1889年
|
|
7月5日、パリ郊外のメゾン=ラフィットに生まれる。父ジョルジュ・コクトーは、47歳。弁護士を引退後、年金生活を送る有閑身分であり、絵を得意とした。母ウージェニーは、33歳。社交家で芝居好き。ジャンには、一二歳年上の姉マルトと、八歳年上の兄ポールがいた。母に溺愛され、養育係のドイツ人女性ジョゼフィーヌに育てられた(参考までに、同時代の作家の生年との関係を書いておけば、コクトーは、ポール・クローデルより二一歳、アンドレ・ジッドより二〇歳、ポール・ヴァレリーより一八歳、シャルル・ペギー及びコレットより一六歳、ジャン・ジロドゥーより七歳、フランソワ・モーリヤックより四歳、年下であり、アンリ・ド・モンテルラン、アンドレ・ブルトン、アントナン・アルトーより七歳、ルイ・アラゴンより八歳、アンドレ・マルローより一二歳、ジャン=ポール・サルトルより一六歳、年長である)。 |
1895年
|
6歳
|
シャトレ座で、ジュール・ヴェルヌ原作の『八十日間世界一周』などを見て、驚嘆。養育係のジョゼフィーヌに連れられて、サーカスや、最新発明のリュミエール兄弟の活動写真にも通う。 |
1898年
|
9歳
|
父のピストル自殺。 |
1900年
|
11歳
|
パリのリセ・コンドルセ中学部入学。 |
1902年
|
13歳
|
リセ・コンドルセ高校部進学。アイス・スケートなどにこり、学業怠慢でフェヌロン校へ転学。 |
1906年
|
17歳
|
ミスタンゲットの出演するエルドラド座に通い、前座の歌手・女優ジャーヌ・レネットと関係をもつ。バカロレア(中等教育修了・大学入学資格試験)に落第。家出してマルセイユへ。麻薬と同性愛を知る。 |
1907年
|
18歳
|
再度、バカロレアに落第(バカロレアに2年続けて落ちるというのは、普通なら容易ならざることだ)。大学進学を諦める。母ウージェニーにより社交界にデビュー。名優ド・マックスに紹介され、気に入られる。 |
1908年
|
19歳
|
ド・マックスの企画した「詩の朗読会」で自作を朗読。プルースト、ロスタン、ノアイユ伯爵夫人等と知り合う。詩人としての華々しいデビュー。 |
1909年
|
20歳
|
処女詩集『アラジンのランプ』を出す。 |
|
|
五月一九日、シャトレ座におけるロシア・バレエ団の公演を観る。団長のディアギレフや天才的ダンサーのニジンスキーと知り合う。ミシア・セルト夫人に紹介され、彼女のサロンに招かれる(二〇歳で、この二〇世紀初頭の最大の文化的「事件」に立ち会っていることは、コクトーの個人史においても二〇世紀の舞台芸術の歴史においても、記念すべき出会いとなるものだった)。 |
1911年
|
22歳
|
ロシア・バレエ団のデザイナー画家レオン・バクストの推挙で、ニジンスキーによる『薔薇の精』のためのポスターを作る。デザイン画家としてのデビュー。ディアギレフにより、『火の鳥』の作曲家ストラヴィンスキーを紹介される。社交界での交際はいよいよ広まる。 |
1913年
|
24歳
|
五月二九日、シャンゼリゼ劇場におけるロシア・バレエ団とストラヴィンスキーによる『春の祭典』の初演に際して、熱烈に作曲家を支持する。 |
|
|
絵と散文による『ポトマック』に着手。アラン・フルニエの『モーヌの大将』、プルーストの『スワン家のほうへ』刊行。 |
1914年
|
25歳
|
スイスのストラヴィンスキー邸にて、小説『ポトマック』を完成。ポール・クローデルと出会う。ダリユス・ミヨー、ジョルジュ・オーリック、アルチュール・オネッゲル等、若い作曲家との交際。第一次世界大戦勃発に際しては、ミシア夫人の組織した移動衛生班に加わり、衛生兵として従軍。 |
1915年
|
26歳
|
処女詩集『喜望峰』。 |
1916年
|
27歳
|
「Jim」と署名された最初のデッサンが、アポリネール、マックス・ジャコブ、サンドラルス等の詩人やモディリアーニ、ピカソ等の画家の作品と共に発表される。 |
1917年
|
28歳
|
五月一八日、シャトレ座における、コクトー台本、ロシア・バレエ団による『パラード』初演。音楽はサティ、美術はピカソ、振付はレオニード・マシーン。賛否両論の大スキャンダル。「領域横断型」と二〇世紀後半なら呼ぶであろう「前衛芸術家」としてのコクトーの華々しい誕生。 |
|
|
六月二一日、モーベール座におけるアポリネール作『ティレシアスの乳房』初演のプログラムに詩を書く。 |
1918年
|
29歳
|
アルチュール・オネッゲル、ダリユス・ミヨー、フランシス・プーランク、ジョルジュ・オーリック、ジェルメーヌ・タイユフェール、ルイ・デュレーの六人の新進作曲家が、エリック・サティのもとに集まって結成した音楽家集団「六人組」の発足演奏会で、コクトーの『雄鶏とアルルカン』がグループの宣言書の役割を果たした。 |
1919年
|
30歳
|
シュールレアリストのグループ、特にアンドレ・ブルトンと対立。以後、コクトーの「前衛的な」立場は、常にシュールレアリスムのそれと衝突することになる。ブルトン、アラゴン、スーポー編集の雑誌「文学」は、コクトーを排除(シュールの詩人達は、造形芸術には入れ揚げたが、音楽には概して興味が無かったし、舞台芸術にも同様であった。20年代末から30年代にかけてのアルトーの孤立を思い起こすこと)。この年、16歳のレーモン・ラディゲに出会い、深い友情で結ばれる。 |
1920年
|
31歳
|
二月二一日、コメディ=デ=シャンゼリゼを借り切って『屋根の上の牡牛』(ミヨー作曲)を初演。 |
1921年
|
32歳
|
六月一八日、「六人組」の作曲、スエーデン・バレエによる『エッフェル塔の花嫁・花婿』が、ダダイスト等の罵声の中で初演。その芸術的過激さのゆえにスキャンダルとなる。『アンティゴネー』と『オイディプース王』を、ソポクレスに拠って書く。 |
1922年
|
33歳
|
一一月一八日、プルースト死去。 |
|
|
一二月二〇日、シャルル・デュランのアトリエ座で『アンティゴネー』初演。公開舞台稽古を、ブルトン等が野次で妨害。 |
1923年
|
34歳
|
三月、ラディゲ『肉体の悪魔』グラッセ書店より刊行。 |
|
|
小説『大股開き』『山師トマ』、詩集『全諧調』。 |
|
|
一二月一二日、ラディゲ、腸チフスで急逝。 |
1924年
|
35歳
|
ラディゲの死による極度の鬱病。阿片を始める。カトリックの思想家ジャック・マリタンに出会う。 |
1925年
|
36歳
|
マリタンから強い影響を受け、カトリックに回心。その勧めで、阿片中毒の入院治療。クリスチアン・ベラールと出会い、詩篇『オペラ』、『天使ウルトビーズ』を書く。 |
1926年
|
37歳
|
七月一七日、テアートル・デ・ザールでピトエフ一座による『オルフェー』初演。 |
1927年
|
38歳
|
五月三〇日、サラ=ベルナール座でオラトリオ『オイディプース王』が、作曲家ストラヴィンスキーの指揮で初演。 |
|
|
六月、ピトエフ一座の『オルフェー』再演に、ウルトビーズ役で出演。 |
|
|
一二月、自身の同性愛の告白『白書』執筆。ブリュッセルでオネッゲル作曲のオペラ『アンティゴネー』初演。 |
1928年
|
39歳
|
一二月から、二度目の阿片解毒治療のため入院。『白書』の無署名二一部限定版。 |
1929年
|
40歳
|
四月まで、治療続行。小説『恐るべき子供たち』と、治療メモ『阿片』(テクストとデッサン)を書く。 |
|
|
三月一九日、コメディ=フランセーズの脚本審査会で、一幕物『声』を朗読。 |
1930年
|
41歳
|
二月一五日、コメディ=フランセーズにおける『声』の特別公開リハーサル。エリュアールの野次。一七日の初日は無事。 |
|
|
4月~9月、最初の映画『詩人の血』を監督。公開は1932年。 |
1932年
|
43歳
|
『地獄の機械』を書く。 |
1933年
|
44歳
|
三度目の阿片解毒入院。 |
1934年
|
45歳
|
四月九日、コメディ=デ=シャンゼリゼにおける、ジューヴェ演出『地獄の機械』の公開リハーサル。 |
|
|
秋、『円卓の騎士』を書く。 |
1936年
|
47歳
|
『八十日間世界一周』を模した旅行。五月に東京を訪れ、歌舞伎座で、六代目尾上菊五郎の『鏡獅子』を観る(後の『美女と野獣』の発想)。鹿島丸船上ではチャプリンと会う。 |
1937年
|
48歳
|
アントワーヌ座におけるコクトー演出『オイディプース王』のオーディションで出会った24歳の青年ジャン・マレーに惹かれ、翌年から同棲。 |
|
|
一〇月一四日、『円卓の騎士』をジャン・マレー主演で作品座で行う。 |
1938年
|
49歳
|
一一月一四日、アンバサドゥール座で『恐るべき親たち』の初演が、パリ市会によってスキャンダラスだと断じられるが、興行は大成功。 |
1939年
|
50歳
|
『聖なる怪物』を、女優イヴォンヌ・ブレのために書く。次作『タイプライター』も、写実主義的作風。第二次世界大戦始まる。 |
1940年
|
51歳
|
二月一七日、ミッシェル座で『聖なる怪物』初演。 |
|
|
六月、ドイツ軍侵攻を避けて、ペルピニャンへ。ジャン・マレーは除隊になり、ペルピニャンへ。 |
1941年
|
52歳
|
四月二九日、芸術座で『タイプライター』初演。対独協力派の攻撃。フランスのファシスト勢力に睨まれる。 |
|
|
八月、『ルノーとアルミード』三幕の韻文劇完成。 |
1942年
|
53歳
|
コメディ=フランセーズの脚本審査会で『ルノーとアルミード』を朗読。 |
1943年
|
54歳
|
三月、ジャン・ジュネが初めて訪れる。 |
|
|
四月二八日、コメディ=フランセーズで『ルノーとアルミード』初演。 |
|
|
六月~九月、コクトー脚本の映画『永劫回帰』(邦題『悲恋』)がジャン・ドラノア監督で撮影。 |
1944年
|
55歳
|
一月、エドヴィージュ・フイエール宅で『双頭の鷲』朗読。 |
1945年
|
56歳
|
『美女と野獣』のシナリオ完成。八月に撮影に入るが、発疹のため中止。 |
1946年
|
57歳
|
一〇月、映画『美女と野獣』を公開。戯曲『双頭の鷲』エベルト座初演。ジャン・マレーとエドヴィージュ・フイエールの演技によって大評判。 |
1947年
|
58歳
|
映画『ルイ・ブラス』『双頭の鷲』の撮影。画家志望の青年エドゥアール・デルミットと出会い、後に養子にする。 |
1948年
|
59歳
|
七月、サルトルと共にジャン・ジュネの特赦を、オリオール大統領に求める。映画『ルイ・ブラス』『恐るべき親たち』公開。 |
1949年
|
60歳
|
八月、映画『オルフェ』撮影開始。 |
1950年
|
61歳
|
三月一日、カンヌ映画祭特別出品作品として『オルフェ』上映。『恐るべき子供たち』パリ公開。 |
|
|
六月、オペラ座でバレエ『フェードル』初演。 |
|
|
九月、ヴェネツィア映画祭に『オルフェ』出品。国際批評家賞。 |
1951年
|
62歳
|
ルノー=バロー劇団による戯曲『バッキュス』の初演(マリニー座)がスキャンダルとなる。カトリック作家フランソワ・モーリヤックとの論争。 |
1954年
|
65歳
|
六月、心筋梗塞の発作。静養。 |
1955年
|
66歳
|
ベルギー王立アカデミーの会員に選ばれ、アカデミー・フランセーズの会員にも選ばれる(歓迎の辞はアンドレ・モーロワ)。 |
1958年
|
69歳
|
ヴィルフランシュ=シュル=メールのサン・ピエール礼拝堂の内陣装飾。 |
1959年
|
70歳
|
一月二八日、オペラ座でバレエ『一角獣と貴婦人』初演。 |
|
|
二月六日、オペラ・コミック座で、プーランク作曲のモノオペラ『声』初演。 |
|
|
二月一〇日、『オルフェーの遺言』パリ公開。 |
|
|
ミイー=ラ=フォレのサン=ブレーズ=デ=サンプル礼拝堂(セーヌ=エ=オワーズ県)の内陣の装飾。映画『オルフェーの遺言』を製作。 |
1960年
|
71歳
|
ロンドンのノートル=ダム=ド=フランス教会の内陣装飾。 |
1961年
|
72歳
|
年末、『パレ=ロワイヤル即興劇』。 |
1962年
|
73歳
|
五月、『パレ=ロワイヤル即興劇』コメディ=フランセーズ東京公演で初演。 |
1963年
|
74歳
|
四月に心臓発作。 |
|
|
一〇月一一日朝、エディット・ピアフ死去の報に、容態急変。午後一時頃、死去。柩は、サン=ブレーズ=デ=サンプル礼拝堂裏に仮埋葬。 |
翌1964年
|
|
四月二四日、礼拝堂内に埋葬。 |