著者年譜

D・H・ロレンス

『チャタレー夫人の恋人』

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出来事
1885年 デイヴィッド・ハーバート・ロレンス、ノッティンガムシャーのイーストウッドに生まれる(9月11日)。父アーサーは坑夫、母リディア(旧姓ビアゾル)はエンジン整備工の娘。兄が2人、姉妹が1人ずついる。
1892年 7歳 ボーヴェイル公立小学校に通う(1898年まで)。
1898年 13歳 奨学金を獲得し、9月よりノッティンガム高校に通う(1901年まで)。
1901年 16歳 9月後半からノッティンガムにあるヘイウッド商会の事務員として働き始めるが、12月後半に肺炎を患い、勤務は3カ月で終了(同年10月に兄アーネストが肺炎で他界している)。
1902年 17歳 4月頃から1カ月間、リンカンシャーのスケグネスで療養。春から夏にかけて、イーストウッドに程近いアンダーウッドでハッグズ農場を営むチェインバーズ1家を頻繁に訪れ、ジェシー・チェインバーズと親しくなる。10月から、イーストウッドのアルバート通りにある小学校で教育実習生となる(1905年7月まで)。
1904年 19歳 3月からダービシャーのイルキストンにある教員養成所に通う。そこでルイ・バロウズと出会う。12月、王室奨学基金の試験を受験(翌年、合格)。
1905年 20歳 6月に大学入学資格試験を受け、合格。授業料が払えず、8月から以前と同じアルバート通りの小学校で免許状なしの教員として勤務(翌年9月まで)。
1906年 21歳 のちの小説『白孔雀』に着手。10月、現在のノッティンガム大学に入学し、教員養成課程に進む。
1907年 22歳 12月、「ノッティンガムシャー・ガーディアン」紙にクリスマス懸賞短編作品として「序曲」が掲載される。
1908年 23歳 7月、教員免許状取得。10月からロンドン南部クロイドンのデイヴィッドソン・ロード小学校の教諭となる。
1909年 24歳 文芸誌「イングリッシュ・レヴュー」の編集長フォード・マドックス・フォードに会う。以後、同誌に詩と短篇が掲載される。またロンドンの文壇に紹介され、詩人エズラ・パウンドや作家H・G・ウェルズを知る。
1910年 25歳 のちの小説『侵入者』と小説『息子と恋人』に着手。12月、ルイ・バロウズと婚約(3日)、母リディアの他界(9日)。
1911年 26歳 1月、『白孔雀』出版。11月、肺炎で休職(翌年2月末に辞職願を提出し、その後は教職に戻らず)。
1912年 27歳 1月、イギリス南部ボーンマスで療養。2月、ルイ・バロウズとの婚約を解消。イーストウッドに戻り、『息子と恋人』を書き続ける。3月、ノッティンガム大学教授アーネスト・ウィークリー宅を訪れ、ドイツ人の妻フリーダと出会う。5月、フリーダとドイツへ。同月、『侵入者』出版。8月、アルプスを越えてイタリアへ向かう。このときの体験が紀行『イタリアの薄明』に結実。翌年4月までガルニャーノに滞在し、『息子と恋人』の最終稿を仕上げる。
1913年 28歳 2月、詩集『愛の詩集』出版。小説『姉妹』に着手(のちに『虹』と『恋する女たち』の2作に分割・発展)。5月、『息子と恋人』出版。6月、帰国。評論家ジョン・ミドルトン・マリと作家キャサリン・マンスフィールドと出会う。9月、イタリアに戻る。
1914年 29歳 4月、戯曲『ホルロイド夫人やもめとなる』出版。6月、帰国。7月13日、離婚が成立していたフリーダと結婚。8月、第1次世界大戦勃発。バッキンガムシャーに滞在。この頃からさまざまな文学関係者と交際を始める。のちにオトライン・モレルを通じて、数学者・哲学者バートランド・ラッセルや作家E・M・フォースターを知る。『虹』の執筆。11月、短篇集『プロシア士官』出版。
1915年 30歳 1月、サセックスに移る。8月、ロンドンのハムステッドに移る。9月に小説『虹』がメシュエン社から出版されるが、11月に発禁処分となる。
1916年 31歳 2月、コーンウォールに移る。『恋する女たち』の執筆。6月に紀行『イタリアの薄明』、7月に詩集『恋愛詩集』を出版。
1917年 32歳 10月、スパイ容疑でコーンウォールからの退去を命じられる。11月、詩集『見よ! 僕らはやり抜いた!』出版。12月、バークシャーに移る。
1918年 33歳 5月、ダービシャーに移る。10月、詩集『新詩集』出版。11月、終戦。
1919年 34歳 4月、バークシャーに戻る。10月、フリーダがドイツへ。11月、詩集『入り江』出版。また、ロレンスがイタリアへ。12月にフィレンツェで合流してからカプリに滞在。
1920年 35歳 3月、シチリア島に移る。5月、戯曲『1触即発』出版。11月、小説『恋する女たち』および小説『ロスト・ガール』出版。
1921年 36歳 1月、サルデーニャを訪問。5月、評論『精神分析と無意識』出版。12月、紀行『海とサルデーニャ』出版。
1922年 37歳 アメリカの社交界で著名なメイベル・ドッジ・スターンからニューメキシコのタオスに来ないかという誘いがあり、2月にアメリカへ発つ。まずセイロン島に行き、4月後半まで滞在後、オーストラリアへ。オーストラリア滞在中に『カンガルー』を執筆。8月から9月にかけて、南太平洋の島々を経由しながらカリフォルニアに向かう。その後ニューメキシコに入り、タオスに滞在後、12月にタオス近くの農場に移る。また、4月に小説『アーロンの杖』、10月に評論『無意識の幻想』および短篇集『イングランドよ、僕のイングランドよ』を出版。
1923年 38歳 3月、メキシコへ。のちの小説『翼ある蛇』を書き始める。7月、ニューヨークへ。8月、フリーダがイギリスへ発ち、残ったロレンスはアメリカとメキシコを旅行。また、『古典アメリカ文学研究』出版。9月、小説『カンガルー』出版。10月、短篇集『鳥と獣と花』出版。12月、イギリスに戻る。
1924年 39歳 3月、ニューメキシコに戻り、フリーダがメイベルから譲渡されたロボ農場(のちのカイオア農場)で暮らす。8月、最初の喀血。9月、父親が他界。10月、メキシコへ。
1925年 40歳 2月、結核と診断される。4月、カイオア農場に戻る。9月末に帰国し、約1カ月滞在後にイタリアへ。
1926年 41歳 1月、小説『翼ある蛇』出版。5月、フィレンツェ近くのミレンダ荘に移る。7月末、生涯最後となる故国訪問。オルダス・ハクスリーと再会し、友情を育む。故郷イーストウッド訪問。10月にミレンダ荘へ戻り、のちに『チャタレー夫人の恋人』となる小説の第1稿を書き上げ、11月には第2稿に取りかかる。
1927年 42歳 4月、エトルリア遺跡訪問(1932年出版の紀行『エトルリア遺跡』に結実)。7月に大きな喀血。『チャタレー夫人の恋人』を自費で出版する計画を立て、11月に最終稿に着手。
1928年 43歳 『チャタレー夫人の恋人』完成。3月にフィレンツェで出版の手配をし、英米の予約購読者への配送に腐心する。スイスを巡り、9月に南仏バンドルに落ち着く。『チャタレー夫人の恋人』の海賊版が欧米で出回る。
1929年 44歳 1月、詩集『パンジー』の無削除版が警察に押収される。3月、『チャタレー夫人の恋人』の普及版の出版を手配するためパリへ。6月、ロンドンで絵画展が開催される。7月、警察が会場に踏み込み、作品13点を押収。
1930年 2月、南仏ヴァンスのサナトリウムに入る。3月1日、借りたばかりの家に移るが、翌日に急速な衰弱を見せ、そのまま静かに息を引き取る(享年44)。4日に埋葬される。
1935年 フリーダ、ヴァンスの墓地に埋葬されたロレンスの死骸を掘り起こし、火葬にしてから、その灰をカイオア農場に持ち帰る。
1956年 フリーダ他界。カイオア農場に埋葬される。