2021.12.24

「字幕マジックの女たち 映像×多言語×翻訳」 Vol.5 樋口裕子さん〈中国語〉小故事3

野原を駆け回り、映画館に遊びに行っていた子ども時代の樋口さんは、歴史や詩への興味から中国に引き寄せられていきました。そして、現地を訪れて人々に出会ったことから、進路が決まりました。連載3回目は、中国語の通訳という仕事から、映画関係の翻訳へとつながる道を、たどります。

樋口裕子さんプロフィール

字幕マジックの女たち vol.5 中国語 樋口裕子さん

ひぐち ゆうこ  早稲田大学非常勤講師。主な字幕翻訳に『鵞鳥湖の夜』『ロングデイズ・ジャーニー この夜の涯へ』『SHADOW 影武者』『芳華-Youth-』『スプリング・フィーバー』『ブラインド・マッサージ』『無言歌』『王妃の紋章』『PROMIS 無極』『狙った恋の落とし方。』『ナイルの娘』『光にふれる』ほか多数。著書『懐旧的(レトロ)中国を歩く』、訳書に『藍色夏恋』『ザ・ホスピタル』『上海音楽学院のある女学生の純愛物語』『やさしい中国語で読む自伝エッセイ「雪花」』(張武静著、樋口裕子訳・解説)ほか。

〈構成・文 大橋由香子〉

「字幕マジックの女たち 映像×多言語×翻訳」 Vol.5 樋口裕子さん〈中国語〉小故事1

「字幕マジックの女たち 映像×多言語×翻訳」 Vol.5 樋口裕子さん〈中国語〉小故事2

「字幕マジックの女たち 映像×多言語×翻訳」 Vol.5 樋口裕子さん〈中国語〉番外編

小故事3 すべては通訳から始まった

樋口さんが、字幕翻訳をするようになったきっかけは、映画祭での通訳だった。

「映画祭通訳の最初の仕事は、1990年の『環太平洋映画祭‘90in大宮』という埼玉県と大宮市(当時)が主催していた映画祭だったと思います。来日した中国人監督の舞台挨拶やインタビューの通訳をしました。そうして何回も映画祭で通訳をしているうちに、字幕監修の仕事を頼まれるようになったんです。 当時は、字幕翻訳のプロである英語の翻訳者が、英語版から字幕を作るのが通常でした。そこで、もとの中国語のニュアンス、風俗や習慣の観点から合っているかをチェックする仕事です。この監修はたくさんやりましたね」

2021年秋第22回東京フィルメックスにて、神谷ディレクター(右)と樋口さん。
(撮影:明田川志保、提供:東京フィルメックス)

英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語などメジャー言語以外の「多」言語ならぬ「他」言語は、英語を媒介にした「重訳」のパターンが多かった。

国際映画祭では、短期間で字幕を作らなければいけない制約に加え、既に英語で字幕がついていること、中国語はなくても英語の台本(ダイアローグリスト)はあること、字幕翻訳の技術を持つ中国語翻訳者が少なかったことなどが、重訳の背景にあるかもしれない。

「監修の仕事は、まず制作会社から中国語と英語併記の台本をもらいます。スポッティングといって、言葉の長さを測ったハコ書き(セリフにスラッシュを入れて、番号をつけたもの)と映像を見ながら、中国語と日本語字幕が合っているかチェックしていきます。
門前の小僧で、見ているうちに、ハコ書きのリズムを覚えていった気がします。映画祭用の字幕を数多く手がけているアテネ・フランセ文化センター制作室やスタンス・カンパニーなど字幕制作会社の人にも、色々と教えてもらいました。正式に字幕翻訳の学校に行ったことがない私にとって、制作会社の方々が字幕の先生で、翻訳者の名前だけクレジットされていますが、実際は共同作業そのものです。
難しいのは、英語版では分かりづらい登場人物の人間関係ですね。それによってセリフの書き方が違ってきますから。中国語から英語にする時点でのズレ、英語から日本語にするときのズレが生じます。私は、英語を間に入れる重訳には反対です。一度、文化が消され、また消されることになります」


中国語を使う地域は、中国大陸、台湾、香港の他に、華僑が多いシンガポール、マレーシアも入る。例えば、マレーシアの映画で、火を燃やしている場面。先祖の霊を迎える迎え火という中国の風習を、華僑がやっているのを知らずに英訳され、それを日本語にすると、翻訳を間違うこともある。

積極的な営業はできないタイプだという樋口さんも、人に会うなかで、「こういう映画が好きです」「いずれは翻訳もしたい」と、「ほんわかとした営業」をしてきたそうだ。

重訳+監修からダイレクトの翻訳へ、字幕翻訳は共同作業

2000年前後から、映画祭の映画も英語からの重訳+監修ではなく、中国語からダイレクトに日本語に訳そうと制作会社も考えるようになった。

その時期に、通訳の現場で知り合った中国人プロデューサーから、字幕翻訳をやってみませんかと声をかけられた。

「それが、フォン・シャオガン監督『イノセントワールド-天下無賊-』です。劇場公開用の初めての作品だったかな。ひねったセリフで、初めてやる劇場用映画としては、ハードルが高かったです。でも、なんとか合格しました」


同じ中国人プロデューサーから「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ」シリーズのツイ・ハーク監督のアクション映画『セブンソード』の字幕も依頼される。

「振り返ると、2005年はすごくたくさん仕事をした重要な年でしたね。『セブンソード』はワーナー・ブラザース配給、映画館公開の作品でした。納期は短いけれど、時代劇でしょ。わたしは歴史が好きだから、言葉遣いとかは苦にならず、高校時代に漢詩が好きだったのも役立って、どうにか締め切りを守れました。ワーナーの制作室長の訳文チェックもオッケーが出て、無事に納品できました」


翻訳者、クライアント、字幕制作会社の担当者など3~4人で試写をするシミュレーションの小さな部屋に、樋口さんも出かけると……

「『あれ?字数が多いよ』と言われて、びっくり! その頃はデジタルでスポッティングリストを作るのが主流になり始め、私はこの字幕もその前に手がけた作品と同じくデジタルだろうと思いこんでいたのです。ところが、昔ながらのフィートの計算だと、入れられる文字数が1文字少なくなり、字数オーバー。デジタルは1秒なら4文字、フィートなら3文字なんです。全部やり直しです。
制作室長と夜中までかかって、一つずつ直しました。東京現像所の人も『がんばってください』と励ましてくれるし、中国人プロデューサーも栄養ドリンクを買ってきてくれて。最初にちゃんと確認すればよかったんですよね。
でも、このトラブルで印象が強くなったのか、その後も制作室長から依頼されて、何本か翻訳しました」


映画祭と一般映画館の上映とでは、微妙な違いがあると樋口さんは言う。

視聴者の幅が広いメジャーな映画の場合は、漢字が読めるかどうか、わかりやすいかという点が重視される傾向にある。

共同作業の中に、俳優が加わることもある。チェン・カイコー監督の『PROMIS 無極』では、こんな経験もあったそうだ。

「この映画は日中合作で、真田広之さんが社内試写の時にいらしてました。真田さんが演じる人物の『馬鹿者』というセリフは、どうも軽すぎる感じがするとおっしゃったので、では『愚か者』はどうでしょう?とご提案しました。さらに『おろか』を平仮名にするか漢字にするかも考えましたね」


こうして字幕翻訳の仕事が増えていった。

森川和代さんの夫・森川忍さんによる伝記
『森川和代が生きた旧「満州」、その時代―
革命と戦火を駆け抜けた青春期』
(新風舎)が出版されている。

「すべては通訳から始まった」という樋口さんの恩師は、森川和代さんだ。

樋口さんが中国留学から帰って教師をした母校・中国語研修学校の同僚になるが、「私の心の中では一番に『先生』と呼びたい尊敬する大先輩」だという。

森川さんの父親・和雄さんは東映の美術部員で、中国に渡り満映(満州映画協会)に関わる。娘である和代さんは、敗戦後、日本に引き揚げず中国に残り、中国人民解放軍に看護師として従軍し、上海アニメ製作所でも勤務したのち、1953年に帰国した。


「すごくおおらかで、サバサバしていて、テキパキしていて、他人を拒まない寛容さがある方です。私をいろいろな所に連れていってくださいました。
80年代に岩波ホールでロングランした『芙蓉鎮』の大御所、謝晋(シエ・ジン)監督が後に『最後の貴族』の宣伝で来日したとき、森川先生はご自分が監督の通訳を担当され、まだヒヨッコ通訳の私を主演女優の潘虹(パン・ホン)担当にと紹介してくださいました。私があやふやな通訳をしたとき、直接には違いますと言わず、『そこはこういう意味かもしれないわね』とさりげなく教えてくださいました。
この写真に一緒に写っているワン・ハオウェイ監督も、森川先生と同じような寛容な女性でした。当時の岩波ホールの支配人・高野悦子さんと親しくしてらして、ワン監督の随行通訳で、お二人の映画談義を聞く幸運にも恵まれました」

樋口さんが字幕の下訳をした映画『香雪』のワン・ハオウェイ監督、
通訳の大先輩:森川和代先生と。埼玉県が当時開催していた「環太平洋映画祭」で。
左からワン・ハオウェイ監督、森川和代先生、樋口裕子さん。
(写真提供:樋口裕子)

中国語ならではの難しさと、大事にしていること

中国語は、もちろん一つではない。映画字幕においては、中国大陸の標準語は北京語マンダリン、香港映画は基本的に広東語、台湾映画は北京語と台湾語が使われている。

「ウォン・カーウァイ監督が、上海語の映画を撮影しているそうです。監督が上海の出身で物語の舞台も上海なので、上海出身者を起用しているようです。こういう場合は、台本が北京語であっても、上海語を理解する人による監修が必要になりますね。
今の台湾の人は北京語で話しますし、学校の『国語』も北京語です。それと別に台湾語があり、お年寄り世代は台湾語、北京語とミックスして生活が成り立っています。台湾語オンリーの映画が作られたのは1970年代まででしたが、侯孝賢監督は、台湾語しか喋れないような人物には、北京語を喋らせないというこだわりを持っていました」


侯孝賢(ホウ・シャオシェン)監督は、この連載の小故事1末尾のコラムで紹介した本『侯孝賢と私の台湾ニューシネマ』に登場する監督である。

「どんな映画でもダイアローグリスト(台本)がありますが、映画では台湾語を喋っていても、台本は北京語で書かれています。ですから、わたしも、重要なところは、台湾語のわかる友人に監修をしてもらいます。
広東語が出てきたら、それができる翻訳者がやったほうがいいですし、四川人には四川人の言い方があるでしょう。広くて複雑な政治背景を抱えている中国ですから、現地の人のニュアンスを大事にしなければいけないと、強く感じています」


樋口さんは、自分でもたくさんの映画監修をしてきたからこそ、『大地と白い雲』(2021.8月公開)の字幕翻訳にあたっては、モンゴル語専門家に監修に入ってもらった。(小故事1参照

「こんな偉そうなことを私が言っていいのかと思いますが、字幕翻訳で大事なのは、何と言っても、その作品の本質を理解することです。つまり、監督が何を表現したいのか、誤読をしないよう、観客に誤ったメッセージを字幕で伝えないように判断することが大事です。
たとえば、1つのセリフに3つの要素があって、しかし文字数が足りなくて2つにせざるをえないときに、省くもの・残すものを適切に判断し、前後の流れをよく考える。そこを間違うと、映画全体の流れが変わってしまうこともあります」


中国語から離れ、いったん距離をもって日本語を探し、流れのいい字幕をつけることを心がけている。

翻訳には、大まかに二つのやり方がある、と樋口さんは考えている。

「敢えて分けると、ひとつは、翻訳する元の言語の文章表現を残すために、わざと固く、日本語らしくない言葉で異質感を残す方法。
もうひとつは、日本語的な言い方にして翻訳する方法。
魯迅の『故郷』を例にすると、藤井省三さんと竹内好さんの違いですね。
私は、字幕では後者の翻訳を心がけています。心がけるだけで、できているかは別ですが(笑)」


また、「漢字」という共通点ゆえの難しさもある。

樋口さんは、早稲田大学で中国語の字幕翻訳について講義をしているが、学生たちには「文字のお引越しはやめましょうね」といつも言っている。漢字に引っ張られ、漢字にテニヲハをつけただけで、翻訳した気分になりがちなのだという。

樋口さんに苦労した字幕翻訳の実例を聞いてみた。

「直訳すると、『なんの権利があって私たちの生活を邪魔するの?』という意味を、すごい早口でまくしたてるセリフです。夫の浮気相手である同性の恋人に怒鳴り込んだ時の妻のセリフで、1秒しかありません。
考えたあげく、『泥棒猫!』と訳しました。
映像では、いっぱい喋っているのに、三文字だけではおかしいのですが、文字数が多すぎたら読めないですからね。そこが、吹き替え翻訳と字幕翻訳との決定的な違いです。
文字制限は大変ですが、短い中で、リズムを作っていくのが面白いところです。和歌や俳句につながるものがあります」

「チャン・ロンジー監督の『光にふれる』という台湾映画も好きな1本です。
心がきれいになるような映画で、主人公の全盲のピアニストは、公開来日で通訳をした私の声を、
数年後も覚えてくれていて感激しました。」(樋口さん談)

子育てもしながら、映画に絞りつつ多様なスタイルで仕事をする

お子さんが生まれてから、樋口さんは出張のある通訳の仕事を減らしていった。とはいえ、子育ては、夫と二人でできたので、負担は感じなかったという。夫もフリーランスの物書きだったからだ。

「生後6か月から、保育園に預かってもらいました。朝の送りは夫で、迎えは私が多かったかな。5歳くらいの時、保育園で『将来何になりたいか』という質問に、『早く定年になりたい』と子どもが保育士さんに答えたそうです(笑)。集団生活で疲れていたのかな、と思いましたね。
私自身は集団が嫌いで保育園を中退して、おばあちゃんと畑に行ってマイペースで暮らしていたのに、申し訳ない気分になりましたが。かといって保育園に行くのを嫌がるわけでもありませんでした。
修羅場のようなものは、そんなになかったとはいえ、映画上映では締め切りは命です。これだけは絶対に落とせないので、設定された2日前には必ず仕上げる予定を組みました。子どもが熱を出したら終わりですから……というと立派そうだけど、お仕事がこなくなっちゃうからね(笑)」


そんな子育て時代も懐かしい思い出になりつつある。すでに社会人になった息子は、たまに戻ってくると、父親の手料理と、母親の淹れる紅茶を楽しんでいるそうだ。

演劇分野の通訳も手がけた。1990年代には、初の日中合作演劇(新国立劇場)で、北京の演出家の通訳(兼演出助手)を担当した。

次第に映画関係に絞っていったが、仕事の形態は字幕翻訳だけに限定しなかった。

映画祭での通訳も続け、書籍の翻訳や企画、執筆、インタビューなど、好きな映画監督や作品に集中しながら、多様な表現スタイルで仕事をしている。

「通訳をして、知らない方に出会い、知っていく、理解していく過程が好きなんですね。結果として、ゴチャゴチャですよね」


李香蘭(山口淑子)にインタビューできたのも、思い出深い出来事だ。

「日中テレビ祭で上海から中国人作家が来た時、山口淑子先生も呼ぼうとなって、一度、通訳をさせてもらいました。北京語も上手で、とても美しい方でした。

樋口さんもインタビューをする前に熟読した
『李香蘭 私の半生』
(山口淑子、藤原作弥 著、新潮社)

いつかお話を聞きたいと思い、NHKの語学番組テキスト『テレビ中国語』の『私と中国』*という企画で、インタビューを受けていただけないですか、と秘書の方を通じてお手紙を送ってみたんです。すると、しばらくして、留守の時に自宅にお電話がありました。ドキドキしながら折り返し電話をしたところ、わたしのエッセイをお読みになって『あなたのお書きになった錦江茶室(上海の錦江飯店の前身)、懐かしいわ』とおっしゃってくださり、その後、インタビューが実現しました」

*「私と中国」NHKテレビ中国語テキストに連載、2001年。著名人へのインタビュー:李香蘭、蓮舫、羽仁未央など


一つの作品や監督を通じて、字幕翻訳や通訳、執筆の仕事をしていく。中国語を使い、大好きな映画と中国に携わる仕事スタイルは、すっきりと筋が通っている。

(続く)

樋口裕子さんが編集・執筆・翻訳した本
『懐旧〈レトロ〉的中国を歩く~幻の胡同・夢の洋館』
『懐旧〈レトロ〉的中国を歩く~幻の胡同・夢の洋館』
樋口裕子著、NHK出版、2002年刊行
右は表紙、左は第1章とびら(北京の胡同の路地裏)

1998年早春から2002年の夏まで、樋口さんが旅した北京、上海、杭州・蘇州、江南の旅エッセイ(NHKラジオ「中国語講座」テキスト連載)と写真をまとめた1冊。その土地の美しい風景、人々の暮らしが描かれている。巻頭のカラー写真に写った人々の表情もいい。しかし圧巻は、美味しいものを求めての食べ歩きぶりと、疲れを癒す歴史ある快適なホテルの様子かも。この時すでに、魯迅や老舎、芥川龍之介たちが通ったお店は跡形もなく消えていた。

李香蘭が「あなたのお書きになった錦江茶室、懐かしいわ」と話した樋口さんのエッセイは、本書の第2章上海に掲載されている。

さらにこの旅から20年、中国は激変した。樋口さんが大好きな北京の胡同(フートン)を始め、もはや失われてしまった景色が記録されている。

大橋由香子(おおはし ゆかこ) プロフィール
フリーライター・編集者。月刊「翻訳の世界」(バベル・プレス)やムック「翻訳事典」(アルク)等で翻訳者へのインタビュー取材を手がけてきた。光文社古典新訳文庫の創設時スタッフでもある。著書『同時通訳者 鳥飼玖美子』『生命科学者 中村桂子』(理論社)『満心愛の人 益富鶯子と古謝トヨ子:フィリピン引き揚げ孤児と育ての親』(インパクト出版会)『異文化から学ぶ文章表現塾』(新水社、共著)ほか。