2023.09.29

「字幕マジックの女たち 映像×多言語×翻訳」 Vol.6 松岡環さん〈ヒンディー語〉(インド映画)4

「字幕マジックの女たち」ではこれまで、ドイツ語の吉川美奈子さん、スペイン語の比嘉世津子さん、韓国語の福留友子さん、イタリア語の吉岡芳子さん、中国語の樋口裕子さんにインタビューしてきました。Vol.6 の松岡環さんは、日本にインド映画を紹介してきた先駆者のおひとりです。

インド映画の日本での受容は、1998年公開の『ムトゥ 踊るマハラジャ』(1995)で一気にファンが増え、その後2013年の『きっと、うまくいく』(2009)と2018年の『バーフバリ王の凱旋』(2017)、そして『RRR』(2021)大ヒットまでには紆余曲折がありました。

バーグ4では、松岡さんが1980年代からインド映画の普及のためになさったこと、インド関連の映画祭と時代背景などをお伝えします。バーグ1に登場した父親の知的好奇心や行動力、母親の映画好きが松岡環さんに受けつがれ、さらに発展していく様子であり、インド映画がメジャーになるまでの日本の映画カルチャーの歴史とも重なっています。

松岡環さんプロフィール

松岡環さん

まつおか たまき  字幕翻訳者、アジア映画研究者。1976年からインド映画の紹介と研究を開始。字幕翻訳を手がけた作品は『ムトゥ 踊るマハラジャ』『きっと、うまくいく』『パッドマン 5億人の女性を救った男』ほか多数。著書に『アジア・映画の都』(めこん、1997)『レスリー・チャンの香港』(平凡社,2008)、共編著に松岡環・高倉嘉男著、夏目深雪編著『新たなるインド映画の世界』(PICK UP PRESS、2021)ほか。

松岡環さんの著書

『アジア・映画の都 香港〜インド・ムービーロード』松岡環著
『アジア・映画の都 香港〜インド・ムービーロード』
松岡環著、めこん、1997年

国民国家成立期に出現した、インド、シンガポール、香港、フィリピン等を結ぶグローバルな映画製作の実態を検証し、アジア映画交流史の一側面を解き明かした1冊。

〈構成・文 大橋由香子〉

〈भाग(バーグ)4〉

映画祭、ぴあフィルムフェスティバル、そして映画館上映へ

インド映画をみんなに観てほしい、日本で観られるようにしたい!

そう念じた環は、自宅でのビデオ上映会も始めた。ヒンディー語のビデオで、字幕はなく、環が香港まで買いに行って入手したものを、簡単なストーリー・パンフを作って上映した。

「映画には版権があって、勝手に上映してはいけないことはかすかに知っていたので、自宅で友だちと鑑賞するということなら大丈夫だろうと考えて、定員5名で始めました。テレビ画面なので、部屋の電気はつけたままにできるため、画面を見る合間にストーリー・パンフを読んでもらって、筋が追えるようにしたのです」

映画館の暗闇での鑑賞とは異なるが、映画館でも上映されず、レンタルビデオ店にもインド映画がない当時、貴重な機会だった。

そういえば父の松岡秀夫も、近所の子どもたちを集めてクリスマス会をしたり、幻燈機(スライド・プロジェクター)を買い込んで月1回、「笠地蔵」などの昔話を2~3本上映する集まりを開いたりしていた。子どもだった環にとって、幻燈はまるで映画のようだった。

父の幻燈機がビデオとテレビに、昔話がインド映画になったかのようだ。

クリスマス会には長靴入りのお菓子を子どもたちにプレゼントし、俳句会を自宅で開いては毎月和菓子を、新年にはお赤飯とおせち料理の二段重を母に作らせて振る舞ったりしていた父。母の阿やは「物入りや」と嘆きながらも、父の道楽と言っていい多趣味に付き合っていた。

そして環は、父の多趣味や研究熱心さも引きついだ。

友人の結婚式で、習いたてのインド舞踊を披露
(写真提供:松岡環)

「インド映画を理解するためには、インド舞踊と音楽も学ばないといけないと思って、榊原舞踊学園に通いました。御徒町にあって、バリ島やインドで学んできた先生のアジア舞踊クラスに入り、3、4年やったかな。
 そのあとは、東インドのベンガル地方で歌われているタゴール・ソングに合わせたタゴール・ダンスも習いました。これは、ノーベル賞を受賞した文学者ラビンドラナート・タゴールが自分の詩に曲を付けたタゴール・ソングに、舞踊の要素も持たせようとしたもので、マニプール州のマニプリダンスと、ケーララ州のカタカリダンスの先生を呼んで創作してもらったものです。かん・みな先生という上手な踊り手に教えていただきました。
 子ども時代の日本舞踊もそうでしたが、アジアのダンスでも、なぜか私は男役なんですよ。
 音楽は、シタールという弦楽器を3年くらいやりましたが、難しくて全然ものになりませんでした。でも、インドの古典音楽にはしっかりした理論があって、北インドと南インドでは違うことなど、シタールをやってみてわかったことが多かったです」

あらゆる道は、インド映画の理解へと通じるのだ。

左/榊原舞踊団発表会、バリ舞踊(左が環) 右/榊原舞踊団発表会、インドのマニプリ舞踊(中央)
(写真提供:松岡環)
左/タゴール・ダンス公演「チットランゴダ」白い衣装が環、相手役は、かん・みな先生
(写真提供:松岡環)
1980年1月大スター、アミターブ・バッチャンとそのお父様の自宅の庭にて
(写真提供:松岡環)

さまざまな映画祭を手伝い主催するなかで、インド映画を広めていく

1982年、「国際交流基金映画祭 南アジアの名作を求めて」が開かれた。国際交流基金10周年を記念するイベントで、映画評論家の佐藤忠男らが、フィリピン、タイ、インドネシア、インド、スリランカ5カ国の映画を集め、全11本を上映した。 東京を皮切りに全国各地を巡回上映して、5万人を動員。環はこの映画祭で、字幕の下訳やパンフレット作りを手伝った。手伝うことになったきっかけは今では思い出せないが、勤務先の東京外大AA研と国際交流基金は仕事上の関係があったので、先生の誰かが紹介してくれたのかもしれない。

パンフレット提供:松岡環

「この映画祭がすごい人気だったので、今度はインド映画だけの映画祭をやろうと思ったんです。当時グループ現代という映像プロダクションの事務所を借りて、インド映画のビデオ上映をやったりしていたので、代表の小泉修吉さんが声を掛けて下さり、100万円ずつ私とグループ現代が出し合うことにして、1983年にインド映画祭実行委員会が発足しました。
 同年9月に開催した映画祭での上映作品は、ニューシネマ運動の旗手だったシャーム・ベネガル監督の『芽ばえ』(1974)、良質な娯楽作品の『ままごとの家』(1977)、そして佐藤忠男さんのお気に入り作品『魔法使いのおじいさん』(1978)の監督アラヴィンダンの『サーカス』(1978)の3本で、これが最初のインド映画祭でした」

1982年バングラデシュで船旅を経験 (写真提供:松岡環)
1982年国際交流基金映画祭でアラヴィンダン監督と(写真提供:松岡環)

インド映画祭実行委員長は映画批評家の登川直樹、環は事務局長をつとめた。そして、この映画祭で、環は他の実行委メンバーと共に、初めて字幕翻訳を手がけた。

それが『ままごとの家』だった。

「結婚まぢかの若者が、アパート詐欺にあうという娯楽映画です。大都市ボンベイ(現ムンバイ)の住宅問題などの現実も描いています。字幕は共同作業という感じで完成させました」

2年後の1985年には、インド大使館で協力してくれる人が現れ、英語字幕付きのフィルムを貸してくれることになった。そこで「第2回インド映画・春/秋」をサブタイトルにして、「インド映画スーパーバザール」を4月と10月に開催した。

(パンフレット提供:松岡環)

パンフレットの記事や資料を見ると、日本での映画祭と前後して、1982年から、毎年1月に開催されるインド国際映画祭に通い始めた環の知識の増加がよくわかる。インドで映画を観て、監督や製作スタッフを取材してきた蓄積が生かされている。

こうして、AA研で仕事をしながら、映画祭の企画運営、自宅等でのビデオ上映会、情報誌(ミニコミ、今の言葉ではzine)発行を続けてきた。

大インド映画祭1988パンフレット
(パンフレット提供:松岡環)

1988年には、インド政府と日本政府が共催する「インド祭」が開かれ、その中で「ぴあ」が担当となった「大インド映画祭」が開かれた。4月22日から27日まで東京・有楽町朝日ホールで、4月30日から5月15日までバウスシアター(吉祥寺)での上映で、その後全国を巡回した。1930年代から1980年代に至るインド各地の作品25本が集められ、一挙上映されたが、良質の紙が使われた厚めのパンフレット冒頭には、インド首相・ラジブ・ガンジーと、内閣総理大臣・竹下登の写真が並んでいる。

「インド側は最初、100本やりましょう、と言っていたのが、50本になり、最終的に25本になりました(笑)。でもお金は、ぴあが呼びかけて企業も出してくれるし、それまでの手弁当の映画祭とは大違い。文化を育てることに理解のある企業も増えていました。映画の選定から始まって、インド映画祭実行委員会も全面協力しました。インド外務省や在日インド大使館など、お役人との交渉は大変でしたけど」

環は、日本語字幕制作スタッフのディレクターとカタログの執筆・監修を担った。上映した25作品のストーリーと解説、監督のプロフィール、インド映画をめぐる「はみだしコラム」などの執筆に、これまでの経験と知識が発揮された。

のちに、環も執筆者になりインド映画紹介の単行本がいくつか出版されていくが、その原型は、こうしたインド映画祭のプログラムだったと言えるだろう。

インド国際映画祭でアラヴィンダン監督&俳優ゴーピーと
(1980年代半ば頃)(写真提供:松岡環)
1988年「インド祭」の開会式会場前で (写真提供:松岡環)

「その当時、ぴあは『ぴあフィルムフェスティバル(PFF)』で毎年1本ずつインド映画を上映してくれるようになっていたんです。『大インド映画祭』の時は、前々年1986年9月にはぴあの矢内廣社長らが、そして前年1987年1月にはPFFのディレクター日比野幸子さんがインドを訪問して下さり、友好関係を築いてからの実施だったので、細部ではいろいろ大変でしたが、大元のところではスムーズに事が運び、成功した映画祭となりました」

矢内社長や日比野ディレクターのインド訪問には、環も同行した。

こうした忙しい日々のなか、環は昔からのヒンディー語仲間・Kと再婚していた。妊娠と流産も経験した。

「大変な思いもしましたが、夫はカー・クーラーを作る会社に勤務しており、インドや中国、インドネシアなどへの赴任や長期出張も多かったので、私は自由に活動できて助かりました。
 1995年には、道路拡張で土地が買い上げられたのをきっかけに、自宅をビルにして、1階に「スペース・アジア」という小さな空間を設置してもらいました。これで、インド映画の上映会もできるようになったんです」

レスリー・チャンに惹かれて香港留学、そして『ムトゥ 踊るマハラジャ』の大ヒット

1980年代半ばから、環は香港映画にも傾倒していく。そして、87年にたまたま香港で観た映画『チャイニーズ・ゴースト・ストーリー』(1987)のレスリー・チャンとの出会いで、一気に夢中になった。

「1980年代半ばになるまで、インド本国では、インド映画のビデオは入手できず、海外でしか手に入らなかったんです。それで、インド旅行の帰りに香港に寄ったり、別途行ったりしては、インド映画のビデオを買って、自宅で上映会をしていたわけです。もちろん香港では地元の映画も観ていましたが、87年の訪問時にレスリー・チャンに出会ったあとは、もっと頻繁に香港に行くようになり、広東語も習い始めました。そのうち、香港に留学したいとまで考えるようになって、台湾やシンガポールの映画にも興味を持ったので、名刺の肩書きに『シネマ・アジア代表』というのをつけ加え、中国語圏映画についても書いたり話したりするようになりました」

AA研に勤務していた頃の東京外大職員ソフトボール大会(1980年代半ば)
(写真提供:松岡環)

やりたいことが次々に出てくるので、公務員生活は、年金受給資格ができる20年間でやめることにして、1992年末でAA研を退職。そして、1993年1月から4月、香港中文大学の語学学校に留学し、広東語中級を修める。

また、AA研退職前に、トヨタ財団の研究募集に応募して、見事に採用された。その研究費のおかげで、香港留学後は、アジア各国を調査で回ることができ、その成果を、1997年出版の『アジア・映画の都 香港〜インド・ムービーロード』(めこん)にまとめることができた。(冒頭のプロフィールの下「松岡環さんの著書」参照)

なお、インド映画の現地版ビデオは、1990年前後から日本でも観られるようになる。それは、出稼ぎ労働者としてインドやバングラデシュなどから日本に来ている人たちのために、日本にその人たち向けのビデオレンタル店ができ、扱うようになったからだ。日本語字幕はもちろん、英語字幕もついていないが、面白いとレンタルする日本人も現れ、インド映画ファンは少しずつ増えていった。

そんな時、新日本映画社が、1997年に「43年ぶりのインド娯楽映画公開」と銘打って、『ラジュー出世する』(1992)を公開することになり、環は字幕を担当する。(『ラジュー出世する』については、バーグ3末尾コラムも参照

「日本には現地の言語がわかる人間などいないと思われていたのか、シナリオも送られてきません。耳から聞いただけでセリフを起こさなければならず、スポッティング(字幕をつけるセリフの時間をはかる作業)を長めにしてしまったり……、今から思えば冷や汗ものです。
 先日配信で放映されるので、字幕をあらためてチェックしていたら、私の原稿は公開前に新日本映画社の方がだいぶ修正して下さっていました。映画の字幕は、本当に翻訳者だけの仕事ではなく、配給会社の方たちとの共同作業なんです」


そして次に字幕を担当したインド映画が、翌1998年公開の『ムトゥ 踊るマハラジャ』(1995)である。

田舎を舞台にした素朴なヒーローアクション、歌と踊りがなんとも心地よい。

「香港映画などに精通した江戸木純さんが、たまたまシンガポールで見つけて買い付けたのですが、あれほどヒットするとは思いませんでした。最初、江戸木さんは、インドの映画館のように、“この映画は、観ながら拍手したり口笛を吹いてもかまいません”という鑑賞方法をチラシなどに書いて観客に提示したんです。ところが、シネマライズで上映したときに観客から、『映画というのは静かに見るものだ』とたしなめられたりしたそうです。
 インドの映画館では、私が最初に行った時に感心した拍手や口笛だけでなく、時にはかけ声もよく起きました。また、その後南インドの映画館では、ソング&ダンスシーンになると通路で踊る人たちも出現するようになっていました。当時の日本では考えられないですよね。
 岩波ホールで『サラーム・ボンベイ』を見ていたとき、エンドロールになってから若い女性二人が小さな声で少し喋っただけでも、前の席のおじさんが振り向いて『シーッ』と言う、というような雰囲気でしたし。映画は静かに観るべき、という不文律があるんですね」

マレーシアのジャミール・スロン監督と、妻で女優・監督のロスナニさんと。
2005年4月3日ご自宅で。(写真提供:松岡環)

さて、1998年の『ムトゥ 踊るマハラジャ』公開によって一気にインド映画ブームが到来すると思いきや、不幸な出来事が起きる。

ある作品の購入をめぐって、行き違いがあり、権利保持者が2社になってしまう事態が起きた。しかも、一方の権利保持者が映画を公開しようとした前日に、別の権利保持者がビデオを売り出してしまったのである。

「これによって、インド映画は権利関係がグチャグチャらしい、配給するのは気をつけたほうがいい、という噂が広まってしまいました。さらにその後も、東京国際映画祭で上映予定のある映画をめぐって、その映画の権利は自分が持ってると言い出す会社が出てきたりします。これは、ヒンディー語版とタミル語版の権利が別々に売られていたことから生じたトラブルだったのですが、これでまた配給会社はインド映画に手を出さなくなってしまいました。それ以降、インド映画はほとんど公開されない不遇の時代が続きました」

2010年代に入って、旦匡子さんという映画コーディネイターが、日活の重役をインドに連れて行くなどしてインド映画の魅力を伝えたことで、日活が4本の作品を配給してくれ、『きっとうまくいく』(2009)も上映された。(バーグ1で紹介したように、環が字幕翻訳をした作品。)この時、日活が配給を手がけてくれたことで、信頼が得られて、インド映画は日本で息を吹き返したと環は見ている。

『カンフーハッスル』(2004)などのスター梁小龍(ブルース・リャン)さんと。
2009年3月31日、香港国際映画 祭でのイベントの後、帰路の路線バスで偶然一緒になって話しかけたもの。手の拳ダコがすごい!
(写真提供:松岡環)

そして、『マダム・イン・ニューヨーク』(2012)など、日本でのヒット作も少しずつ増えたところでの昨今のインド映画ブームにつながる。

AA研を退職し、アジアを旅する環のその後の暮らしぶりを紹介しよう。

2000年、Kと離婚し、慰謝料で中古マンションを購入・リフォームして、新しい生活をスタートさせた。1994年以降は複数の大学で非常勤講師をしていたので、その収入と、字幕翻訳と原稿執筆で生活してきた。

「通訳に関しては、簡単な英語を通訳したことは1、2度あるのですが、通訳のスキルは翻訳とはまったく違うので、私は役に立たないため、お断りしています。
 幼いときから、父親の西日本アクセントと西播語彙、母親の関西アクセントと大阪弁、さらには姫路の播州弁を聞いて育ってきたので、自分は日本語バイリンガルみたいなところがあると思っていました。そのせいか、とにかく言語を学ぶのが大好きなんですね。
 これまで勉強した言語を挙げてみると、英語、ヒンディー語、ロシア語、ベンガル語、ペルシア語、アラビア語、トルコ語、タイ語、インドネシア語、広東語、韓国語です。まともに話せるのは、ヒンディー語と英語、広東語ぐらいですが、何となくわかったり、単語をいくつか知っていたり、辞書が引けたりするので、いろんなシーンで他の言語も役に立ってくれています」

コロナ禍で久しく訪れていたなかったインドを環は2023年3月に訪れ、8月から9月にかけては、香港、シンガポール、タイを旅してきた。インド映画における字幕翻訳の難しさとともに、次回、番外編で語っていただく予定だ。

(続く)

松岡環さんが翻訳したオススメ・インド映画

〈4〉『ジャッリカットゥ 牛の怒り』

(原題『Jallikattu』マラヤーラム語/2019、日本公開2021年7月17日)


©2019 Jallikattu 配給:ダゲレオ出版 DVD、ブルーレイ、配信にて販売中

舞台は、南インドのケーララ州奥地のジャングル。さえない肉屋の店員アントニが店主ヴァルキと共に水牛を屠ろうとしたところ、危険を察知した水牛が脱走し暴走機関車と化す。商店街を破壊し、タピオカ畑を踏み荒す水牛に、村人たちはパニックになる。アントニは恋心を寄せるソフィに牛を捕まえる勇姿を見せようと必死。密売の罪で村を追われた荒くれ者クッタッチャンが呼び戻されるが、彼はかつてソフィをめぐりアントニといがみ合っていた。複雑な人間関係、人々の欲望が絡み合い、牛追い騒動は狂気に満ちた争いになる。

リジョー・ジョーズ・ペッリシェーリ監督は、奇想天外なアイディアでインドで人気の監督。アカデミー賞国際長編映画賞インド代表作品に選ばれた、異色のスリラー・パニック映画である


『ジャッリカットゥ 牛の怒り』公式ウェブサイト


映画評論・情報サイト BANGER!!!「食欲、性欲、金銭欲 超クレイジーな牛追い地獄!『ジャッリカットゥ 牛の怒り』は異才監督の異次元映画!!」松岡環 (2021.07.17)

インド映画について最新ミニ情報

10月20日(金)より「熱風!!南インド映画の世界」と題して、4作品上映。 新宿ピカデリーほかにて全国にて順次開催。

「熱風!!南インド映画の世界」公式ウェブサイト

〈上映される4作品〉
『ヤマドンガ』

2007年/インド/テルグ語/179分/原題:Yamadonga/監督:S.S.ラージャマウリ


『マガディーラ 勇者転生<完全版>』

2009年/インド/テルグ語/178分/原題:Magadheera/監督:S.S.ラージャマウリ


『サイラー ナラシムハー・レッディ 偉大なる反逆者』

2019年/インド/テルグ語/170分/原題:Sye Raa Narasimha Reddy/監督:スレーンダル・レッディ


『プシュパ 覚醒』

2021年/インド/テルグ語/179分/原題:Pushpa: The Rise/監督:スクマール

大橋由香子(おおはし ゆかこ) プロフィール
フリーライター・編集者。月刊「翻訳の世界」(バベル・プレス)やムック「翻訳事典」(アルク)等で翻訳者へのインタビュー取材を手がけてきた。光文社古典新訳文庫の創設時スタッフでもある。著書『同時通訳者 鳥飼玖美子』『生命科学者 中村桂子』(理論社)『満心愛の人 益富鶯子と古謝トヨ子:フィリピン引き揚げ孤児と育ての親』(インパクト出版会)『異文化から学ぶ文章表現塾』(新水社、共著)ほか。