1905年
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六月二一日、フランスのパリ一六区で生まれる。父ジャン=バティスト・サルトルは理工科学校の出身の海軍士官だった。生後一五ヶ月で、父親が黄熱病に倒れて逝去したため、母方の祖父であるアルザス出身のシャルル・シュヴァイツァー(一八四四~一九三五)の家に母と共に引き取られる。シャルルはドイツ語の教授、深い教養を備えていたので、サルトルの知的探究心は大いに刺激された。このようにサルトルが育ったのは、パリのブルジョワ知識人階級の中である。 |
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また、三歳のとき右目を失明し、左目だけで生活を送ることになった。 |
1915年
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10歳
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パリの名門校であるアンリ四世高等中学校に入学。この学校でのちに作家となるポール・ニザン(一九〇五~一九四〇)と知り合う。 |
1917年
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12歳
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母親の再婚にともない、ラ・ロシェルの高等中学校に転校。転校先ではうまく溶け込むことができず、後に挫折の年月と述懐している。この時期のエピソードとしては、母親の金を盗んだことで祖父から叱られたことや、美少女を口説こうとして失敗し、自身の醜さを自覚したことなどが知られる。 |
1920年
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15歳
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再びアンリ四世高等中学校に転校してニザンと再会。 |
1922年
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17歳
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アンリ四世校から、やはり同じく名門校であるルイ=ル=グラン高等中学校の高等師範学校準備学級に転籍。 |
1923年
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18歳
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準備学級に在学中に友人たちと刊行した同人雑誌「題名のない雑誌」に短編小説『病める者の天使』を発表する。 |
1924年
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19歳
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高等師範学校(?cole Normale Sup?rieure)に入学。のちにモーリス・メルロー=ポンティと知り合う。 |
1927年
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22歳
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ニザンとともにヤスパースの『精神病理学総論』仏訳の校正を行う。 |
1928年
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23歳
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アグレガシオン(教授資格、哲学)試験に落第。サルトルの落第は、彼を知るものを驚かせた。 |
1929年
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24歳
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アグレガシオン試験を首席で合格。ニザンも同じく合格した(哲学)。このころ、同試験の次席(哲学)であり、生涯の伴侶となるシモーヌ・ド・ボーヴォワールと知り合い、2年間の契約結婚を結ぶ。この結婚は、結婚関係を維持しつつお互いの自由恋愛を認めるなど前衛的なものであった。幾度かの波乱はあったものの、サルトルが逝去するまでの五〇年間にわたりこの関係は維持された。この年兵役につく。 |
1931年
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26歳
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ル・アーヴルの高等中学校の哲学科の教師となる。哲学コント『真理の伝説』を執筆するが、出版は拒否された。 |
1933~1934年
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28~29歳
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レイモン・アロンとの会話によりエドムント・フッサールの現象学に興味を持ち、ベルリンに留学し、現象学を学ぶ。エマニュエル・レヴィナスの博士論文「フッサール現象学の直観理論」を読む。 |
1935年
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30歳
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想像力についての実験のため、友人の医師・ラガッシュによってメスカリン注射を受ける。サルトルはこの際に全身をカニやタコが這いまわる幻覚に襲われ、以降も幻覚をともなう鬱症状に半年以上悩まされることになる。甲殻類に対する恐怖は生涯続いた。 |
1936~1939年
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31~34歳
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ル・アーヴルやパリで教鞭を執るかたわら、哲学・文学両面にわたる執筆活動を行う。 |
1938年
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33歳
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小説『嘔吐』を出版。作家として注目される。 |
1939年
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34歳
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九月、第二次世界大戦のために兵役召集されアルザス地方に駐屯するが、ドイツ、フランス両軍は対峙したまま戦闘にいたらなかった。この間に厖大な量の日記を書き、死後に『奇妙な戦争―戦中日記』として出版される。 |
1941年
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36歳
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前年六月にフランスが降伏、捕虜となる。捕虜収容所で八ヶ月すごしたのち、偽の身体障害証明書によって釈放される。 |
1943年
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38歳
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主著『存在と無』を出版。副題に「現象学的存在論の試み」と打たれている。 |
1945年
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40歳
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戦争体験を通じて次第に政治的関心を強めていったサルトルは、ボーヴォワールやメルロー=ポンティらと雑誌「レ・タン・モデルヌ」を発行。「創刊の辞」ではアンガジュマン(政治参加、現実参加)宣言をおこない、以後、著作活動の多くはこの雑誌を中心に発表されることになる。評論や小説、劇作を通じて、戦後、サルトルの実存主義は世界中を席巻することになり、特にフランスにおいては絶大な影響力を持った。 |
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50年代からは徐々にマルクス主義に傾倒して、旧ソ連を擁護する姿勢を打ち出す。これがアルベール・カミュやメルロー=ポンティとの決別の原因のひとつとなった。 |
1952年
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47歳
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八月、カミュが「レ・タン・モデルヌ」に掲載された『反抗的人間』に対するフランシス・ジャンソンの批判に怒り、サルトルへ抗議したのに対して、「アルベール・カミュに答える」を書く(いわゆる「カミュ=サルトル論争」)。この論争によって二人は完全に決裂した。 |
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『聖ジュネ』刊行。 |
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アルジェリア独立戦争。サルトルはフランスからの独立を目指す民族解放戦線(FLN)を支持する。 |
1960年
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55歳
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キューバを訪問し、ボーヴォワールとともにカストロやチェ・ゲバラと会談。サルトルはボリビアでの革命運動で死亡したこのアルゼンチン出身の革命思想家に支持を寄せた。 |
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『弁証法的理性批判』刊行。 |
1962年
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57歳
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アルジェリア独立。キューバ危機。 |
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クロード・レヴィ=ストロース『野生の思考』。 |
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構造主義が台頭しはじめると、次第にサルトルの実存主義は「主体偏重の思想である」として批判の対象になる。とりわけレヴィ=ストロースが、『野生の思考』の最終章「歴史と弁証法」において行ったサルトル批判は痛烈だあった。しかしながら、当時の「構造主義ブーム」の中でレヴィ=ストロースによるサルトル批判の妥当性が充分に検証されたとは言いがたい。サルトルはこの批判を一蹴し、後に竹内芳郎は『マルクス主義の運命』(解題)の中で「レヴィ=ストロースは『弁証法的理性批判』について何一つ理解しておらず、サルトルへの批判は的外れだった」という趣旨の見解を述べている。 |
1964年
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59歳
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ノーベル文学賞に選出されたが、「いかなる人間でも生きながら神格化されるには値しない」、「ノーベル賞委員会の評価を認めることは不可能であり、文学的優位性を置いて評価をつけることは、ブルジョア社会の習性」と主張して受賞を拒否。このときは、候補に挙がっていたことを知ってあらかじめ辞退の書簡をノーベル賞委員会に送付していたが、書簡の到着が遅れたためノーベル賞受賞決定後に拒否することとなった。 |
1966年
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61歳
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九月、ボーヴォワールとともに来日。約一か月間滞在する。東京、京都で三回にわたり講演を行う(「知識人の擁護」『シチュアシオンⅧ』所収)。 |
1973年
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68歳
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二月三日、ベニ・レヴィ、セルジュ・ジュリとともに新左翼日刊紙「リベラシオン」を創刊。のちにこのリベラシオン紙はごく普通の主要日刊紙の一つとなった。 |
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このころ激しい発作に襲われ、さまざまな活動を制限することになる。また、斜視であった右目は3歳から失明していたが、残る左目からの眼底出血により、この時期に両目とも失明する。ただし、光、ものの形、色までは視えると1975年にインタビューで語る(『シチュアシオンⅩ』所収「70歳の自画像」)。失明によりギュスターヴ・フローベールの評伝(『家の馬鹿息子』)の完成の不可能を悟る。ボーヴォワールとの対話の録音を開始する(のち、『別れの儀式』に所収)。自力による執筆が不可能となったサルトルは「共同作業」によっていくつかの著作を完成させようとするが、いずれの試みも失敗に終わっている。特にユダヤ人哲学者・ベニ・レヴィと取り組んだ、ユダヤ教思想に影響を受けた倫理学についての著作には意気込みを示し、その一部がここに収められた『いまこそ、希望を』である。この時期に作家フランソワーズ・サガンとの交流があったことが、サガンの『私自身のための優しい回想』に記されている。 |
1980年
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享年七五 |
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肺水腫により74年の生涯を閉じる。その死をおよそ5万人が弔った(その群集の中にはベルナール=アンリ・レヴィやミシェル・フーコーもいた)。遺体はパリのモンパルナス墓地に埋葬されている。サルトルの死後、主にボーヴォワールおよび養女である アルレット・エルカイム(34歳年下で一九五六年以降の愛人、一九六五年に養女、遺言執行人)らの編集により多数の著作が出版された。 |