著者年譜

ガストン・ルルー Gaston Leroux

『オペラ座の怪人』

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出来事
1868年 五月六日、公共事業請負業者アルフレッド・ルルーとマリ・ビドーの息子としてパリに生まれる。
1880年 12歳 セーヌ=マリティーム県のウー学院の寄宿生となる。
1886年 18歳 七月、大学入学資格試験に合格。一〇月、パリに移って大学の法学部に入学。
1887年 19歳 四月、「ラ・リール・ウニヴェルセル」誌に詩を発表。これが活字になったルルーの最初の作品である。
1889年 21歳 一〇月、法学の学士号を取得。一一月から一二月まで、ル・マンの歩兵連隊に二カ月間の入隊をする。
1890年 22歳 一月、パリの控訴院、第一法廷で弁護士試補として活動を始める。
1894年 26歳 法曹界からジャーナリズムの世界に転じる。一月、無政府主義者オーギュスト・ヴァイヤンの裁判記事を「パリ」紙に寄せ、被告人弁護の論陣を張る。これを機に「マタン」紙の司法記者となる。
1895年 27歳 三月、ブールジュで起きた事件を取材。県知事の指令書を偽造し、人類学者という触れ込みで刑務所内に入り、拘置されていた被告の独占インタビューをものする。
1897年 29歳 八月、フランス大統領フェリックス・フォールに同行するジャーナリストのひとりとして、ロシアへむかう。一〇月、新聞小説第一作となる『夜の男』を、ガストン=ジョルジュ・ラリヴ名義で「マタン」紙に連載開始。
1899年 31歳 五月、マリ・ルフランとパリで結婚。
1901年 33歳 「マタン」紙に掲載した記事を集めた『わが道』を出版。
1902年 34歳 三月、スイス、レザンのホテルで、のちに同棲・結婚することになるジャンヌ・カイヤットと出会う。
1903年 35歳 10月、『宝探しの男』を「マタン」紙に連載開始(1904年に『テオフラスト・ロンゲの二重生活』のタイトルで単行本化。これがルルー名義で出版された小説第一作となる)。
1904年 36歳 南極から帰還したノルデンショルド探検隊の取材に、マディラ島へむかう。このころから、海外特派員として世界を駆け巡るようになる。
1905年 37歳 2月、ジャンヌとともに、約1年間ロシア各地をまわる。その間、「マタン」紙に掲載されたルポルタージュは、ルルーの死後に『白ロシアの苦悩』(一九二八)としてまとめられた。七月、サンクトペテルブルクでジャンヌとのあいだに息子アンドレ=ガストン誕生。
1906年 38歳 三月、ロシアから帰国。
1907年 39歳 1月、戯曲『判事の家』がオデオン座で上演されるが、不評のために公演は十回で終わる。7月、少年探偵ルルタビーユが初登場する『黄色い部屋の謎』を「イリュストラシオン」誌に連載開始(刊行は一九〇八年)。八月、「マタン」紙の情報部長職を辞す。
1908年 40歳 6月、ジャンヌとのあいだに娘マドレーヌ誕生。9月、『黄色い部屋の謎』の続編『黒衣夫人の香り』を「イリュストラシオン」誌に連載開始(刊行は1909年)。
1909年 41歳 ニースに転居。7月、『オペラ座の怪人』を「ゴーロワ」紙に連載開始(刊行は1910年)。
1911年 43歳 戯曲『悪魔に会った男』(同名の短編をルルー自身が脚色したもの)がグラン・ギニョール座で大ヒットする。
1912年 44歳 8月、『ロシア皇帝のもとのルルタビーユ』を「イリュストラシオン」誌に連載開始。ルルタビーユを主人公にしたこのシリーズは、『ルルタビーユとボヘミアン』(1922年)までさらに五編書き継がれる。
1913年 45歳 3月、ルルーの長編小説『バラオ』をもとにした同名の映画(監督ヴィクトリアン・ジャセ)が公開される。4月、『シェリ・ビビ、最初の冒険』を「マタン」紙に連載開始。怪盗シェリ・ビビを主人公したこのシリーズは、第5作『シェリ・ビビのクーデタ』(1925年)まで続く。
1917年 49歳 三月、マリと離婚成立。六月、ジャンヌとサン・モールで再婚。
1919年 51歳 四月、ルルーの脚本による映画『新たな夜明け』がパリで公開される。
1920年 52歳 七月、アカデミー・フランセーズ会員マルセル・プレヴォーによる冒険小説、ミステリー小説批判に対し、「ル・プティ・ニーソワ」誌で反論をする。
1926年 58歳 一月、ロン・チェイニー主演による『オペラ座の怪人』映画化作品(監督ルパート・ジュリアン)が、ルルーの住むニースで公開され、二万人の観客を動員する。
1927年 1月、遺作『ダンスの追及者』を「ジュルナル・デ・ヴォワイヤージュ」誌に連載開始。しかし、当時すでに重病だったルルーは、執筆の続きをシャルル・ド・リシュテルに託し、同年九月にリシュテルが完成させた。四月一五日、尿毒症の外科手術を受けた直後に、塞栓症によりニースの自宅で死亡。