1776年
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1月24日、東プロイセンの首都ケーニヒスベルクに、上級裁判所弁護士クリストフ・ルートヴィヒ・ホフマンと、やはり法曹人の家庭出の妻ルイーゼ・アルベルティーネの3男として誕生。 |
1778年
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2歳
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両親が離婚し、精神を病んだ母親とともにその実家に引き取られ(長男ヨーハン・ルートヴィヒは父のもとに留まる、次男は幼時に死亡)、法律家で独身の伯父オットー・ヴィルヘルム・デルファーと、芸術に理解のある伯母ヨハンナ・ゾフィー・デルファーに養育される。この家ではしばしば家庭音楽会が催され、幼いホフマンにピアノの手ほどきをしたのもこの伯父である。 |
1786年
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10歳
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小学校の級友で生涯の友となるテオドール・ゴットリーブ・フォン・ヒッペルと知り合う。学校では学科より音楽と絵に熱中。 |
1790年
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14歳
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教会オルガニストのポドビエルスキーのもとで音楽を、画家ゼーマンのもとで絵を学ぶ。 |
1792年
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16歳
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カントで有名なケーニヒスベルク大学に入学、法律を学ぶが、関心はもっぱら音楽と絵画。楽器演奏・作曲や文学作品の習作を始める。 |
1794年
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18歳
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音楽教師を始めて、若い人妻ドーラ・ハットとの恋に落ちる。 |
1795年
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19歳
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第1次司法試験に合格、ケーニヒスベルク裁判所の司法官試補となる。 |
1796年
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20歳
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3月に母が死去。ドーラとの恋を清算すべくシュレージエン州グローガウへ転勤。 |
1798年
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22歳
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6月、第2次司法試験に合格、ベルリンの大審院勤務を認められる。大都会での生活と芸術家たちとの交遊を楽しみ、ロマン主義運動にも触れる。 |
1800年
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24歳
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3月、プロイセン領ポーランドのポーゼン高等法院の陪席判事に任命されて赴任。しかしいまだに無給。この地の社交界で自作の歌芝居やカンタータを上演する。 |
1802年
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26歳
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高官たちの戯画をカーニヴァルでばらまいた元凶として当局に睨まれ、僻地プロックへ左遷。7月、ポーゼン市役所書記の娘、ミハリーナ・ロレル=チシンスカと結婚して任地に赴き、「国外亡命」のような生活を送りながら作曲と執筆に励む。 |
1804年
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28歳
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ようやくワルシャワに配転。ここでの3年間に、「音楽協会」の設立、歌芝居の作曲・上演、自作交響曲の指揮者として登場するなど、活発な音楽活動をおこなうが、1806年末、ナポレオン戦争でプロイセンが敗れ、ワルシャワは占領されて、職も住む家も失う。 |
1807年
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31歳
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6月、職を求めて単身ベルリンへ。ポーゼンに残してきた妻は重病、2歳の娘が死去。窮乏生活がつづく。 |
1808年
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32歳
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新聞に出した求職広告でバンベルク劇場音楽監督の地位を得て、9月、妻子とともに赴任したが、指揮者デビューは失敗に終わる。音楽教師として糊口をしのぐ。 |
1809年
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33歳
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2月、初の文学作品「騎士グルック」が『1般音楽新聞』に掲載され、以後、同紙にたびたび音楽評論を寄稿するようになる。のちにホフマンの最初の出版者となるクンツと昵懇になる。 |
1810年
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34歳
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フランツ・フォン・ホルバインが再建したバンベルク劇場の支配人補佐となり、当代ドイツきっての黄金時代を迎えたこの劇場の作曲家・舞台装飾家・衣裳係として活躍する。 |
1812年
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36歳
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2月、ホルバインの辞任とともにホフマンも劇場を去る。歌唱レッスンの弟子ユーリア・マルクへの恋に苦しみ、絶望と貧困のうちに創作に打ち込んで、「ドン・ファン」を書き、オペラ『ウンディーネ』の構想を練る。 |
1813年
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37歳
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2月末、ヨーゼフ・ゼコンダを座長とするライプツィヒ・ドレスデン巡回オペラ団の指揮者として迎えられ、フランス軍とドイツ・ロシア軍の対峙するなかで音楽活動。「黄金の壺」を書きはじめる。 |
1814年
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38歳
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2月、オペラ団を解雇され、パンのために諷刺漫画・作曲・文筆活動に集中。5月に他の小編とともに『カロ風幻想作品集』第1、2巻を出版(全4巻。翌年にかけて刊行)。ヒッペルの助力でプロイセン法務省に復職が叶い、9月にベルリンに出る。出版作品が好評を得て、音楽論集「クライスレリアーナ」各編や、長編小説『悪魔の霊薬』など、旺盛な執筆がすすむ。 |
1815年
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39歳
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1月、「大晦日の夜の冒険」を書き上げる(『カロ風幻想作品集』第4巻に収録。この作品集は1819年に2巻本にまとめて改訂版が出る)。11月、「砂男」を書く(『夜景作品集』第1巻に収録)。 |
1816年
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40歳
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4月、大審院判事に任命され、給料がもらえるようになる。8月、オペラ『ウンディーネ』が王立劇場で初演され、その成功が作曲家としての名声をもたらし、作家としても売れっ子になって、はじめて経済的にも安定する。『悪魔の霊薬』第2巻、『夜景作品集』第1巻(第2巻は翌年)出版。「クレスペル顧問官」を執筆。『くるみ割り人形とねずみの王さま』を執筆、『童話集』に収録され刊行。 |
1817年
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41歳
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7月、王立劇場が火災で焼失して『ウンディーネ』の上演は絶える。 |
1819年
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43歳
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年初、大病で生死をさまよう。『ゼラーピオン同人集』第1、2巻、『ちびのツァッヘス』、『マドモワゼル・ド・スキュデリ』ほかの出版。10月、扇動的秘密運動調査のための国王直属委員会のメンバーに任ぜられ、警察の逮捕の不法性を衝く意見をつぎつぎと具申する。 |
1820年
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44歳
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2月、「体操の父」ヤーンへの告発の無効を宣し、当局と対立する。この年、『ゼラーピオン同人集』第3巻、『ブランビラ王女』、『牡猫ムルの人生観』(第1部)などを出版。 |
1822年
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46歳
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1月、執筆中の『蚤の親方』の諷刺的挿話が警察省長官の逆鱗に触れて、原稿が押収され、審問が要求されたが、病状悪化のため審問は延期される。脊髄の病で全身に麻痺がすすむなか、『蚤の親方』を口述で完成させて4月に公刊。最後の短編「隅の窓」と「無邪気」を口述したのち、6月25日、ついに息をひきとる。 |