1896年
|
|
9月24日 F・スコット・フィッツジェラルド、ミネソタ州セントポールに生まれる。父エドワード、母モリー。 |
1898年
|
2歳
|
父の籐家具事業が破綻。プロクター&ギャンブル社で営業職に就く。ニューヨーク州バッファローへ移る。その後、同州シラキュースへ(1901年)、ふたたびバッファローへ(1903年)。 |
1901年
|
5歳
|
妹アナベル誕生。 |
1908年
|
12歳
|
父が失業。セントポールへ戻る。以後、母の資産が主たる生活手段となる。スコットはセントポール・アカデミーに入学。 |
1911年
|
15歳
|
ニュージャージー州ハッケンサックの寄宿制進学校ニューマン・スクールに入学。 |
1913年
|
17歳
|
プリンストン大学に入学。学内誌には積極的に寄稿するが、成績は芳しくない。在学中からの友人に、エドマンド・ウィルソン(評論家)、ジョン・ピール・ビショップ(詩人)。3年次に休学(復学するが結局は中退にいたる)。 |
1915年
|
19歳
|
イリノイ州レークフォレストの令嬢ジネヴラ・キングと知り合い、2年ほどの交際。いくつかの作品で女性像への反映あり。 |
1917年
|
21歳
|
アメリカが第1次大戦に参戦(4月)。すでに卒業の見込みが薄れていたスコットは、陸軍の教練に参加し、任官試験を受ける。秋に歩兵少尉となって、カンザス州へ。小説を書きだす。 |
1918年
|
22歳
|
小説『ロマンティック・エゴイスト』第1稿。スクリブナー社に出版を打診。ケンタッキー、ジョージアの駐屯地を経て、アラバマ州モントゴメリーで州最高裁判事の娘ゼルダ・セイヤー(18歳)と出会う(7月)。スクリブナー社、出版を拒否。第2稿を送るが、これも却下される(10月)。ヨーロッパ戦線へ出征する寸前に終戦(11月)。 |
1919年
|
23歳
|
除隊後、ニューヨークの広告代理店に就職(3月)。すでにゼルダとは婚約していたが、スコットの将来に不安を感じたゼルダが婚約を破棄(6月)。広告代理店を辞め、セントポールの実家へ帰る。2度まで却下されていた小説を書き直す(7~8月)。スクリブナー社内でスコットに注目していた編集者マックスウェル・パーキンズが出版に同意(9月)。タイトルは『楽園のこちら側』となる。ハロルド・オーバーを代理人とする。この時期から雑誌(「スマート・セット」「サタデー・イヴニング・ポスト」)に短編を載せる。ゼルダと復縁(11月)。 |
1920年
|
24歳
|
『楽園のこちら側』出版(3月)。その1週間後にニューヨークの聖パトリック大聖堂で、ゼルダと結婚(4月)。長編の成功で時代の寵児となる。短編の原稿収入も上がって、贅沢な生活を支える重要な資金源に。 |
|
|
コネティカット州ウェストポートに借りた家で、第2長編『美しく呪われし者』の執筆にかかる(5月~)。第1短編集『フラッパーと哲学者』出版(9月)。ニューヨーク市内のアパートに移る(10月)。 |
1921年
|
25歳
|
イギリス、フランス、イタリアへ旅行(5~7月)。セントポール近郊のデルウッドで、ホワイトベア湖畔のコテージを借りる(8月)。「メトロポリタン・マガジン」に『美しく呪われし者』の連載を開始(9月~翌年3月)。セントポール市内に移る。娘スコッティー誕生(10月)。 |
1922年
|
26歳
|
『美しく呪われし者』出版(3月)。ゼルダが初めての執筆活動として「ニューヨーク・トリビューン」紙に書評を書く(4月)。ホワイトベア・ヨットクラブを経て(6月)、セントポールのホテルに移る(8月)。第2短編集『ジャズ・エイジの物語』出版(9月)。 |
|
|
ロングアイランド北岸のグレートネックへ移る(10月)。ニューヨークの中心から2十数キロ離れた、芸能人、文化人の多いこの地で、『グレート・ギャッツビー』の素材を得る。ここで作家リング・ラードナーを知り、酒および文学の付き合いが生じる。 |
1923年
|
27歳
|
戯曲『植物』出版(4月)。のちに『グレート・ギャッツビー』となる小説の第1稿を書き始める(6月)。『植物』が上演されるものの失敗に終わる(11月)。 |
1924年
|
28歳
|
フランスへ発つ(4月)。パリを経由して、リヴィエラに屋敷を借りて住む(5月)。ゼルダがフランスの航空士官エドゥアール・ジョーザンと親密になる。夏にジェラルド&サラ・マーフィ夫妻(『夜はやさし』のモデル)と知り合う。第3長編小説の執筆を進める。『トリマルキオ』と題されていたが、改題し『グレート・ギャッツビー』になる。ヘミングウェイの作品をスクリブナー社に紹介する(10月)。ローマへ移動。 |
1925年
|
29歳
|
『ギャッツビー』の推敲を重ねる(1~2月)。カプリ島のホテルへ移動。『グレート・ギャッツビー』出版(4月)。パリへ移ってアパートを借りる。 |
|
|
ヘミングウェイと出会う(5月)。『夜はやさし』の構想を練る。アンティーブ岬に滞在(8月)。 |
1926年
|
30歳
|
ゼルダが体調不良のためサリー・ド・ベアルンの温泉へ(1月)。オーエン・デーヴィスによる『ギャッツビー』の戯曲版がブロードウェーで上演される。第3短編集『若者はみな悲しい』出版(2月)。リヴィエラへ戻って、屋敷を借りる(3月)。この家をヘミングウェイ夫妻に譲って、別の屋敷へ(5~6月頃)。アメリカへ帰る(12月)。 |
1927年
|
31歳
|
ハリウッドへ行く(1月)。ユナイテッド・アーティスツの依頼により、ハリウッドでの初仕事として映画台本を書いたが、制作にはいたらず。17歳の女優ロイス・モランと知り合う。スコットが関心を抱いたため、夫婦喧嘩の原因となる。作中人物のモデルともなった。 |
|
|
デラウェア州ウィルミントン近郊に豪邸を借りる(3月)。 |
1928年
|
32歳
|
3度目の渡欧。パリにアパートを借りる(4月)。ジェームズ・ジョイスと出会う(6月)。デラウェア州へ戻る(10月)。 |
1929年
|
33歳
|
4度目の渡欧(3月)。ジェノヴァ、リヴィエラを経てパリへ。夏にカンヌの邸宅を借りる。パリへ戻る(10月)。 |
1930年
|
34歳
|
北アフリカを旅行(2月)。ゼルダ、精神に変調をきたし、パリ郊外のマルメゾン・クリニックへ入院(4月)。勝手に退院して、スイスの病院に移る(5月)。さらに転院して翌年9月までスイスで入院生活。スコットはパリとスイスとの往復を繰り返す。 |
1931年
|
35歳
|
父エドワードの死で単身アメリカへ帰る(1月)。ヨーロッパに戻って(2月)、ふたたびパリとスイスの往復。夫婦でフランスのアヌシー湖畔に2週間の滞在(7月)。ゼルダが退院。アメリカへ引き上げて、モントゴメリーに家を借りる(9月)。仕事のため単身ハリウッドへ(11~12月)。 |
1932年
|
36歳
|
フロリダ州セントピーターズバーグへ旅行。ゼルダの病気が再発し、ジョンズホプキンズ大学病院(メリーランド州ボルティモア)のフィップス・クリニックに入院(2~6月)。スコットは、ボルティモアでホテル住まい、ないし家を借りての生活。スコット自身が腸チフスでジョンズホプキンズ病院に入院(8月)。 |
|
|
ゼルダの長編『ワルツは私と』刊行(10月)。 |
1934年
|
38歳
|
「スクリブナーズ・マガジン」に『夜はやさし』を連載(1~4月)。ゼルダ、ふたたびフィップス・クリニックに入院(2月)。さらにクレイグ・ハウス(ニューヨーク州ビーコン)、またシェパード・プラット病院(ボルティモア近郊)へ転院(3~5月)。ニューヨークでゼルダの個展開催(4月)。 |
|
|
『夜はやさし』刊行(4月)。 |
1935年
|
39歳
|
オーク・ホール・ホテル(ノースカロライナ州トライオン)に滞在(2月)。第4短編集『起床時刻の消灯合図』出版(3月)。夏、グローヴパーク・イン(同州アシュヴィル)に滞在し、このホテルに来ていた裕福な既婚女性と関係をもつ。ボルティモアにアパートを借りる(9月)。スカイランド・ホテル(ノースカロライナ州ヘンダーソンヴィル)に滞在、のちに『崩壊』に収録されるエッセーを書きだす(11月)。 |
1936年
|
40歳
|
ゼルダ、アシュヴィルのハイランド病院へ(4月)。スコットも同地のグローヴパーク・インに宿泊(7~12月)。 |
|
|
ヘミングウェイが短編「キリマンジャロの雪」でフィッツジェラルドを中傷(「エスクァイア」誌、8月)。 |
|
|
母モリーの死(9月)。娘スコッティーはエセル・ウォーカー校(女子の進学校、コネティカット州)に入学。この時期のスコッティーにとって、父の文学エージェントたるオーバー夫妻が事実上の養父母だった。 |
1937年
|
41歳
|
オーク・ホール・ホテル滞在(1~6月)。MGMと半年契約を結んでハリウッドへ行く。〈ガーデン・オブ・アラー〉(サンセット大通りのホテル)で、バンガローの半分を借りる(7月~翌年4月)。ホテルのパーティーでシーラ・グレアムと出会う(7月)。過去の多い女性で、このときは映画コラムニストをしていた。ハリウッド時代のスコットと、同居はしなかったが、行動をともにすることが多かった。 |
|
|
ドイツの作家エーリッヒ・マリア・レマルクの小説を映画化する企画として、『3人の戦友』の台本を執筆(~1938年2月)。映画は好評を博した(1938年6月公開)。 |
|
|
ゼルダを見舞い、4日間、夫婦で過ごす(9月初旬)。MGMとの契約を延長(12月)。 |
1938年
|
42歳
|
ヴァージニア州で妻子とイースターを過ごす(3月下旬)。マリブ・ビーチにバンガローを借りる(4月)。じつはシーラ・グレアムが〈ガーデン・オブ・アラー〉の喧騒を嫌って、別の住宅をさがした結果である。 |
|
|
娘のスコッティーがヴァッサー・カレッジヘ入学(9月)。スコットはエンシーノ(ロサンゼルス近郊)にコテージを借りる(1938年11月~40年5月)。MGMとの契約は更新されず(12月)。 |
1939年
|
43歳
|
MGMとの契約が切れる直前に、少しだけ『風と共に去りぬ』の脚本制作に参加(1月)。ユナイテッド・アーティスツの企画で作家バッド・シュルバーグとダートマス大学(ニューハンプシャー州)へ取材旅行。ただし飲酒がたたって仕事を打ち切られる(2月)。いくつかの映画会社でフリーランスの仕事(1939年3月~40年10月)。 |
|
|
キューバへ旅行(4月)。とうに夫婦とは名ばかりだが、このときはシーラと喧嘩をした反動でゼルダを伴っている。飲酒と無頼のハバナ滞在となり、帰途、ニューヨークで入院する。これ以後、生存中にゼルダと会うことはなかった。 |
|
|
代理人ハロルド・オーバーと絶縁。売れていない短編についての前払いを断られたのが直接の原因だった(7月)。夏に長編『ラスト・タイクーン(The Last Tycoon)』を書きだす。 |
1940年
|
44歳
|
ゼルダ、ハイランド病院を退院して(4月)、モントゴメリーで母親と同居。スコットはエンシーノからハリウッド(北ローレル街)へ転居(5月)。 |
|
|
スコット、シーラ・グレアムのアパート(ハリウッド、北ヘイワース街)で、心臓発作にて死去(12月21日)。メリーランド州ロックヴィルの共同墓地に埋葬される(12月27日)。 |
1941年
|
|
『ラスト・タイクーン』(エドマンド・ウィルソン編)出版(10月)。1993年にマシュー・ブラッコリ編で再刊され、タイトルがThe Love of the Last Tycoonに変わった。 |
1945年
|
|
『崩壊』(エドマンド・ウィルソン編)出版(8月)。 |
1947年
|
|
ゼルダ、ハイランド病院に再入院。 |
1948年
|
|
ゼルダ、病院の火災で焼死(3月10日)。スコットの眠るロックヴィルの共同墓地に埋葬される(3月17日)。 |
1975年
|
|
スコッティー、両親をロックヴィルの共同墓地から同市のセント・メアリ教会のフィッツジェラルド家墓地へ改葬。 |