1874年
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2月1日、ウィーンに生まれる。正式の名前は、フーゴー・ラウレンツ・アウグスト・ホーフマン、エードラー・フォン・ホーフマンスタール。父は、フーゴー・アウグスト・ペーター・ホーフマン、エードラー・フォン・ホーフマンスタール(1841~1915)。母は、アンナ・マリア・ヨゼファ・フォン・ホーフマンスタール、旧姓フォーロイトナー(1852~1904)。 |
1884年
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10歳
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アカデミー・ギムナジウム・ウィーン(創立1553年)に入学。入学前は家庭教師についていた。 |
1890年
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16歳
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最初の詩「問い」を発表。 |
1891年
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17歳
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文学カフェ・グリーンシュタイドルの常連になり、ゲオルゲと知り合う。ロリスなどのペンネームで発表。 |
1892年
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18歳
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ギムナジウムを優秀な成績で卒業(=大学入学資格を取得)し、ウィーン大学法学部に入学。ゲオルゲの創刊した雑誌「芸術草紙」に詩的断章『ティツィアーノの死』を発表。 |
1893年
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19歳
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韻文劇『痴人と死』 |
1894年
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20歳
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法学士国家試験に合格。10月、1年志願兵として帝国第6竜騎兵連隊に入営(最初はブルノ、それからホドニーン[ともに現在はチェコの都市])。 |
1895年
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21歳
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短編『第672夜のメールヘン』。ヴェネツィアへ旅行。大学に戻るが、文学部に移り、ロマンス語ロマンス文学の研究を開始。 |
1898年
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24歳
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リヒャルト・シュトラウスと出会う。学位論文「プレイヤード派の詩人たちの語法について」を提出。短編『騎兵物語』 |
1899年
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25歳
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フィレンツェ、ヴェネツィアへ旅行。リルケと知り合う。 |
1900年
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26歳
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短編『バソンピエール元帥の体験』 |
1901年
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27歳
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大学教員資格申請論文「詩人ヴィクトル・ユーゴーの発展についての研究」をウィーン大学に提出。6月1日、ゲルトルート・マリア・ラウレンツィア・ペトロニラ・シュレージンガーと結婚。7月1日、ウィーン郊外のロダウンに転居。ちなみにそのバロック風の館が終の住処となる。ソポクレス『エレクトラ』、カルデロン『人生は夢』の翻案を構想。年末、大学教員資格申請論文を撤回。 |
1902年
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28歳
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長女クリスティアーネ誕生。『チャンドス卿の手紙』を発表。 |
1903年
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29歳
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演出家マックス・ラインハルトと出会い、彼に刺激されて演劇に傾く。ソポクレス『エレクトラ』の翻案をベルリンで初演。長男フランツ誕生。 |
1904年
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30歳
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3月22日、母が亡くなる。 |
1905年
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31歳
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ソポクレス『オイディプス王』の翻案(初演は1910年ミュンヘン)。 |
1906年
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32歳
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『エレクトラ』のオペラ化に意欲のあるリヒャルト・シュトラウスと、ベルリンで会う(以後、実り豊かな共同作業)。ゲオルゲと断交。次男ライムント誕生。 |
1907年
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33歳
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ヴェネツィアへ旅行。小説『アンドレアス』に取りかかる。散文『帰国者の手紙』 |
1908年
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34歳
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ギリシャ(アテネ、デルフィ)旅行。散文『ギリシャの瞬間』 |
1909年
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35歳
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オペラ『エレクトラ』(作曲R・シュトラウス、台本ホーフマンスタール)をドレスデンで初演。 |
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シュレーダー、ボルヒャルトと共同で文芸年鑑「ヘスペルス」を発行。 |
1911年
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37歳
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1月、オペラ『ばらの騎士』(作曲R・シュトラウス、台本ホーフマンスタール)、ドレスデンで初演し、大成功。 |
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12月、戯曲『イェーダーマン』、ベルリンで初演。 |
1912年
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38歳
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ディアギレフのロシア・バレエ団のために台本『ヨーゼフ伝説』(初演は1914年パリ)。『アンドレアス』の構想をメモし、序章を書く。アンソロジー『ドイツの物語作者』を出版。 |
1914年
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40歳
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第1次大戦勃発。国民軍の将校としてイストリア半島に召集されるが、友人の政治家の取りなしで、ウィーンの陸軍省の戦時救護局に配属される。 |
1915年
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41歳
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オーストリア帝国の文化を顕彰する「オーストリア文庫」を企画・刊行。12月8日、父が亡くなる。 |
1916年
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42歳
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自身の創作についての覚書『私について』を書きはじめる。改訂版オペラ『ナクソス島のアリアドネ』(作曲R・シュトラウス、台本ホーフマンスタール)、ウィーンで初演。オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ死去。 |
1918年
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44歳
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第1次大戦終了。オーストリア帝国崩壊。 |
1919年
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45歳
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オペラ『影のない女』(作曲R・シュトラウス、台本ホーフマンスタール)、ウィーンで初演。 |
1920年
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46歳
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ザルツブルク・フェスティバルがラインハルトやホーフマンスタールなどの尽力により始まる。そのザルツブルクで戯曲『イェーダーマン』が野外公演。悲劇『塔』を執筆。 |
1921年
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47歳
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喜劇『気むずかしい男』、ミュンヘンで初演。 |
1922年
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48歳
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箴言集『友の書』。戯曲『ザルツブルク世界大劇場』(カルデロン『世界大劇場』の翻案)、ザルツブルクで初演。1750年から1850年までのドイツの作家・思想家の文章を集めた『ドイツ読本』を出版。 |
1923年
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49歳
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批評家ベンヤミンの才能に驚嘆(ベンヤミンの評論「ゲーテの『親和力』について」を「新ドイツ寄稿」[1924~25年]に掲載)。 |
1924年
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50歳
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『ホーフマンスタール全集』(全6巻)。悲劇『塔』第1稿完成。 |
1926年
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52歳
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映画『ばらの騎士』(台本ホーフマンスタール)、ドレスデンで公開。 |
1927年
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53歳
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ミュンヘンで講演「国民の精神空間としての文学」(この講演で「保守革命」に言及)。 |
1928年
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54歳
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悲劇『塔』改訂版、ミュンヘンで初演。オペラ『アラベラ』の台本(全3幕)の草稿を仕上げる。 |
1929年
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55歳
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『アラベラ』第1幕の改稿をR・シュトラウスに送る。R・シュトラウスの電報「第1幕すばらしい。心より感謝」をホーフマンスタールは、読むことがなかった。7月13日、長男フランツが、ロダウンの自宅でピストル自殺。7月15日、息子の葬式に出かけようとして卒中に襲われ、夕方死去。ウィーンのカルクスブルク墓地に葬られる。 |