれる熱病に罹る。 |
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四月、味方の砲弾の破片に当たって重傷を負い、ロンドンの病院に送還される。 |
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一一月、ロンドンで終戦を迎える。この頃からムーア夫人に愛情を抱くようになる。 |
1919年
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20歳
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オックスフォード大学に戻る。退役軍人に限り、学位取得予備試験が免除される決定が出され、以前に不合格であった数学の試験を免除されることになる。 |
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三月、クライヴ・ハミルトン名義で第一次世界大戦での体験を謳った詩集『囚われの魂』を出版。 |
1920年
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21歳
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夏、ムーア夫人とその娘モーリーンとの共同生活を開始。 |
1922年
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23歳
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8月、人文学学位取得試験に最優等の成績で合格。大学の研究職を得るのに苦労し、修学を1年延長して英文学を専攻することを決める。英文学の中では、トマス・ブラウン(一六〇五―一六八二)、ジョン・ダン(一五七二―一六三一)、ジョージ・ハーバート(一五九三―一六三三)の詩に陶酔する。 |
1923年
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24歳
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英文学学位取得試験に優等の成績で合格。 |
1925年
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26歳
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モードリン・カレッジの英語・英文学のフェロー(特別研究員)に選ばれる。 |
1926年
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27歳
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オックスフォード大学の会議でJ・R・R・トールキンと出会う。 |
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五月、ゼネラル・ストライキのため、イギリス社会は一時混乱に陥る。 |
1929年
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30歳
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父アルバート死去。 |
1930年
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31歳
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四月、陸軍軍人であった兄ウォレン帰英。 |
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七月、オックスフォード郊外の〈キルンズ荘〉でムーア夫人、その娘モーリーン、実兄ウォレンと同居生活を開始。 |
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この頃より、トールキンほか数名の友人がモードリン・カレッジのルイスの居室に集まり、〈インクリングズ〉の会が始まる。 |
1931年
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32歳
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キリスト教への信仰を取り戻す。 |
1933年
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34歳
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宗教的アレゴリー『天路逆行』出版。タイトルは、ジョン・バニヤン(一六二八―一六八八)の『天路歴程』(一六七八)をもじったもので、平凡な男ジョンが救われるまでを描く。 |
1936年
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37歳
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五月、オヴィディウスからスペンサーにいたる恋愛詩を論じる最初の学問的著書『愛のアレゴリー――ヨーロッパ中世文学の伝統』出版。 |
1938年
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39歳
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宇宙を舞台とするSFファンタジー『沈黙の惑星を離れて』出版。これは3部作で、続編が1943年、一九四五年に出版される。 |
1939年
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40歳
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九月、イギリス、ドイツに宣戦布告。 |
1940年
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41歳
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一〇月、宗教的著作『痛みの問題』出版。この世にはなぜ痛みと悪が存在するのか、という問題をめぐる考察。 |
1941年
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42歳
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BBCラジオ放送の依頼で、キリスト教に関する放送講話を開始。放送は1回15分で、1944年まで断続的に計二九回行われた。 |
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キリスト教に関する知的に困難な問題を討議するための公開フォーラム、オックスフォード大学ソクラテス・クラブの創設に尽力(発足は1942年)。ルイスは会長に選任され、これ以降同クラブで多くの講演を行う。 |
1942年
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43歳
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諷刺という手法を用いることによって神学的な問題に深く切り込む『悪魔の手紙』出版。ベストセラーとなり、スター的名声を得る。 |
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七月、ジョン・ミルトン(一六〇八―一六七四)の『失楽園』(一六六七)を扱う『〈失楽園〉研究序説』、BBCの講話を収録した『放送講話』(のちに『キリスト教の精髄』に再収録)出版。 |
1945年
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46歳
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七月、総選挙で労働党が大勝。アトリー労働党内閣発足。 |
1946年
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47歳
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国民保健サービス法制定。 |
1950年
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51歳
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『ナルニア国物語』の第一作『ライオンと魔女と衣装だんす』出版。 |
1951年
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52歳
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ムーア夫人死去。 |
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オックスフォード大学詩学教授選任において、詩人・作家でもあるセシル・デイ・ルイス(一九〇四―一九七二)に敗れる。 |
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『ナルニア国物語』の第二作『カスピアン王子』出版。 |
1952年
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53歳
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以前から文通相手であった、ルイスの作品のファンのジョイ・デヴィッドマンと初めて会う。 |
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BBC放送講話を編集した『キリスト教の精髄』、『ナルニア国物語』の第三作『ドーン・トレッダー号の航海』の出版。 |
1953年
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54歳
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『ナルニア国物語』の第四作『銀の椅子』出版。 |
1954年
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55歳
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『16世紀英文学史』、『ナルニア国物語』の第5作『馬と少年』出版。 |
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一一月、ケンブリッジ大学モードリン・カレッジに新設された中世・ルネサンス文学講座の初代教授に就任。これ以降、学期中はケンブリッジで、休暇と週末はオックスフォードのキルンズ荘で過ごす生活を送るようになる。 |
1955年
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56歳
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九月、自叙伝『喜びのおとずれ』出版。 |
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『ナルニア国物語』の第六作『魔術師のおい』出版。 |
1956年
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57歳
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イギリス政府がジョイの滞在許可の更新を認めなかったため、四月、ジョイと書類上の結婚をして窮状を救う。ジョイの二人の息子は英国籍を得る。 |
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『ナルニア国物語』の第七作『最後の戦い』、『愛はあまりにも若く』出版。 |
1957年
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58歳
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『最後の戦い』によりカーネギー賞を受ける。 |
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三月、骨癌で入院中のジョイと病室で結婚式を挙げる。 |
1960年
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61歳
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七月、ジョイ死去。 |
1961年
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62歳
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妻ジョイの死をどのように受けとめたのかを記す『悲しみをみつめて』をN・W・クラーク名義で出版。 |
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この頃より衰弱がひどくなる。 |
1963年
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七月、心臓発作で一時危篤状態となる。 |
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八月、ケンブリッジ大学に辞表を提出。 |
11月22日、死去。享年
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六四。 |