「光文社古典新訳文庫」を、良質な古典作品がかかる劇場に見立て、毎月新刊を紹介。その時々の街の話題と一緒に。
[文 : 渡邉裕之・文筆家]
〈今月の新刊〉
『ブラス・クーバスの死後の回想』(マシャード・ジ・アシス 武田千香/訳)
5月の新刊は、ブラジルの作家、マシャード・ジ・アシスの『ブラス・クーバスの死後の回想』(武田千香訳)。
この小説を喩えるなら、「巨大な劇場で、カードマジックを見続けるような小説」ということになるだろうか。
カードの枚数は160枚。目の前から消えるのは「小説らしい小説」であり、突然現れるのは「生きることの悲哀」というマジックだ。
何故160なのかといえば、この小説は、比較的短い160の章から成り立っているから。普通の小説でないことは、3、4章読めばすぐにわかる。テクストに対する作者の位置、語り手と読者に対する関係性、場面から場面への繋がり、それらは従来の小説とは、かなり違っている。
しかし、実験小説ではありません。書き方は斬新だが、語られている内容は、誰もが出会う人生の出来事であり、そこから醸し出されているのは、「生きることの悲哀」だ。けっこうフツーなのだ。
主人公のブラス・クーバスという男は、裕福な家に生まれ、まあ幸福な少年時代を過ごす。大人になって政治家を目指すが挫折。恋人ヴィルジリアも同時に失う。
しばらくたって人妻となったヴィルジリアと再会し、不倫の関係となる。幼なじみの自称哲学者キンカス・ボルバとも出会い、彼が提唱する奇妙な思想を知ることになる。
時は流れる。不倫関係も小さなドラマはあったが全体としては一定の関係が続き、そして大きなドラマもなく自然に解消されていく......これがブラス・クーバスの人生である。
作家、マシャード・ジ・アシスは、以上のような人生の出来事を書いたカードを、一枚一枚読者に見せていくのだが、読者である私が常に感じていたのは、それが行われる「巨大な劇場」でした。
何故、それを感じるのか? それは作者が複数の断章を使って、ミクロとマクロの出来事を自由自在に語るからだろう。その自由自在が、広がりを感じさせるのだ。
では、巨大空間は、何を示しているのだろう?
この空間構造は、まるでジョアン・ジルベルトのボサノバの構造、あの呟くような唄声と広大な空間をうねるようなストリングスとの関係と似ている......言ってしまった、ブラジルの小説家の印象を伝えるのに、わずかに知っているブラジルの音楽家のことを使うのは、無知をただ表すだけのことですね。でも、語れて気持がすっきりしました......スミマセン。
しかしブラジルについては、本当に知りませんね。私とブラジルとの関係といえば、時々、横浜市鶴見区仲通・潮田町にある「仲通り商店街」に行くくらいでしょうか。
私はJR京浜東北線・鶴見駅から歩いていくのだが、この商店街に一歩足を入れる度に「おっ、那覇みたい」と思う。鄙びた商店が並ぶ通りに、のんびりとした空気がただよう感じが、沖縄の商店街を思い出させるのです。
実際に沖縄県人会会館があったり、その横の自動販売機では缶入りゴーヤ茶が売っていたりします。そう、ここは沖縄出身者が多いといわれているコミュニティの商店街。
前に、この街の沖縄料理店に入り、そこの女主人から話を聞いたことがある。沖縄からたくさんの人が移民として南米に行った話、帰国したが沖縄には戻らず、この界隈に住んだ人たちの話、移民の子孫にあたるブラジルやボリビアの日系の若者について。
この仲通り商店街や界隈には、ブラジル料理の店が何軒かあり、私は時々訪ねる。
最近行ったのは、先月。タピオカの根っこをフライにしたものや、黒大豆と豚肉を煮込んだ料理を食べてきた。
お勧めします。鶴見の仲通り商店街にあるブラジル世界。
話を戻そう。この19世紀のブラジルで書かれた小説が感じさせる、巨大な空間の話だった。
実は、この小説は、主人公が死んだ後に作家となり書いた小説という設定になっている。ということは、その巨大空間が示すのは?
死の問題を含む、かなり大きなことを扱った小説です。
といっても、ロシアの長編小説のように、作家が語り尽くした思想や哲学が山積みされるようなものではありません。こちらブラジルは、語りえない巨大な何かを常に感じさせる小説です。
作者のマシャード・ジ・アシスは、ブラジル文学の頂点に座す作家であるらしい。しかし「マシャードは残念ながら日本のみならず世界においても、その高い文学的な質にふさわしい知名度を獲得していず、その理由は何よりもポルトガル語で書かれているというのが大きい」という。そう本書の「解説」で書いた武田千香さんによって新訳が行われたのです。
坪内祐三さん、中森明夫さん、いとうせいこうさんら、外国文学の目利きはもう反応しているようだ。書店で、この本の動きがよいことを、編集者から先程聞きました。
今月の既刊本の紹介は、モーパッサンの『女の一生』(永田千奈訳)にします。
たまたま読んだのですが、数ページ目を通しただけですっかり心奪われ一気に読んでしまいました。
この小説の魅力は、やはりモーパッサンの描写力。リアリズムの技法に則りながら、登場人物の日常の仕草や突然の振る舞いを丁寧に語っていきます。その細やかな筆致が素晴らしい! そして、心理を直接に語るのではなく、行動の描写によって、人物の心理状態を表現していく技に感嘆してしまいました。
物語は、19世紀フランスの男爵家に生まれ、何不自由なく育ったジャンヌという女性の、題名通り、その一生を追ったもの。
彼女は、子爵であるジュリアンと出会い結婚をする。恋をただ夢見ていたジャンヌにとって、結婚の現実は厳しいものでした。心通わせていた女中のロザリが妊娠し、その相手が自分の夫であることを彼女は知ってしまうのです。しかも自分も妊娠していたのでした......。
まあ、このようなしんどい出来事にジャンヌは巻き込まれるのだけど、なんとか生きようとする。浮気性の夫に苛まれながら、さらにその夫が死んでも、生まれた息子ポールを愛することでなんとか。
しかし、ポールもダメ男だった。中学校に進んだ彼はパリで放蕩をしはじめ、情婦とともに遊び暮らすようになります。
最終的に、ポールは子供をつくり情婦は死に、ジャンヌはその赤ん坊を育てることになるわけです。まあ、こんなしょうもない彼女の人生を読者は追っていくのだけど、やはりそこはモーパッサン、魅力的な描写が。
たとえば、ポールの子供を駅で引きとったジャンヌが、馬車に乗って帰宅する場面。
「ジャンヌは、ただまっすぐ目の前の空を見ていた。その空を、飛び散る火花のように、ツバメが弧を描いて横切る。ジャンヌはふと、服を通して柔らかな温かみ、命のぬくもりを感じた。ぬくもりは、やがて足元へ、身体の芯へとじんわり広がっていく。膝にのせた赤ん坊が温かいのだ。
ジャンヌは、果てしない思いに満たされるのを感じた。とつぜん思い立ち、まだ見ていなかった赤ん坊の顔を見てみる。この子が、ポールの血を引く娘なのだ。急にまぶしい光を浴びて驚いたのだろう、小さくかよわい赤子は青い目を見開き、口を動かした。ジャンヌは思わず赤ん坊を抱え上げ、口づけを浴びせながら、感情のままに抱きしめた」
言葉による素晴らしいスケッチ! ジャンヌが鳥を見ることで、関心が彼方へ解き放たれているその時に、膝にのせている赤ん坊の体温が伝わる。そして、初めて赤ん坊を見る。子供の目が強調され口が動き、口づけへ。こうした身体の自然な動きを描きながら、彼女の今この時の心情が表される。モーパッサン、うまいなあ〜!
実際のジャンヌの年齢は、それほどいっていないはずですが、こうして孫娘を抱く姿は老人のよう、『女の一生』はこうして終わっていきます。
今回は、ここで街の話題として一冊の本を取り上げます。老人たちを巡る本。今、新聞や雑誌の書評や著者インタビューなどで盛んに取り上げられている『驚きの介護民俗学』(医学書院)です。
地味な本ではありますが、まさに街の話題となるべき内容をもった本だと思います。
著者は六車由実(むぐるまゆみ)さん。民俗学の研究者として大学で教えていましたが、それを辞め、老人ホームのデイサービス介護職員として働きだした方です。興味深いのは、六車さんが民俗学の核となる「聞き書き」という方法を使って、老人たちに接しているところです。そこで彼女は、従来の民俗学では見落とされていた「驚くべき」人々に出会うことになります。
たとえばある老人に話を聞いていくと、その男性が高度成長期の日本で「漂泊民」として過ごしてきたことがわかってくる。山奥の村々に電線を引く仕事で、家族を引き連れた十数名の技術者グループが、村から村へと20数年間も渡り歩いていたといいます。
また、ある女性の老人は「鑑別嬢」という仕事をしていた。これは蚕の雌雄や日本種・中国種を分ける仕事で、これも村々を巡っていく仕事だったとか。
そしてトイレの話も面白い、排泄介助をすることで、民俗学者が入っていけなかった領域に六車さんは参入していきます。トイレットペーパーの使い方から、糞尿を肥料にしていた農家の暮らしが垣間見え、便座に座って語り出す話には、思いも寄らぬ子供時代の記憶が......。
この本には「女の生き方」というパートがあります。電話交換手をして一人で子供を育ててきた女性、夫の浮気性に翻弄されてきた女性の話、まさに『女の一生』のジャンヌのような人生を生きてきた人たち......。
興味深いのは、こういった聞き書きを民俗学の一方法として使うだけではなく、ケアの方法としても著者が評価しているところです。
ケアする者とされる者の関係は決して対等ではありません。老人介護施設では、介護する人はどうしても老人を「助ける」「保護する」「世話をする」人になってしまい、関係性は非対称的になっています。
しかし聞き書きによって、一時的ではあるけれど、その「非対称性から解放し逆転させる」ことができると六車さんは考えます。何故なら、聞き書きとは、話者から「教えを受ける」行為だから。教えられることによって、ケアの関係性が一挙に崩されていくのです。
先述したように、『驚きの介護民俗学』は、この春、新聞や雑誌で非常に多く取り上げられました。それは、マスコミの仕事の基本を深いところで揺さぶる内容をもった本だったからだと思います。
ジャーナリズムの基本には、「取材」があります。そして、その取材ということに自覚的な人は、今、自分が行っているその作業が、あるパターンに収まって行われていることに気づいているはず。たとえばある事件が起きた時、被害者や加害者、その家族は、定まった構図に位置づけられ、取材された言葉はその構図に収められていきます。その図式をなんとか変えたいと、新聞や雑誌の人間たちは思っているのですが......。
この本の著者は、大学を辞め介護施設に入ることで、聞き書きという方法を再編しています。単なる学問の方法ではなくケアの中の人間関係性を変化させていく方法としても使おうとしている。ある技術を、今まで使用されていた場所とは違ったところで使い、その機能性を変化させたのです。
そのことが、新聞や雑誌で働く人の心に響いたのだと私は思っています。
今回は『女の一生』から介護、さらにマスコミの話にまできてしまった。そして今回の「『新・古典座』通い」、掲載が遅れてしまい、申し訳ありませんでした。
原稿がやっと書けたところで、今日は久しぶりに仲通り商店街に行ってこようと思います。鶴見川を渡ると空気が少し変わります。そして商店街に入ると、「まるで那覇......」。ブラジル料理店でビールでも飲んでこよう。