樋口さんが字幕翻訳を含めて多角的に関わった映画『大地と白い雲』は、岩波ホールでの上映が終わり、いま全国の映画館へと旅立っています。
10月は、山形国際ドキュメンタリー映画祭がオンライン開催され、樋口さんは8日に映画監督とのQ&Aと取材の通訳を連続3本リモートでなさいました。上映された作品のうち、『蟻の蠢き』の字幕翻訳も樋口さんです。そして10月30日から11月7日まで開催された東京フィルメックスでも、コンペティション作品『永安鎮の物語集』の字幕翻訳、Q&Aの通訳というように、映画祭シーズンは、字幕翻訳、通訳などで大忙し。そもそも樋口さんが字幕翻訳をするようになったきっかけも、通訳と映画祭だったのです。
エピソード=小故事2は、中国語の通訳を仕事にするようになる決定的な要因、衝撃と感動の中国留学を中心にお届けします。
樋口裕子さんプロフィール
ひぐち ゆうこ 早稲田大学非常勤講師。主な字幕翻訳に『鵞鳥湖の夜』『ロングデイズ・ジャーニー この夜の涯へ』『SHADOW 影武者』『芳華-Youth-』『スプリング・フィーバー』『ブラインド・マッサージ』『無言歌』『王妃の紋章』『PROMIS 無極』『狙った恋の落とし方。』『ナイルの娘』『光にふれる』ほか多数。著書『懐旧的(レトロ)中国を歩く』、訳書に『藍色夏恋』『ザ・ホスピタル』『上海音楽学院のある女学生の純愛物語』ほか。
〈構成・文 大橋由香子〉
【前回はこちら】「字幕マジックの女たち 映像×多言語×翻訳」 Vol.5 樋口裕子さん〈中国語〉小故事1
「字幕マジックの女たち 映像×多言語×翻訳」 Vol.5 樋口裕子さん〈中国語〉小故事3
「字幕マジックの女たち 映像×多言語×翻訳」 Vol.5 樋口裕子さん〈中国語〉番外編
小故事2
必死に生き延びるしかない中国人のパワーに魅せられて
日本に帰ったあと、樋口さんは中国現代史にも興味をもち、調べるようになっていった。当時、日本でも中国でも、文化大革命(文革)の実態は、まだ知られていなかった。
そして大学卒業。卒業と同時に、3歳年下で当時はまだ学生だった男性と結婚する。
「中国語をもっと学びたい、やるしかない」と考え、就職はせずに中国貿易関係の団体でアルバイトとして働き、夜間の中国語学校で勉強した。
中国語学校の語学教師の中には、中国人も、中国残留孤児だった人(戦争中に中国東北部:旧満州に移民し、敗戦によって帰国できず取り残され中国人に育てられた日本人)もいた。
「その時の通訳科の講座に、文化大革命の紅衛兵だった先生がいました。自分の同級生からもらった本物の手紙をコピーして、中国語学習の教材にしてくれたんです。その手紙には『自分たちの世代には希望がない。次の世代に、希望を託すしかない』というような内容が書かれていた。でも、私とそんなに歳の違わない若い人なんですよ。それほど絶望的な状況だったことが伝わってきました。その手紙のコピーは、今も大切にとってあります」
文化大革命の悲惨さと作家の強い信念にひかれて、巴金(パーチン)の随筆集を読みふけった。〔巴金は1904年生まれの小説家、翻訳家。代表作に『寒夜』激流三部作と呼ばれる『家』『春』『秋』、愛情三部作『霧』『雨』『雷』などがある。2005年100歳で死去。〕
「まだ読み込む力もないのにね」と樋口さんは笑うが、当時の彼女は、文革に引き寄せられ、中国への留学を決意する。
受験勉強の結果、日中友好協会の推薦留学試験に合格。1985年9月、北京の大学に留学することになった。
夫とはしばらくお別れだが、それぞれ好きなことをするのが自然だったので、特に気にならない。むしろ、中国に住めることにワクワクしていた。 最初の訪中から6年の年月が経っていたが、中国の暮らしはまだまだ質素で大変だった。
自転車を入手するにも配給切符が必要で、多くの人は順番を待ちつつコネを駆使して争奪戦を繰り広げている。外国人だからと優遇されて、樋口さんは早く自転車を買うことができた。
「とにかく、肉まん一個を買うのにも食料切符が必要でした。日本から送ってもらった荷物を取りに行くのに北京の中心地に出かけるにも、モミクチャにされながら、バスを何回も乗り換えなきゃいけない。だから余計に、自転車がありがたかったです。
電熱器を使わないとお湯を沸かせなくて買いに行ったら、『自分で組み立てろ』と言われました。『え?』と戸惑っていると、部品を渡された。自分で組み立てるんです(笑)。こんな感じで、すべてが疲れます。でも、それが楽しくもありました」
不便さも楽しい、ひたすら旅をして中国人と触れ合った
北京の大学では、中国現代文学と中国語を学びながら、とにかく旅をした。とはいえ、旅をするにも切符を買うまでが大変だ。1日並んだだけでは買えず、次の日も並んで、やっと手にすることができる。
「でも、旅行も含めて、人間と触れあったことが留学の一番の収穫です。地元の人との、ちょっとした触れ合いや小さな親切が、とても心にしみました」
武漢にも行った。
武漢は武昌、漢口、漢陽の3地区から成っているが、樋口さんが旅をした当時、「武漢駅」はまだなく(2009年に開業)、武昌駅と漢口駅があり、小さくて古いのが「漢口駅」だった。
最近見つかった当時の旅日記には、こう書かれていた。
「1987年の2月2日に貴州省の貴陽を出発し、その日の夜に、漢口駅に到着。 翌2月3日に『漢口駅切符販売案内所』に行って北京行きの切符を確保。ここで、飴だの西瓜の種だの出してもらい、ご飯も食べていけと親切にされる。 2月4日、武漢を発つ日に、再びこの案内所に行き、3人の女性と写真を撮る。旅立つ私に揚げおかきを持たせてくれ、ホームまで送ってくれた。」
その時の写真がこれだ。
彼女たちが30歳前後だったとしても34年が経過し、お元気だとしても70歳近くになる。2019年から2000年、武漢でコロナ感染が起きた時、無事だろうか、と心配だった。
留学中の旅で出会った衝撃の中国語がある。貴州省の友人を訪ね、郊外の村に遊びに行くのにバスを待っていた時のこと。
「列にきちんと並んでいたのに、割り込む人に蹴飛ばされて席が取れない私に向かって、その友人は腹立たしげに、激しく、怒鳴るように言いました。
“我们国家不讲理才行!”(俺たちの国では、正しい主張をしてたら生きていけないぞ!)
礼節を言ってる場合じゃない、めちゃくちゃやらないと生き延びられないということでしょう。その言葉を、わざわざやって来た日本人の女子に教えなければならなかった友人の胸のうちを思うと、つらかったです。
と同時に、中国人は度重なる激動の政治運動を、こうやって必死に生きるしかなかったのだなあと思いました。この不思議で、パワーのある人たちをもっと知りたいという好奇心で、その後も中国一筋に歩いていくことになった気がします」
そして、1987年の春に日本に帰国した。予定より半年早く留学が終わったのだ。
「中国って、なんでもいきなりで、急に制度が変わり、奨学金は次年度から出ないことになったんです。それで、あとの半年は切り上げて帰国しました。夫は、大学7年生までやって就職はしたのですが、学費を送ってもらうのは申し訳なかったので」
映画を通して中国を知り、通訳をすることで交流する
こうして終止符が打たれた中国留学。しかし、中国を知ることは、日本にいても可能だった。それが映画である。
樋口さんは、「日中映画交流事業レポート2017-2018」に、こう書いている。
「私は1980年代から90年代にかけて池袋の文芸座で東光徳間が主催していた『中国映画祭』で映画を観て、中国に魅了されていった世代だ。ユーロスペースや岩波ホールなどで公開されたときも観に行ったが、池袋の場末の雰囲気が漂う文芸座は、なぜか若い私に今日も中国映画を観るぞ、という気にさせた。普段はろくに勉強しなかったのに、この中国映画祭に参加するようになって、たとえば『天雲山物語』で反右派闘争の実態を、『芙蓉鎮』で文化大革命の中で懸命に生きる人間の気高さを学び、中国現代史への興味が一気に深まった。(中略)
集中して中国映画を観ることで学んだ事の多くは、報道からは見えてこない中国庶民の息遣いや生活のディテール、そして人々の心模様だった。」
文芸坐に通っていた学生の頃は、将来自分が中国映画の字幕翻訳をするとは想像もしていなかったそうだ。
さて、帰国後の樋口さんは、自分が学んだ中国語研修学校での語学教師とともに、様々な分野の通訳をした。
最初、中国専門のエージェントに登録したため、パックツアー客のアテンド兼通訳で中国に行くこともあった。総会屋のボスが母親を連れて行きたいと、子分たち連れのツアーもあった。
「私はなぜか“親分”に気に入られて。怖くもなかったし、若い衆は、ひ弱なお兄ちゃんたちでしたね」と笑う余裕は、子どもの頃、父親に連れられた「社会勉強」の成果かもしれない。
中国と友好都市である自治体の交流に伴う通訳の仕事も多かった(例えば横浜市と上海のように)。中国から日本の自治体の建築や清掃関係の視察に来たり、日本側から中国に行ったりする際の通訳をつとめた。
「石炭エネルギー関係の中国の関係者が、北海道、釧路の海底炭鉱の視察に来た時は、トロッコ列車に乗って海底の採掘現場に下りていき、巨大な掘削機のそばで通訳をしました。音がすごくて、声が聞き取れない(笑)。いろんなところに行き、いろんな人に会えるのが通訳の面白さですが、体力仕事ですね。ちょうど映画祭の仕事が増えてきたので、子どもが生まれてからは、アテンド込みの出張通訳は減らすようにしました」
樋口さんは、いよいよ映画の世界への仕事の軸を移していく。
最初のきっかけは、映画祭の通訳だった。
(続く)
中国留学前に、樋口裕子さんが読み耽っていた作家・巴金(パーキン)は、「『文革博物館』は、それぞれの地域すべてに建設すべきだ」と呼びかけ、幅広い支持と反響を集めた。しかし博物館は日の目を見ず、分厚い写真集2巻の形で、1995年12月に香港で出版された。貴重な写真や文書を12のテーマ館で紹介し、文革という魔物の姿を鮮明にする「紙上博物館」。訳者の二人は原稿段階から翻訳作業を開始し、日本版1996年2月刊行と短期間の出版を果たした。 訳者あとがきで巴金の言葉が紹介されている。 「私は戦士ではない! 今日まで生きのびてこられたのは、勇敢さのゆえなどではなく、一つの真理を信じていたからにすぎない。/どんな夢もいつかは醒めるものだ」
樋口さんが、上海の人気作家・陳丹燕さんに会った時、1940年代に活躍した映画女優・上官雲球(ジャンクアンユンチュー)と娘・姚姚(ヤオヤオ)の悲しい話を教えてもらう。姚姚が上海音楽学院の声楽科で学んでいるときに文化大革命に遭遇し、母も恋人も自殺、本人も事故で命を落としてしまう。その悲劇とは? 不条理な中、自分らしく生きようとした姿を描いたノンフィクション作品(原題『上海的紅顔遺事』)が、その後、樋口さんに届けられた。
樋口さんは、何度か物語の舞台となった上海を歩き、主人公の面影を感じながら翻訳作業を進めたという。
著者・陳丹燕は、上海シリーズ三部作でベストセラー作家となった。一作目は『上海メモラビリア』(莫邦富・廣江祥子訳、草思社)、第二作は『上海プリンセス』(大場雅子訳、光文社)、そして第三作が本書である。
大橋由香子(おおはし ゆかこ) プロフィール
フリーライター・編集者。月刊「翻訳の世界」(バベル・プレス)やムック「翻訳事典」(アルク)等で翻訳者へのインタビュー取材を手がけてきた。光文社古典新訳文庫の創設時スタッフでもある。著書『同時通訳者 鳥飼玖美子』『生命科学者 中村桂子』(理論社)『満心愛の人 益富鶯子と古謝トヨ子:フィリピン引き揚げ孤児と育ての親』(インパクト出版会)『異文化から学ぶ文章表現塾』(新水社、共著)ほか。