「光文社古典新訳文庫」を、良質な古典作品がかかる劇場に見立て、毎月新刊を紹介。その時々の街の話題と一緒に。[文 : 渡邉裕之・文筆家]
〈今月の新刊〉
『月をみつけたチャウラ ピランデッロ短篇集』(ピランデッロ 関口英子/訳)
10月の新刊は、イタリアの小説家ピランデッロの短篇集『月をみつけたチャウラ』。
ピランデッロというと、やはり戯曲『作者を探す六人の登場人物』を思い浮かべてしまう。
あのタイトルは秀逸で、メタ演劇の設計図のように思えるし、何よりこの劇作家に対してよくいう「現代演劇の先駆者」というキャッチフレーズを納得させるものだ。しかし、あまりにキャッチーで、この作家のイメージを固定化してしまった。
そのように「現代演劇の先駆者」イメージに捉われている人が、本作をよんだらびっくりするだろう。何に驚くのか? モダンとはほど遠い、イタリアの片田舎で展開されるドラマの濃いめの味わいに。
たとえば収録されている『ミッツァロのカラス』という小説。暇をもてあました羊飼いたちがカラスに青銅の鐘をつけるところから始まる。それでカラスはリンリンリンと鐘を鳴らしながら空を飛ぶことに。その音を幽霊が鳴らしていると思い込んだ農夫チケ。正体がカラスだとわかった時、チケは「仕返しをしてやる!」と決意。ある日、カラスを捕まえる。息子たちや近所の子どもたちに渡して、なぶり殺しにさせようと、家に連れていくのだが、その帰り道、とんだアクシデントに巻き込まれ......という物語。
ドラマのスタート、展開、結末も単純だ。そして起承転結すべてに渡って濃い味、匂いがたちこめる。たとえば羊飼いのカラスのいじめは、人が動物を近しいものとしていじめている。家畜がいる暮らしの濃い匂いがする物語なのだ。
それから、農夫チケが幽霊をやけに恐れているのは、働いている野山が、見渡せば彼一人しか見当たらないという事情があるからだ。辺境の茫漠とした淋しさは、世界共通の田舎の味わいなのか。この淋しさも、シチリアの田舎町生まれのピランデッロは、濃い味わいで書いている。
翻訳をした関口英子さんは、小説家としてのピランデッロが知られるように短篇集を編んでいるので、都会的な雰囲気の作品など、色々なタイプの小説が並んでいるが、作者の出身地を思わせる土地が舞台になっている作品群がやはり魅力的だ。
表題作の『月をみつけたチャウラ』は、採掘工の見習い作業員チャウラの物語。彼が荷の重みに耐え、坑道からやっと地上に出て、月を仰ぎ見る構図は、ルオーの油絵だ。困憊と慰安がべっとりとした筆致で描かれている。『甕』は、依頼人と職人との甕にまつわる駆け引き。プロの俳優が一人も出てこないようなヨーロッパ辺境映画が好きな人にはお勧めだ。
しかし、こうした物語は、舞台となる土地の風土というものを知っていると、より味わい深いものだろう。だが、ヨーロッパの風土や文化で知っているところは、私たち日本人はけっこう限られている。そう、最近、私はヨーロッパのある地域の風土・文化にまったく無知だったことに気づいたのである。
あなたは「アンナミラーズ」を知っているだろうか? 首都圏出身の40代以上だったら、何かしらあのレストランのチェーンストアに思い出をもっているのではないか? 食いしん坊だったら大き目のデザートパイに、オトコ一般なら、ピンクとオレンジのミニスカートとエプロン姿のウェートレスに、ぐっときた思い出をもっているはずだ。
「アンナミラーズが中国に進出」というニュースが、朝日新聞(11月9日朝刊)に載っていた。この中国進出はどうでもいいことだけど、書かれている二つの事実に驚いたのだった。
一つは、1998年には22店舗もあったアンナミラーズが、今では1店舗、高輪店のみという状態なのだ。私にとっては70〜80年代前期の風景の一つとして下北沢店、青山店などが記憶されているのだけど、もう高輪店だけなのか......。
そしてもうひとつの驚きの事実が、先の風土・文化と関わるものなのだった。
記事にアンナミラーズのコンセプトについての話が書かれていた。レストランは、日本の会社が米国本社とライセンス契約を結んで営業しているものだ。この米国本店のコンセプトなのだが「新天地を求めてアメリカに移住した南ドイツ人の伝統料理」というものなのである。
ということは、生クリームがたっぷりの大きなパイは、南ドイツの伝統料理だったのか? すると、あのウェイトレスの、おっぱいが強調されてる魅惑のコスチュームは、南ドイツの伝統衣装をモチーフにしたものなんだ。......あれは沖縄料理店に入って、女子店員が紅型のなぜかミニになっている着物姿を見るようなものなの......ヨーロッパの風土、文化というものはわからないものである。あ〜驚いたという話だった。
あの魅惑の制服と南ドイツの民族衣装を結びつけることができなかった私は、だからピランデッロの田舎風味たっぷりの小説の魅力を本当にわかっているのか、ちょっと不安なのである。
(こうした不安を解消する映画がある。本書でも紹介されている、タヴィアーニ兄弟が監督した『カオス・シチリア物語』。ピランデッロのシチリアものの作品を原作にした映画だ。また、その映像作品をモチーフにして翻訳者たち(白崎容子、尾河直哉)が編纂した短編集『カオス・シチリア物語』が白水社から出版されている)
11月に、松任谷由実のベストアルバム『日本の恋とユーミンと。』(EMI)が発売された。荒井由美の名でのデビューから40年、その長い期間の中で録音された曲から選んだベスト盤だ(自身の音楽ルーツともいうべきイギリスのロックバンド、プロコルハルムの名曲「青い影」のカバーも収録)。
「ミュージックマガジン」12月号が、「ユーミンの40年」という特集をしている。
その中で音楽評論家の小倉エージさんがユーミンと初めて出会った時のことを書いていた。「青山にあったアンナミラーズで松任谷正隆が引き合わせてくれた」と。またまたアンナミラーズだ! マルバム「ひこうき雲」の発売直前と書いているから、1973年のことだろう。アンナミラーズは、70年代から80年代前期の東京を思い出させる店なんだよな〜シツコイですね。
その特集で、40年の歴史の中で発表したアルバムが1枚ずつ紹介されている。
「ラジカセ、カー・ステレオなんていうと、いまでは完全に過去の遺物扱いだが、本作はそれらポータブル・オーディオが神通力を発揮していた時代に出されるべくして出されたアルバム」
この文章は、1980年発表「SURF&SNOW」についてのレヴューからの引用(廣川裕)だ。要は、あの時代から始まったアウトドア用の音楽を楽しむライフスタイルに呼応したアルバムをユーミンが作ったということだ。その他、この音楽家らしく、「今、何を唄いたいか」ではなく、時代ごとに「これを使って、今、何が唄えるか」という試みによって出来上がったアルバムが紹介されている。
さて、古典新訳文庫の既刊本からの紹介である。古典作品の中にも、作家が「これを使って、今、何が書けるか」という試みに挑戦した作品がある。たとえばジュール・ヴェルヌの『八十日間世界一周』(上・下)だ。
この小説は、1872年「ル・タン」紙に連載され、翌年、単行本として出版された。翻訳をした高野優さんは、「解説」で本作を次の言葉で紹介している。
「ヴェルヌはSF――空想科学小説の祖と言われ、それは確かに『海底二万里』や『月世界旅行』を見ればそのとおりであるが、この『八十日間世界一周』にかぎれば、そうとは言えない。現実にない科学技術を空想して、それをもとに物語を展開しているのではなく、現実の科学技術をもとに、『これだけ交通手段が発達していれば、八十日間で世界一周をすることが可能ではないか?』と考え、『八十日間で世界を一周する』物語を空想しただけだからである。
したがって、この作品では科学や技術は『未来にはどんなことが可能か』という夢ではなく、『これを使って、今、何ができるか』という現実として語られる。つまり、この物語の舞台になった一八七二年の世界では、科学技術がどこまで進んでいたのか、はっきりとわかる」
それから高野さんは、1872年の最先端交通技術を紹介していく。1869年に開通されたスエズ運河、また同じ年に開通されたアメリカの大陸横断鉄道、その他の技術によって、この時代に世界が飛躍的に狭くなったことを記し、この「八十日間」という日数が、当時の人々にとって、衝撃であり魅惑の数字であったことを我々に想像させていく。
その他、高野さんは、イギリスの海外支配を中心に当時の世界情勢も語っていくのだが、この素晴らしい「解説」に目を通し本書を読んでいくと、「時代」のアイテムや景色を的確に扱うことで、「その時の今」を表現する楽曲を作ってきたユーミンのように、ヴェルヌも徹底的に「現在」をリサーチすることで「時代」を書ききった作家であることがよくわかる。
そういえば、この『八十日間で世界一周』が、Kindle版で発売を始めた。ユーミンは電子出版を唄っているのだろうか?