トロツキー人物論・文学論年譜(1917年末まで旧暦)
*太字は本書所収(論文表題は中身がわかりやすいように1部改変)
年 | 歳 | 出来事 |
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1879年 | 10月 レフ・ダヴィドヴィチ・ブロンシュテイン(トロツキー)、南ウクライナのヘルソン県ヤノーフカで生まれる。 | |
1900年 | 20~21歳 | 春 獄中でソコロフスカヤと結婚。 |
秋 長女ジーナ誕生。 | ||
10月 『東方評論』にさまざまな評論を書き始める。 | ||
同月 「ニーチェ――『超人』の哲学」 | ||
1901年 | 21~22歳 | 2月 「悲観主義、楽観主義、20世紀、その他」 |
3月 「バリモント論」 | ||
4月 「ゲルツェンと『若い世代』」 | ||
5月 「ハウプトマンの最新の戯曲」 | ||
6月 「ヘンリク・イプセン――小市民群像の表現者」 | ||
7月 「新しい時代、新しい詩――ポタペンコ論」 | ||
9月 「詩と機械、機械の詩――ジョン・ラスキン」 | ||
1902年 | 22~23歳 | 1月 「社会的トートロジー――セメントコフスキー論」 |
2月 「ゴーゴリ――没後50年によせて」 | ||
3月 「ゴーリキーの『3人』について」 | ||
4月 「グレーブ・イワノヴィチ・ウスペンスキー」「ジュコーフスキー」 | ||
5月 「アルトゥール・シュニッツラー」 | ||
6月 「レオニード・アンドレーエフ」 | ||
1903年 | 23~24歳 | 7~8月 ロシア社会民主労働党第2回大会、党分裂。トロツキーは少数派(メンシェヴィキ)に。 |
1904年 | 24~25歳 | 2月 日露戦争勃発。 |
9月 メンシェヴィキから離脱。 | ||
1905年 | 25~26歳 | 1月 血の日曜日事件。 |
10月 ロシア全土にゼネストが勃発。ペテルブルク・ソヴィエト結成。 | ||
11月 ペテルブルク・ソヴィエト議長に就任。 | ||
12月 逮捕。 | ||
1906年 | 26~27歳 | 獄中で『総括と展望』執筆。 |
2月 『政治におけるピョートル・ストルーヴェ氏』 | ||
11月 シベリアへの終身流刑の判決。 | ||
1907年 | 27~28歳 | 1月 流刑地に行く途中で脱走しウィーンへ。 |
6月 ストルイピンのクーデター。 | ||
1908年 | 28~29歳 | 4月 「時間の中のわが祖国」「フランク・ヴェデキント」(『文学と革命』所収) |
6月 『キエフスカヤ・ムイスリ(キエフ思想)』に文学論・人物論などを多数執筆しはじめる。 | ||
8月 「ヴィッテ伯――官僚主義文化の歴史の数頁」 | ||
9月 「レフ・トルストイ――詩人と道徳家」 | ||
10月 ウィーン『プラウダ』発行。 | ||
12月 「芸術に関する新年の対話」(『文学と革命』所収) | ||
1909年 | 29~30歳 | 1月 「ジョレス」「強さの源泉としての弱さ――プリシケヴィチ論」 |
1~3月 「西欧にて(体系なき覚書)」(『文学と革命』所収) | ||
4月 「ピョートル・ストルーヴェ氏――説明の試み」 | ||
12月 「ゴーリキーと社会民主党」 | ||
1910年 | 30~31歳 | 11月 「トルストイの死」 |
1911年 | 31~32歳 | 1月 「パーヴェル・ジンガー」 |
5月 「メレシコフスキー」(『文学と革命』所収) | ||
同月 「エヴノ・アゼーフ――あるテロリストの肖像」 | ||
11月 「ストルイピンの暗殺」 | ||
1912年 | 32~33歳 | 3月 「インテリゲンツィア論」(『文学と革命』所収) |
同月 「ゲルツェンと西方――生誕100周年によせて」 | ||
5月 「チュコフスキー」(『文学と革命』所収) | ||
8月 ウィーンの全党協議会に出席(8月ブロック)。 | ||
9月 「ミリュコーフ」 | ||
10月 第1次バルカン戦争勃発。『キエフスカヤ・ムイスリ』特派員としてバルカン半島へ。 | ||
1913年 | 33~34歳 | 6月 第2次バルカン戦争勃発。 |
7月 「ヴィクトル・アドラー」 | ||
8月 「ドブルジャヌ・ゲレア」 | ||
10月 「グチコフとグチコフ主義」 | ||
11月 「ベイリス事件」 | ||
12月 「エヌ・イ・ピロゴーフ」 | ||
1914年 | 34~35歳 | 1月 『ボリバ(闘争)』創刊。 |
3月 「総合雑誌の運命」(『文学と革命』所収) | ||
4月 「クリャチコ」 | ||
6月 「ロシアとヨーロッパ――マサリク教授のロシア論」 | ||
7月 第1次世界大戦勃発。 | ||
8月 スイスに亡命。 | ||
11月 『キエフスカヤ・ムイスリ』の戦時特派員としてフランスへ。 | ||
1915年 | 35~36歳 | 2月 「パルヴス――生ける友への弔辞」 |
5月 「アクセリロートと社会愛国主義」 | ||
7月 「ジャン・ジョレス――死後1年によせて」 | ||
9月 ツィンメルワルト会議に出席。 | ||
10月 「ラコフスキーとコラロフ」「カウツキー、ベルンシュタイン、ハーゼ」 | ||
12月 「1つの時代の終わり――ヴァイヤンの死によせて」 | ||
1916年 | 36~37歳 | 3月 「ポトレソフ」 |
7月 「カール・リープクネヒト」 | ||
9月 フランスを追放され、スペインに。 | ||
10月 「ジュール・ゲードへの公開状」「フリッツ・アドラー」 | ||
12月 スペインからニューヨークに追放。 | ||
1917年 | 37~38歳 | 2月 2月革命勃発。 |
3月 ニューヨークを出発。 | ||
4月 船上でイギリス軍に逮捕され、強制収容所へ。 | ||
5月 ロシアに帰国。 | ||
7月 7月事件勃発。 | ||
9月 ペトログラード・ソヴィエトの議長に。 | ||
10月 10月革命勝利、外務人民委員に。 | ||
1918年 | 38~39歳 | 2月 軍事人民委員に。 |
5月 内戦勃発。 | ||
6月 「プレハーノフの思い出」 | ||
7月 左翼エスエルの反乱。 | ||
1919年 | 39~40歳 | 1月 「カール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルク」 |
3月 第3インターナショナル創立大会開催。 | ||
同月 「プレハーノフ――先駆者の運命」「カール・カウツキー――改良と革命のあいだ」「マルトフ」 | ||
1920年 | 40~41歳 | 4月 ポーランド戦争勃発。 |
7月 コミンテルン第2回大会。 | ||
1921年 | 41~42歳 | 3月 クロンシュタットの反乱。 |
同月 第10回党大会開催、新経済政策(ネップ)採択。 | ||
6月 コミンテルン第3回大会。 | ||
1922年 | 42~43歳 | 5月 レーニン、発作に倒れる。 |
同月 「フランス労働者階級の戯曲――マルチネの『夜』」 | ||
12月 レーニン、「大会への手紙」を書く。 | ||
1923年 | 43~44歳 | この年、『文学と革命』『日常生活の諸問題』出版。 |
3月 レーニン、2度目の発作を起こし、政治の表舞台から姿を消す。 | ||
4月 ボリシェヴィキ第12回党大会。 | ||
6月 「古い家族から新しい家族へ」 | ||
7月 「人は政治によってのみ生きるにあらず」「ウォッカ、教会、映画」 | ||
10月 46人の声明(左翼反対派の最初の声明)。 | ||
12月 1連の新路線論文を『プラウダ』に発表。 | ||
1924年 | 44~45歳 | この年、『レーニンについて』出版。 |
1月 レーニン死去。 | ||
3月 「フリードリヒ・エンゲルスの新しい著作」 | ||
4月 「レーニンの思い出から」 | ||
5月 「党の文芸政策について」(『文学と革命』第2版所収) | ||
9月 「グラズマンの思い出」 | ||
10~12月 トロツキーの「10月の教訓」をめぐって「文献論争」勃発。 | ||
1925年 | 45~46歳 | 1月 軍事人民委員解任。 |
3月 「スヴェルドロフの思い出」 | ||
8月 「スクリャンスキーの死」 | ||
9月 「メンデレーエフとマルクス主義」 | ||
11月 「フルンゼの思い出」「品質と文化のために!」 | ||
12月 ボリシェヴィキ第14回党大会。 | ||
1926年 | 46~47歳 | 1月 「セルゲイ・エセーニンの思い出」 |
2月 「文化と社会主義」 | ||
7月 合同反対派の闘争開始。 | ||
同月 「ジェルジンスキーの思い出」 | ||
12月 「クラーシン」 | ||
1927年 | 47~48歳 | 4月 蒋介石による上海クーデター。 |
9月 『合同反対派の政綱』を地下出版。 | ||
11月 トロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフが除名。 | ||
同月 「アドルフ・ヨッフェ――告別の辞」 | ||
12月 ボリシェヴィキ第15回党大会。 | ||
1928年 | 48~49歳 | 1月 アルマ・アタに追放。 |
7月 コミンテルン第6回大会。 | ||
12月 「官僚主義の哲学的傾向」 | ||
1929年 | 49~50歳 | 1月 ソ連から追放。 |
7月 『反対派ブレティン』創刊。 | ||
1930年 | 50~51歳 | 1月 「ブリュムキンの銃殺」 |
5月 「スターリンの政治的伝記によせて」 | ||
同月 「マヤコフスキーの自殺」 | ||
1931年 | 51~52歳 | 1月 「ある友の思い出――コート・ツィンツァーゼの新しい墓の前で」 |
2月 「絞殺された革命――アンドレ・マルローの『征服者』について」 | ||
3月 「リャザーノフ事件」 | ||
6月 「絞殺された革命とその絞殺者たち――マルローへの反批判」 | ||
1932年 | 52~53歳 | 3~4月 「プロレタリア文学について――パリジャニーヌへ」 |
6月 「ローザ・ルクセンブルクへの中傷をやめよ!」 | ||
7月 ドイツ総選挙でナチ党が第1党に。 | ||
同月 「デミヤン・ベードヌイについて」 | ||
12月 「レーニンの遺書について」 | ||
1933年 | 53~54歳 | 1月 長女ジーナ、ベルリンで自殺。 |
同月 「私の娘ジナイーダ・ヴォルコヴァの自殺について」 | ||
2~3月 『われわれと彼ら』(クラーシン、ベロボロドフ、チチェーリン、ラコフスキーについて論じる) | ||
5月 「セリーヌとポアンカレ」 | ||
6月 「国家社会主義とは何か――ヒトラーとナチズムの肖像」 | ||
7月 フランスに移る。 | ||
同月 「スクルイプニクの自殺」「シローネの『ファンタマーラ』」 | ||
1934年 | 54~55歳 | 1月 「アナトーリー・ルナチャルスキー」 |
12月 キーロフ暗殺。 | ||
1935年 | 55~56歳 | 2月 『亡命日記』を書き始める。多くの人物論、文学論を日記に書きとめる。 |
6月 フランスからノルウェーに。 | ||
7月 コミンテルン第7回大会開催。人民戦線路線に転換。 | ||
9月 「歴史と伝記はどのように書かれるか」 | ||
10月 「エンゲルスとカウツキーの往復書簡について」 | ||
11月 「エドゥアール・エリオ――中庸の男」 | ||
1936年 | 56~57歳 | 7月 「マクシム・ゴーリキー――革命の衛星」 |
8月 第1次モスクワ裁判。 | ||
12月 ノルウェー政府、トロツキー1家を追放。 | ||
同月 「ジノヴィエフとカーメネフ」 | ||
1937年 | 57~58歳 | 1月 メキシコ到着。 |
同月 第2次モスクワ裁判開始。 | ||
4月 デューイ委員会によるモスクワ対抗裁判。 | ||
6月 赤軍の大粛清。 | ||
10月 「ジャック・ロンドンの『鉄のかかと』」 | ||
1938年 | 58~59歳 | 1月 「アーベル・エヌキッゼ――クレムリンの壁の背後で」 |
2月 セドフが病院で変死。 | ||
同月 「レフ・セドフ――息子、友人、闘士」 | ||
3月 第3次モスクワ裁判。 | ||
6月 「革命的芸術と第4インターナショナル」 | ||
7月 「自由な革命的芸術のために!」 | ||
9月 第4インターナショナル創立。 | ||
11月 「カール・カウツキーの死」 | ||
1939年 | 59~60歳 | 3月 「クルプスカヤの死」「ヒトラーとスターリン」 |
8月 独ソ不可侵条約成立。 | ||
同月 「新しい偉大な作家――ジャン・マラケの『ジャワ人』」 | ||
9月 第2次世界大戦勃発。 | ||
同月 「ヨシフ・スターリン――性格規定の試み」 | ||
10月 「レーニンの死の謎」 | ||
1940年 | 60歳 | 1月 「双子星――ヒトラーとスターリン」 |
2月 「遺書」執筆。 | ||
8月 スターリンの手先によって暗殺される。 | ||
未完の書として『スターリン伝』『レーニン伝』が残される。 |