1899年
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2月23日、ドレスデンで生まれる。父は皮革職人エミール、母はイーダ。(「本当の父親は、ユダヤ人で衛生功労医のツィマーマン」という説が1982年以来、有力になっている。しかし、生誕100年を機に出版された2冊の大きなケストナー伝のうち1冊は、その説を「証拠不十分」であると疑問視している) |
1906年
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7歳
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ドレスデンの小学校に入学。 |
1913年
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14歳
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ドレスデンのフレッチャー男爵教員養成学校(全寮制)に入学。(母が病気のとき、校則を破って見舞いにいき、罰せられる。『飛ぶ教室』第5章で正義さんが語る思い出は、この事件を反映している) |
1917~18年
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18~19歳
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兵役。 |
1919年
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20歳
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ケーニヒ・ゲオルク・ギムナジウムの聴講生となってから、ライプツィヒ大学に入学。ドイツ文学、歴史、哲学、演劇史を学ぶ。 |
1921年
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22歳
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夏学期はロストック大学で。冬学期はベルリン大学で。 |
1922年
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23歳
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ライプツィヒ大学にもどり、助手に。「新ライプツィヒ新聞」に勤める。 |
1923年
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24歳
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エーリヒ・オーザーと友だちになる。 |
1925年
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26歳
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論文「フリードリヒ大王とドイツ文学」で博士に。 |
1926年
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27歳
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母とイタリア、スイスに旅行する。 |
1927年
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28歳
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ベートーヴェンの第9交響曲を風刺した詩が原因で、「新ライプツィヒ新聞」を解雇され、ベルリンに。「世界舞台」誌などに演劇評を書く。ライプツィヒではルイーゼロッテ・エンデルレと知り合い、ベルリンではヘルマン・ケステンと友だちに。 |
1928年
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29歳
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パリに行く(エーリヒ・オーザーと)。『腰のうえの心臓』(詩集)。ヴァルター・トリアーと知り合う。エルフリーデ・メヒニヒが秘書に。『エミールと探偵たち』 |
1929年
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30歳
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『鏡のなかの騒音』(詩集) |
1930年
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31歳
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『ある男が通知する』(詩集)。『エミールと探偵たち』が映画に。 |
1931年
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32歳
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『ファービアン』(小説)。『点子ちゃんとアントン』。はじめてのマイホームをベルリンに。 |
1932年
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33歳
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『椅子のあいだで歌う』(詩集)。『腕長アルトゥール』『魔法にかけられた電話』 |
1933年
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34歳
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ナチが政権に。『飛ぶ教室』。ケストナーはドイツでの出版を禁止され、焚書の対象に。以後、出版は(1945年までもっぱら)チューリヒで。はじめてゲシュタポに逮捕される。 |
1934年
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35歳
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『雪のなかの3人の男』(小説) |
1936年
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37歳
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『エーリヒ・ケストナー博士の抒情的家庭薬局』(詩集)。ダヴォスへ旅行。 |
1937年
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38歳
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ベルリンで2回目の逮捕。バート・ライヘンハルへ旅行。そこから、トリアーに会うため毎日、国境を越えてザルツブルクに行く。そのとき次の作品が準備された。 |
1938年
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39歳
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『ゲオルクと予期せぬ出来事』(小説。後に『小さな国境往来』と改題)。ロンドンへ旅行。戦争の危機が迫ったため、帰国。 |
1942年
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43歳
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執筆禁止。偽名で映画『ミュンヒハウゼン』の脚本を書く。 |
1943年
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44歳
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映画『ミュンヒハウゼン』にケストナーが関与していたことを知り、ヒトラー激怒。 |
1944年
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45歳
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ケストナーの家が空襲で焼かれ、ルイーゼロッテ・エンデルレと同棲をはじめる。 |
1945年
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46歳
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ヒトラー自殺。ミュンヘンでカバレット「見世物小屋」をはじめる。「ノイエ・ツァイトゥング」文芸欄シェフになる。 |
1948年
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49歳
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『日々の雑事』(シャンソンと散文)。『単刀直入』(エピグラム) |
1949年
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50歳
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『動物会議』『ふたりのロッテ』。フリーデル・ジーベルトと知り合う。 |
1951年
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52歳
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西ドイツ・ペンクラブ会長に。母イーダ、ドレスデンで死去。 |
1952年
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53歳
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『小さな自由』(シャンソンと散文) |
1953年
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54歳
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ミュンヘンで、ヘルツォークパルクに引っ越す。 |
1954年
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55歳
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『飛ぶ教室』映画化。 |
1956年
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57歳
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『独裁者の学校』(喜劇) |
1957年
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58歳
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ゲオルク・ビューヒナー賞。『私が子どもだったころ』。フリーデル・ジーベルトとのあいだに息子トーマスが生まれる。大晦日に、父エミール死去。 |
1959年
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60歳
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60歳を記念して『ケストナー全集』(全7巻) |
1960年
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61歳
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国際アンデルセン賞。 |
1961年
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62歳
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『ケストナーの終戦日記』。座骨神経痛。結核と診断される。 |
1962年
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63歳
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スイス、アグラのサナトリウムに。 |
1963年
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64歳
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『サーカスの小人』 |
1964年
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65歳
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1月から8月、ふたたびアグラに。 |
1974年
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75歳
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7月29日、ミュンヘンで死去。食道ガン。 |