2023年11月14日、ついに韓国文学が光文社古典新訳文庫のラインナップに追加されます! 記念すべきその一冊は、韓国文学史上最も伝説に満ちた作家、李箱(イサン)の作品集です。
李箱は韓国で最も権威ある文学賞に名を冠される作家ですが、その作品は実験的で、李箱のような不可思議な作品を残した朝鮮の文学者はいないと言われます。その文体には朝鮮近代文学のきわめて早い歩みのスピード感が染みつき、同時に先行文学からの影響や李箱独自の言語感覚によって、新しい言葉と新しい文学が生まれました。
そんな李箱作品の奥深さをより味わうために、訳者の斎藤真理子さんに「訳者まえがき」を書いていただきました。ここに再構成して、公開いたします。
一九三四年七月二十四日。当時日本の植民地であった朝鮮で、『朝鮮中央日報』という新聞に一編の詩が掲載された。本書一九〜二二頁に収録された、「十三人の子供が道路を疾走する」という一節で始まる作品である。タイトルは「烏瞰図 詩第一号」とされ、以後、三十回にわたって連載が続く予定だった。
作者の名は「 李 箱 」。本名は 金 海卿 といい、李箱はペンネームである。そもそも、この「箱」という名からして異彩を放ちすぎていた。「箱」という漢字は日本語の場合と同様、即物的に「ハコ」でしかなく、人名にはまず使われない。人を食ったような変な名前である。
このとき李箱は二十四歳で、無名の新人だった。同じ文学者グループに属する先輩作家、 李 泰俊 がこの新聞社の記者だったために連載の機会を得たのだが、実は「烏瞰図 詩第一号」は、掲載前から社内で大いに物議をかもしていた。
まず問題視されたのはタイトルだった。校正部から「烏瞰図などという言葉はない」と突き返されたのである。これは「鳥瞰図」の「鳥」を「烏 」に置き換えた李箱の造語であり、文芸誌ではなく新聞に載せる文学作品としては、あまりに破格だった。
ようやく校正部を説得した李泰俊は、次に「これが詩といえるのか」という反対意見に遭遇する。デスクや編集局長を説き伏せて掲載にこぎつけたのはいいが、二回、三回と連載が進むにつれて、新聞社には「頭の変な奴のたわごとを載せるのか」といった激しい抗議の投書が殺到したという。本書二三五頁の「詩第四号」を見れば想像がつくかもしれない。そのため連載は、十五回で打ち切られてしまった。
李箱はこのように、称賛とは縁のないところからスタートした。そして、この事件からわずか四年たらずで、東京で客死してしまった。彼の創作活動は七年間にすぎず、特に晩年に集中していた。生前に一冊の本も出版されず、文学者仲間と少数の読者に 知られているだけだった。李箱自身、生前に「李箱の読者などというものが、野球チーム一つ作れるほどにも存在するのか」と冗談めかして書いたことがあったが、その通りといってもおかしくなかったのである。
しかし本人の死後、とりわけ、悲惨な朝鮮戦争が休戦を迎えた後の虚無的な世相の中で、李箱の作品は熱狂的な人気を博した。その人気は一過性のものに終わらず、現在、韓国で最も権威のある文学賞は、一九七七年に創設された「李箱文学賞」である。
李箱の人生と文学活動については解説でさらに詳しく述べるが、「韓国併合」が行われた一九一〇年に誕生した彼は、「植民地の長男」と呼ばれたこともある。確かに、李箱の人生は日本統治時代にすっぽりと収まる。「ソウル」ではなく「京城」と呼ばれることになった町に生まれ、日本式の教育を受け、日本語を所与のものとして使いこなす世代として成長した。現在のソウル大学工学部建築科の前身である京城高等工業学校建築科で建築を学び、朝鮮総督府で働く知的エリートとなった。朝鮮語と日本語の両方で、抒情を排した難解なモダニズム詩を書き、そして横光利一や芥川龍之介の影響がうかがえる都市小説と、ほろりとするような随筆や童話を朝鮮語で書いた。絵が巧みで、自分や仲間の小説の挿画を描いたり、本の装丁を手がけたりもした。喫茶店を経営したこともあった。
李箱は京城のモダンボーイそのものだった。そして、人生に行き詰まったかのように東京にやってきて、思いもよらない死に方をした。一人で飲んでいたところを見咎 みとがめられ、警察に連行され、一ヶ月あまり勾留されたために結核が悪化し、釈放後、間もなく東大病院で死を迎えたのである。日中戦争に先立つこと三ヶ月、一九三七年四月のことだった。まだ二十七歳だった。
本書には、この特異な作家の才能をまんべんなく味わえるよう、詩、小説、随筆、紀行、童話、書簡など多様なスタイルの文章を収めた。
次に、李箱の文体と翻訳上の工夫についてあらかじめ知っておいていただきたいことを整理しておく。
李箱の文体には、きわめて早い歩みで進んできた朝鮮近代文学のスピード感が染みついている。近代化と植民地化が重なるという特殊な状況の中で、息つく暇もなく奮闘した人たちのスピード感である。
そもそも朝鮮半島において、新しい文学を作る試みは悠長には進まなかった。その困難はまず、新時代の思考を盛る器としての近代言語と、その表記法を作るところから始まった。
朝鮮の知識人にとって、執筆に用いる第一言語は漢文であり、漢文の権威は絶対的なものだった。十五世紀にハングルという優れた文字体系が生まれたが、それはあくまで庶民の文字とされ、文語と口語の間には高い障壁がそびえていたのである。
この障壁を崩す新しい表記体系を模索するために、十九世紀の終わりに漢字とハングルを交ぜて書く「国漢文」が生まれ、次にハングルだけで表記する「純ハングル文」という文体が作られる。その過程は一筋縄ではいかなかった。唯一にして絶対的 だった漢文の権威が失墜した後に、別の権力を持つ日本語が登場したからである。しかも朝鮮語と日本語が文法的には非常によく似ていたことから、困難はいっそう複雑化した。その途上で純正な漢文を第一の書き言葉として成長した知識人・尹致昊は、ハングルで自分の心情を書き表そうと努力してもうまくいかず、英語や日本語で日記を書いたことがあった。また、朝鮮文壇において短編小説を確立させたといわれる作家・金東仁は、日本経由で入ってきた「小説」なるものを書くにあたって、「構想は日本語で練るからいいが、それを言文一致の朝鮮語で書き表そうとすると適切な用語がない」と悩んだ(二つの言語の間での葛藤は、日本からの解放後も、後続世代の中で、形を変えて続いた)。
こうした奮闘の中から言文一致の近代小説文体を完成させたのは、一九一七年に新聞に長編『無情』を連載した李光洙だった。
二葉亭四迷が言文一致体を作り出すために、ロシア語翻訳の経験も参照しながら苦労して『浮雲』を書き上げたことはよく知られているが、『浮雲』の発表は一八八七年だから、『無情』との間には約三十年の開きがある。
しかし、その後がめっぽう早かった。『無情』以後の三十年について、やはり李箱の文学仲間だった詩人・評論家の金起林は一九四八年に、「朝鮮文学への反省」とい う文章で次のように書いている。「小説においては人道主義・自然主義・写実主義・傾向文学・印象主義・心理主義、詩においてはロマン主義・象徴主義・社会派・モダニズム……私たちは近年のヨーロッパ文学が体験したこのような内容を、非常にあわただしく消化した状態で、あるいは消化不良の状態で受け入れねばならなかった」(金起林「故 李箱の追憶」青柳優子編訳・著『朝鮮文学の知性 金起林』新幹社)。
李箱もまたこの激しい流れの中にいた。李箱は幼少期に漢文を学び、日本語で高等教育を受け、日本語を経由して大量の西欧文化・思想に接した。彼は日本のモダニズム詩や新感覚派の小説に影響を受けつつ、奇妙な欧文、数式、幾何学図のようなものまで取り混ぜながら自分の文体を作っていった。このように不可思議な作品を残した朝鮮の文学者は他にいなかった。
植民地という、強い負荷がかかった空間で、性急な文学の激流の中にあって、新しい言葉と新しい文学を作ろうともがいた李箱は、常に造成中のトラックを走り続けたトップランナーのようなものである。このトラックは、自前の近代化を阻まれた障害物だらけの滑走路であるとともに、李箱独自の実験場でもあった。
その実験場で、李箱はどのように言葉を用いただろうか。
最初に言っておくと、朝鮮語には、日本語のいわゆる「やまとことば」に該当する固有語と、漢字に由来する漢字語がある。現代の朝鮮半島では、大韓民国においても朝鮮民主主義人民共和国においてもほぼハングルのみの表記が基本となっているため、 固有語と漢字語が区別されづらいが、語彙の中に占める漢字語の割合は非常に高い。李箱の時代には、公的文書や評論などは漢字ハングル交じりの文体で、小説は純ハングル体で書かれることが多かった。
そして、李箱の漢字の用い方は独特だった。彼は執筆活動を始めたころから、「空腹」という漢字の熟語に「ハジ」という日本語のルビを充てるほど融通無碍であったし、日本語で書いた詩の中には「沈黙ヲ如何ニ打撲シテ俺ハ洪水ノヨウニ騒乱スベキカ」といった表現も見える。本書ではこうした、意図的に違和感を持たせた李箱の漢字語の使い方を可能な限り尊重した。
例えば「翼」の三八頁の、「僕はまず、僕の妻の職業が何であるのか知りたくて、その研究に着手したが」という部分の原文は、漢字を用いずハングルだけで表記されているが、あえて漢字交じり文にしてみると
나는 于先 내 안해의 職業이
무엇인지를 研究하기에 着手하였으나
となる。「于先」は日本にない言葉なので、漢字を用いず「まず」と訳したが、「職業」「研究」「着手」はそのままである。かつて明治翻訳語と呼ばれる言葉が朝鮮語に大量に流入したこともあって、朝鮮語と日本語で共通に用いられる漢字熟語は多く、李箱が用いた漢字語のほとんどはそのまま今日の日本でも通じる。例外的に、日本では使われていない難読漢字や、どうしても意味が通じそうにない場合は言い換えを行った。
また、本書に収められた作品には多くの外来語(日本でいうカタカナ語)が出てくる。これはすべて李箱自身が用いた外来語だ。例えば二六頁の「感情とは一つのポーズ」の「ポーズ」は、原文では「포ー즈」であり、「pose」を発音したときの音に近い「포즈」(ポジュ)というハングルに、日本語の音引(「ー」)を入れて長音を表現したものだ(現在ではこのように音引を用いることはないが、過渡期にはさまざまな表記法が試みられた)。原文ではさらに、「포ー즈」に傍点を振って、外来語であることを強調している。
他にも「ニコチン」「ディクショナリー」といった名詞から「センシュアル」「パラドックス」「アイロニー」といった概念用語まで幅広く外来語を用いているが、これらはすべて、モダンボーイの李箱が選んだ言葉である。ごく少数の例外を除き、こうした箇所はすべて李箱の意図通りに外来語として、できるだけ原音を活かして表記した。逆にいえば、李箱が朝鮮語の語彙を選んだ箇所に訳者が外来語を充てたケースは一切ない。
また、文中に交じっている「生なま」の日本語にも着目しなくてはならない。つまり、日本語の単語を音写=発音通りにハングルに置き換えた部分である。具体的には「치리가미」 「 마 루 노 우 찌 」 「 마 유 미 (人名)」 といったものだ。これらの言葉は区別する必要があるので、「치리가미」を「塵紙」「ちり紙」などと表記することはせず、「チリガミ」などと、カタカナで表記した上で傍点を振って区別した。
さらに、私信の中では、日本語の平仮名・片仮名がそのまま記されることもあった。二一六頁の金起林への手紙の中の「ガラニモナイ」「コーヒ」などがその例であり、これは「ガラニモナイ」などのようにゴシック体として区別した。
なお本書には、李箱が人生の一時期に書いた日本語の詩も一編収録した(七一頁「線に関する覚書1」)。文字遣いはすべて李箱が記した通りである。植民地という厳しい条件下で、二つの言語を駆使しながら自分の文学を創造した李箱の歓喜と苦闘を感じていただければと思う。