2018.07.25

「字幕マジックの女たち 映像×多言語×翻訳」 Vol.1 吉川美奈子さん〈ドイツ語〉Episode1

古典新訳文庫ブログのインタビュー<女性翻訳家の人生をたずねて>に、新しいシリーズが加わります。新シリーズでは、本という媒体ではなく、<映像>の世界で外国語を日本語に翻訳している女性たちにお話を聞いていきます。そもそも不可能か?とも言われる翻訳を、さらに短い文字制限で日本語にするというマジックへの挑戦者たち。しかも、英語以外の外国語を扱う翻訳者です。

字幕や映像翻訳という仕事の苦労と魅力、その言語との出会い、そして、子どもから大人に成長する過程でのアレコレ。"不実な美女たち"の「妹」シリーズとして、ご愛読くださいませ。

第1回は、ドイツ語で字幕翻訳を手がけている、吉川美奈子さんにご登場いただきます。

構成・文 大橋由香子

吉川美奈子さんの主な翻訳映画作品 img_yoshikawaminako01.jpg

「ドレスデン、運命の日」「アイガー北壁」「ソウル・キッチン」「PINA/ピナ・バウシュ 踊りつづけるいのち」「コッホ先生と僕らの革命」「ハンナ・アーレント」「帰ってきたヒトラー」「ハイジ アルプスの物語」「ありがとう、トニ・エルドマン」「50年後のボクたちは」「はじめてのおもてなし」「5パーセントの奇跡~嘘から始まる素敵な人生~」「女は二度決断する」「ゲッベルスと私」「ヒトラーを欺いた黄色い星」

Episode2 西ドイツで働き、東ドイツを旅する謎の日本女性

Episode3 『哀愁のトロイメライ』に導かれたドイツ語字幕翻訳の世界

番外編 わが愛する東ドイツの友だち

Episode1 図鑑と伝記少女が漫画にハマり、ドイツ好きに

吉川さんの子ども時代である1970年前後は、漫画の読みすぎ・テレビの見すぎは、頭と目に悪いからダメだと多くの親は言っていた。

吉川さんの家でも、「8時だよ、全員集合」といったドリフターズの番組は見せてもらえず、カルピスこども劇場、NHKの大河ドラマ、刑事コロンボ、洋画劇場などに限られていた。(テレビは1台しかないのが普通で、チャンネルの決定権は親にある時代だった。)

漫画は、「ドラえもん」や「はだしのゲン」などは買ってもらえたが、週刊の漫画雑誌は無理で、学習漫画ならオッケー。活字の本に触れてほしいという親の願いからか、家には世界文学全集がそろっていた。

「ところが私は、世界文化社の「カラー図鑑百科」シリーズ全24巻の昆虫や動物、宇宙が好きでした。学研の雑誌『*年の科学』『*年の学習』もお気に入りで、弟ふたりと一緒に読んでいました」

とはいえ、"本の虫"というよりは、虫取りのほうがはるかに好きな少女だった。

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小学校5年生(11歳)の頃、
名古屋市内で。

「よく外で遊んでいました。当時は東京の練馬にも、雑木林や空き地、畑や肥え溜め、養鶏場がありましたから。図鑑で見るだけでなく、実際に虫や魚、亀も飼っていました。
 ドイツや外国語への憧れですか? 小学生のころは特にありませんでしたが、大阪弁は話せるようになりましたよ(笑)。親の転勤で、東京、名古屋、大阪と引っ越して、小学校を4回くらい転校したので、初対面の人と話すのも平気になりました」

図鑑が好きというのは、調べ物や検索、裏を取るのに夢中になるという形で、翻訳を仕事にするようになった今も続いている。

図鑑のほかにも好んで読んだ本がある。それは偉人の伝記だった。

車メーカーのフォード、イギリスの首相チャーチル、実業家の渋沢栄一をはじめ、ビタミンB1を発見した鈴木梅太郎のような渋い人物にも魅力を感じた。

「ヘンリー・フォードは、お母さんが病気で危篤の時、馬車が遅くて母の死に目に間に合わず、それで車を作ろうと決心した、というような逸話が載っていて感心しました。たしか『ああ、おそかった』みたいな題名だった気がします。
 今もドキュメンタリーを見るとワクワクします。英文科出身の母は、世界文学全集に入っている『嵐が丘』や『若草物語』、『風とともに去りぬ』などを私に読ませたかったのでしょうが、読んだかどうか、あんまり記憶がないんですよ(笑)」

 

運命のマンガとの出会い

吉川さんには、4歳上のいとこがいる。夏休みに祖父母の家に泊まりに行くと、彼女が読み終えた「週刊マーガレット」が置いてあった。吉川さんはそれを読みあさり、「こんなに面白いものがあるんだ!」と感動する。

すべてが揃っているわけではなく、いとこが置いていった号だけ飛び飛びにだが、池田理代子作「ベルサイユのばら」の連載を読んでいった。「ベルばら」連載開始が1972年なので、吉川さんが小学3、4年のころからだ。

中学生になると、自分のお小遣いで『ベルサイユのばら』の単行本を買えるようになった。

「髪の毛の縦巻きカールやコスチュームにもハマりました。そのうちフランス革命について調べたくなって、図書館に行ってはフランスの歴史や文化についての本を借りて読んでいましたね」

そうこうしているうちに、池田理代子さんの新しい連載が始まる。「オルフェウスの窓」だ。「ベルばら」は一緒に盛り上がれる友だちがたくさんいたが、「オルフェウスの窓」のファンは少なかった。

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大きな影響を受けたマンガ2作品。
どちらもロマンあり涙ありドロドロありのコスチューム系。

「でも私は、すっかり惚れ込んでしまったんです。「オルフェウスの窓」の舞台は、20世紀初めのドイツやウィーン、ロシアで、第一次世界大戦やロシア革命が登場します。漫画を理解したいがために、ボリシェヴィキ、メンシェヴィキとはなんだろう、と調べました。『世界の歴史』のドイツ編やロシア編も読みました」

「オルフェウスの窓」の連載は6年間続いた。吉川さんがドイツを意識するようになったきっかけは、この漫画作品ということになる。

「あ、もう一つありました。中学校は大阪でしたが、いつもは退屈な音楽鑑賞の時間に、シューベルトを聞かされました。その瞬間に「ドイツ語、いいな!」と感じたんです。「ウント」とか「シュ」という音の固さが好きになっちゃって、クリスマスのプレゼントに故フィッシャー=ディースカウが歌う『シューベルト歌曲集』を買ってもらったほどです」

一目惚れ、ならぬ一耳惚れ。

確かに、耳から聴こえてくる音やリズムは、言語によって大きく違う。

さらに吉川さんは、「ベルばら」を入り口に学んだフランス文化より、ドイツの質実剛健さが心に響いたという。

こうして、中学高校時代は「オルフェウスの窓」に導かれて、ドイツを知ることに明け暮れた。世界文学全集に入っているドイツ文学を読めば、と母は勧めてくれるのだが、なぜか食指が動かない。ドイツに関する新聞や雑誌の記事を読むほうが面白かった。

当然のように、進路はドイツ語を学べる大学を選ぶことにした。外国語学部ドイツ語学科がある上智大学を受験し、合格した。

ところで、高校時代にもテレビやラジオ講座でドイツ語を学ぼうとは思わなかったのだろうか?

「大学に入ってからでいいや、と決めてましたね(笑)」

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「古い映画雑誌を眺めるのが大好きです。
ドイツのネットオークションを徘徊しては、こういった雑誌を落札しています。」

 

短期語学研修旅行で夢のドイツへ

上智大学の外国語学部は、厳しいことで有名だ。当時、大学はレジャーランドと言われていたが、授業開始時にドアに鍵をかけ遅刻者を教室に入れない教員もいた。しかも帰国子女や、高校ですでにその語学を学んでいる同級生も多い。

「こっちはアー、ベー、ツェーを始めたところなのに、もう喋っている人、発音がいい人もいて、『ああ、だめだ』と落ち込むこともありました。もちろん授業も厳しくて辛かったですが、ドイツ語を学ぶのがいやになる、飽きるということはなかったです」

歴史や周辺知識も学ぶが、とにかくドイツ語を習得するのがドイツ語学科。吉川さんは、テニスサークルに入って大学生活をエンジョイしつつ、ドイツ語を学び続けた。

そして大学3年のとき、語学研修旅行で、ついにドイツの土地を踏む。1ドイツマルクが90円、トラベラーズチェックを作る時は1ドルが240円だった。

最初にドイツで2週間、ウィーンで1か月サマースクール、その後の2週間をドイツで過ごす2か月だった。

まさに「オルフェウスの窓」の舞台とも重なる。

「最初の到着地のパリでは、まったく言葉が分からなかったのですが、その後、ドイツに入ると『なんとか言葉が通じる! ああ、ドイツにやってきた〜!』と安心したのをよく覚えています」

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ホームステイ先の町で歓迎会が開かれ、浴衣を着て盆踊り(炭坑節)を披露。
地元紙に掲載された(中央が吉川さん)。

ドイツ語学科の神父でもある教授が引率する研修旅行。ホテルやペンション以外にも、修道士が夏休み休暇で空いている寄宿舎に泊まり、教会関係者でなければ入れないような珍しい場所も見学できた。

さらに、いつも授業を受け、親しく話している先生が、イエズス会で尊敬されている偉い神父様だとわかり、驚いた。ホームステイをした家庭も素敵で、「絶対にドイツ語をちゃんとやろう!」と決意を新たにした。

決して安くはない旅行代を出してくれた親には、今でも感謝している。

そして就職。吉川さんは、ドイツで働きたいと考えた。ちょうど男女雇用機会均等法ができるときだった。

「均等法が翌年に施行されるという年でした。四年制大学を卒業したら、女子も総合職にチャレンジというムードでしたが、私はドイツに行ける仕事を探そうとしました。すると、4年の夏、ドイツにある日系金融機関からの求人が大学にきました」

面接をして、まもなく採用が決まった。勤務先は、デュッセルドルフだ。

日本で採用面接を受けて日本から行くのだが、身分は現地採用なので、移動の飛行機代が出ない。大学の就職室の職員には「悪しき風習だからよくない、行かないほうがいい」と言われたが、それでも吉川さんは、ドイツに住みたかった。金融機関にこだわったわけではないが、親は安心するだろうという思いもあった。実際「それ、いいじゃない」と、親には反対も心配もされなかった。

「会社からは、タイプライターをできるようにしておいてください、とだけ言われました。それで、スクールに自費で通い、自宅でオリベッティを使って復習、練習しました。手動ではなく、電動タイプライターになっていましたが、ワープロやパソコンが当たり前になるちょっと前ですね。ドイツ語のタイプライターは、ZとYの位置が逆なんです。ドイツ語はYをあまり使わないので。
不安より、ワクワクでしたね。今から思うと、何をしに行くつもりだったんでしょうね。こういう性格なので(笑)、行ったらこっちのものだ、と思っていました」

こうしてドイツでの暮らしがスタートした。住まいは、普通の家の2階にある賃貸住宅で、職場へはバスと市電で通い、夕方5時、遅くとも6時には仕事が終わる。

現地採用のため薄給だったが、現地の従業員と同じ労働条件なので、土日のほかに30営業日が有給休暇だった。

「ドイツの人は、たっぷり休暇がとれるんです。そして、休みはすべて消化しないといけないので、私も夏に3週間、冬に3週間、バックパッカーの貧乏旅行をしました」

その行き先は、東ドイツだった。

(続く)

私の宝物img_jimaku-yoshikawa01_04.jpg img_jimaku-yoshikawa01_00.jpg

〈1〉 NHKのラジオ講座のテキスト

ラジオを聞く時間がない時も、買って読んでいたという。仕事でドイツ在住の間は、親に日本から送ってもらって読んでいた。好きが嵩じて、最近は、昔のテキストもネットオークションで購入している。

吉川さんが手がけた映画紹介 img_jimaku-yoshikawa01_09.jpg

深いシワが顔に刻み込まれた女性、103歳のブルンヒルデ・ポムゼルは、31歳から3年間、ゲッベルスの秘書として働いた。

彼女の語りと、当時の記録映像(全て初公開)が映し出される。色のない、モノクロの世界が「ゲッベルスと私」だ。

ゲッべルスはナチスの国民啓蒙・宣伝大臣。普段は、洗練されたエレガントな紳士という印象のゲッベルスが、演説では大声でがなりたて、豹変したとポムゼルは言う。

「演技力であの人に勝てる役者はいないわ」

ナチスへの協力についてのポムゼルの語りは、映画「ハンナ・アーレント」にも登場するアイヒマンの「悪の凡庸さ」を彷彿させる。上司の信頼に応えるため、忠実に任務を遂行しただけ。

「私に罪があったとは思わない。ただし、ドイツ国民全員に罪があるとするなら話は別よ」

20代のポムゼルは、条件のいい仕事をゲットしようと努力する。放送局に勤めるにはナチス党員になる必要があると言われ、大金を払った悔しさ。党員申し込みの行列に並ぶ間、ユダヤ人の友だちエヴァが待っていたこと。放送局への転職で給料が上がり元は取れ、エヴァも遊びにきた。だが、その放送局ではアナウンサーが同性愛を理由に強制収容所に送られた。

収容所で何がなされたか、「私たちは何も知らなかった」と言う時のポムゼルの表情。そして「最後は自分のことしか考えてなかった」「良心が痛む」とも語る。色のない映像から何を感じとるかは、見るものに委ねられている。

           *

ゲッベルスは、1943年6月19日、ベルリンからユダヤ人を一掃したと正式に宣言した。ところが、約7000人のユダヤ人がベルリン各地に潜伏し、約1500人が終戦まで生きのびた。

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「ヒトラーを欺いた黄色い星」は、実在する4人のインタビュー証言と、潜伏していた日々のドラマから構成される。

移送命令を受けたとき20歳だったツィオマは、「工場に戻れと言われています」と咄嗟に嘘をついて収容所行きを免れた。手先の器用さから身分証明書の偽造をして食料切符を得る。

17歳だった孤児のハンニは、母の友人に助けられ髪を金髪に染めて別人として生きようとするが、隠れ家を失う。そんな時、映画館で知りあった男性の母親に助けを求めた。 16歳だったオイゲンは、共産主義者の家で匿ってもらう。逃亡してきたユダヤ人から収容所での虐殺の実態を知らされ、反ナチスのビラ作りを手伝う。

20歳だったルートは、隠れ家を転々とする。友人のエレンと寒空で夜を明かしたこともあったが、ドイツ大佐の家で働けることになった。

いつ密告され、ゲシュタポに捕まるかという恐怖の中、4人には、生きようとする強い意志と賢さ、運の良さがあった。そして、たとえ数日でも、様々な動機から、「助けてくれたドイツ人」がいた。

ゲッベルスの秘書ポムゼルと、匿ったドイツ人たちとの違いは? 過去を描きながら、これからを私たちに問いかける2作品である。

                         (大橋由香子)
映画『ゲッベルスと私』公式サイト
2016年オーストリア映画
配給:サニーフィルム
東京・岩波ホールで8月3日まで公開中。順次全国公開
映画『ヒトラーを欺いた黄色い星』公式サイト
2017年ドイツ映画
配給:アルバトロス・フィルム
7月28日より全国順次公開

大橋由香子(おおはし ゆかこ) プロフィール
フリーライター・編集者。月刊「翻訳の世界」(バベル・プレス)やムック「翻訳事典」(アルク)等で翻訳者へのインタビュー取材を手がけてきた。光文社古典新訳文庫の創設時スタッフでもある。著書『同時通訳者 鳥飼玖美子』『生命科学者 中村桂子』(理論社)『満心愛の人 益富鶯子と古謝トヨ子:フィリピン引き揚げ孤児と育ての親』(インパクト出版会)『異文化から学ぶ文章表現塾』(新水社、共著)ほか。