古典新訳文庫ブログのインタビュー<女性翻訳家の人生をたずねて>に、新しいシリーズが加わります。新シリーズでは、本という媒体ではなく、<映像>の世界で外国語を日本語に翻訳している女性たちにお話を聞いていきます。そもそも不可能か?とも言われる翻訳を、さらに短い文字制限で日本語にするというマジックへの挑戦者たち。しかも、英語以外の外国語を扱う翻訳者です。
字幕や映像翻訳という仕事の苦労と魅力、その言語との出会い、そして、子どもから大人に成長する過程でのアレコレ。"不実な美女たち"の「妹」シリーズとして、ご愛読くださいませ。
第1回は、ドイツ語で字幕翻訳を手がけている、吉川美奈子さんにご登場いただきます。
構成・文 大橋由香子
「ドレスデン、運命の日」「アイガー北壁」「ソウル・キッチン」「PINA/ピナ・バウシュ 踊りつづけるいのち」「コッホ先生と僕らの革命」「ハンナ・アーレント」「帰ってきたヒトラー」「ハイジ アルプスの物語」「ありがとう、トニ・エルドマン」「50年後のボクたちは」「はじめてのおもてなし」「5パーセントの奇跡〜嘘から始まる素敵な人生〜」「女は二度決断する」「ゲッベルスと私」「ヒトラーを欺いた黄色い星」
Episode1 図鑑と伝記少女が漫画にハマり、ドイツ好きに
Episode3 『哀愁のトロイメライ』に導かれたドイツ語字幕翻訳の世界
Episode2 西ドイツで働き、東ドイツを旅する謎の日本女性
1986年7月、就職して最初の夏休み、同僚たちはミュンヘンやスペインに遊びに行く。
「美奈子はどこに行くの?(Wo fährst du hin, Minako?)」
「東ドイツよ(Ich fahre in die DDR.*)」
東ドイツの人々は自国を「デーデーエア」と呼んでいた。
* 東ドイツの正式名称「ドイツ民主共和国」はDDR
「みんな、『え?』という顔をしましたね。『ひょっとして共産主義者?』と思われていたかもしれません(笑)」
第2次世界大戦後に西と東に分割されたドイツは、ベルリンの壁が崩壊する1989年まで、資本主義と社会主義との冷戦体制を体現していた。
当時、西ドイツから東ドイツへの旅行は、ビザの取得と強制両替が義務付けられていたものの、それさえあれば可能だった。一方、東ドイツから西ドイツへは、60歳以上の年金生活者や特別に許可を得た人以外は不可能だった。
吉川さんも、東ベルリンにある東ドイツ国営旅行会社にビザを申請した。さらに1日あたり25西ドイツマルクの強制両替が必要なので、1週間滞在するために175マルクを東ドイツマルクに両替した。東ドイツが貴重な外貨を稼ぐための方策だ。
こうした準備をし、銃を構える兵士がいる検問所を通って、やっと東ドイツに行ける。
きっかけは大学時代のペンパル(文通相手)
なぜ、東ドイツだったのだろうか?
「東ドイツにいるペンパルの家に遊びに行ったんです。英語好きの母が仕事先からもらった『スチューデント・タイムス』という学生向け英字新聞のペンパル募集欄に、東ドイツ人がいて、英語での文通欄でしたが、私は少しだけドイツ語で手紙を書きました。100通くらい届いた中で、ドイツ語を書いたのは私だけだったらしく、頑張って英語で書くつもりだった彼女は『ドイツ語もできるなら』と私を選んでくれたんです。大学3年生の時でした」
航空便の封筒に、ウエストではなくて、イースト・ジャーマニーと赤字で書く。しかし、社会主義国では手紙の検閲があった。映画『善き人のためのソナタ』にも、湯気で手紙を開封する場面が出てくる。同じ東欧社会主義国のポーランドでは、『他人の手紙』という手紙の検閲を扱った映画もあるほどだ。
すべての手紙が開封・検閲されていたわけではないだろうが、日本から西ドイツなら5日くらいで届くのが、東へは約10日かかっていたようだ。
「その文通相手が、『夏休みに遊びに来て』と言ってくれて、喜んで泊めてもらいに行ったわけです。私がビザを申請したように、東ドイツのマイセンに住むペンパルの家族も、こういう外国人を受けいれます、と当局に申請する必要がありました」
ホテルではなく個人宅に滞在する場合は、目的地に着いてから地元警察に届ける必要があり、吉川さんも、警察署に出向いた。
こうして始まった東ドイツでの日々。日本から西ドイツに移り住んでも感じなかったカルチャーショックを、初めて体験する。
派手な広告やネオンがない。あっても党のプロパガンダ、「働こう」「団結しよう」といったスローガンが並ぶ。第2次世界大戦で破壊された教会などの建物はボロボロのまま。質の悪い石炭を使っているせいか、排気ガス規制がなく公害のせいか、空気も煤けていて、全体的に汚い印象だった。
ペンパルやその友だちの暮らしぶりにも驚かされた。
「カフェに入ろうとしても、社会主義国名物の行列です。ようやく自分たちの番が来たら、ケーキは3種類しかない。それでもみんなは『わーい、きょうは3種類もある!』と大喜びなんです。西ドイツのカフェなら10種類くらいあるのが当たり前なのに......」
一般の個人宅には電話はないので、連絡手段は電報(吉川さんが人生で電報を打ったのは、東ドイツの友人とコンタクトを取った時だけ)。喉が渇いても、自動販売機はおろか、売店すらない。店に入ろうと思うと臨時休業。スーパーマーケットやデパートに入っても、陳列棚に商品はほとんどなく、店員さんはみんな無愛想。テレビを見ると、コメンテーターは西側の悪口ばかり......。
「カルチャーショックとは、こういうことを言うのかと痛感しました。街は暗いし、自分の意思で来たけれど、初日にもう帰りたいと思ってしまいました」
社会主義国に行ったことのある人なら、この感覚はわかるのではないだろうか。
興味があって好きで出かけたものの、ふだん享受している資本主義の便利さの欠如に加え、監視されているような空気や、外国人(特にアジア人)は珍しいのでジロジロ見られ息苦しくなる。
でも、悪いことばかりではない。
「当時の東ドイツは、資本主義国の情報を遮断し閉鎖された状況だったので、みんな、外国人と接することに飢えていて、その意味ではとても歓待してくれました。
最初はペンパルの家でしたが、彼女の友だちに『今度の冬休みはうちに泊まってね』と誘われ、次に行くと別の人に『イースターはうちに来てね』という感じで(笑)」
こうして吉川さんは、休暇といえば東ドイツに通うようになる。
最初は戸惑ったが、何度か行くうちに、東ドイツとそこに住む人々が好きになってしまった。
「何よりも、とても優しく、温かくて楽しい人ばかり。別れ際にはみんな涙を流してくれました。物がなければ、ないなりに工夫をして、入手困難な野菜は自宅で育てたり、おしゃれな服を自分で縫ったり、家を自分で建てたり。不便でも、心豊かな生活を送っているのが伝わってきました。
ただし『ビタミンB(BはBeziehung=コネの頭文字)』と呼ばれた『コネ』がものを言う社会で、材料を集められるかどうかは『コネ』によるところが大きかったようです」
職場の人には「また東?」とあきれられていたが、市井の人々の家に泊まり、観光ガイドに載っていないような場所で過ごした経験は、その後、映画字幕の仕事でとても役にたつ。
「1980年代後半でも、戦争で破壊され修復途中のまま放置されたような建物を見かけました。特に空襲のひどかったドレスデンの聖母教会は瓦礫だらけで、ペンペン草のような雑草まで生えていました。さすがに戦争中のことは知りませんが、東側諸国の最前線にあった東ドイツを"体感"できたことは、私にとっての財産です」
出産後、ドイツ語翻訳の通信教育を受ける
デュッセルドルフでの勤務契約は2年間。延長も可能だったが、いったん日本に戻ることにした。
東京で、今度はドイツ系の証券系金融機関に転職した。
幸いドイツ人が何人かいる職場で、日本にいても日常的にドイツ語で仕事をしていた。
だが、最初の就職から足かけ5年のころ、業務の手段としてではなく、ドイツ語そのものを使った仕事をしてみたいという気持ちがふくらんでいく。
結婚もした。そして28歳、子どもが生まれる少し前に会社を辞めた。
家にいられて嬉しかったのは、最初の何日かだけ。当時はインターネットもなかったので、退職すると、社会から切り離されたような感覚に陥った。
「特にドイツ語から離れたことが、こんなに辛いとは思わなかったです。寂しくて寂しくて、私はこれでおしまいだと感じてしまうくらい。そこで『翻訳でも始めようか』と思いついたんです。
ちょうど出版社にいた友だちから翻訳の下訳を頼まれて、二つ返事で引き受けたものの、とんでもない代物を出してしまいました。恥ずかしいことですが、翻訳を完全になめていましたね。ドイツ語は理解できても、日本語にできない、翻訳は簡単なことではありません。ちゃんと勉強しなきゃと痛感し、外に勉強に行けないので、通信教育を始めました」
某翻訳学校のドイツ語翻訳講座は、文芸とビジネスと交互で課題が出された。子どもが寝ている時間に取り組んだ。
「褒め上手の先生が、『素晴らしい』と赤字で添削してくださったのが嬉しかったです。毎回『素晴らしい』と書いてくださるので、これは全員に書いておられて、褒めて伸ばす主義なんだなと後になって気づきましたが(笑)。中学生や高校生の頃の通信教育は長続きしなかったのに、切羽つまると できるんですね。通信教育って、いいものだと思いました」
翻訳を学んでいく中で、吉川さんは「自分には翻訳しかない」と考えるようになる。翻訳の難しさがわかるにつれて、自信を喪失しそうにもなった。それでも、翻訳業界の隅っこにつかまって仕事ができないかと、アンテナをはっていた。
ある日、「朝日新聞」求人欄に「ドイツ語翻訳者求む」という小さな翻訳会社の募集を見つけた。
問い合わせてみると、ガス業界の専門誌を日本の技術者向けに翻訳する仕事だった。内容について技術系の監修者は別にいて、ドイツ語から翻訳できる人を探していた。
吉川さんは、仕事としての翻訳経験はないことを正直に話し、トライアルを受け、採用になった。いよいよ翻訳者デビューである。
実務(ビジネス)翻訳が順調に進む中、運命の映画と出会う
実務(ビジネス)翻訳の場合、クライアントからの仕事を翻訳会社が受け、登録しているフリー翻訳者に依頼し、できあがった訳文を翻訳会社がチェックしてクライアントに納品するという形が多い。
吉川さんはこのガス関係の翻訳を、お子さんが1歳前後の時期から始めて、約6年間継続して行なった。その間に第2子も誕生している。
「幼稚園に入るまでは時間の確保が大変でしたが、おかげでふたり同時に一瞬で昼寝させる技を身につけました。公園でクタクタになるまで遊ばせるんです。家に帰るとコテっと寝ちゃうという自慢の技ですが、たまに自分も一緒に寝落ちする危険も(笑)。ママ友からは『吉川さんはいつも公園にいる』と言われていました。
昼寝時間のほかは、真夜中と早朝が仕事時間です。締め切り前はどうしてもピリピリしてしまい、子どもたちには可哀想なことをしたと今も時々思います。それでも翻訳が、私を社会やドイツとつないでくれる唯一の手段でしたので、幸せでした」
ちょうど、ヨーロッパで規格が統一される時期で、ドイツ工業規格に関連する記事も多く担当した。それでも、ドイツ語の仕事量は限られており、英語から日本語へのガス関係の翻訳を頼まれることもあった。
「ドイツ語だけにどっぷり浸かりたい!」というのが会社勤めから翻訳に転向した理由の一つだった。しかし、英語もできたほうが仕事の幅が広がるのも事実だ。
(ちなみに、末尾コラム「吉川さんが手がけた映画紹介」で今回取り上げる2作品も、英語からの字幕翻訳です)
「翻訳会社のコ−ディネーターとやり取りをするのも勉強になりました。訳語についてはもちろん、納品の形式なども学びましたね。最初はフロッピーを郵送していたのが、パソコン通信ができてニフティサーブのパソ通で納品、やがてメールになりました」
さて、会社勤めを辞めたあと、翻訳通信講座のほかに、吉川さんはもう一つ始めたことがあった。ドイツ語を忘れないために、ドイツ人留学生にプライベート・レッスンのアルバイトを頼んだのだ。
自宅に来てもらってドイツ語を話す。留学生が1年で帰国すると、次の学生を紹介してもらった。妊娠中から、子どもが幼稚園に入り、自分が外出できる時間がとれるようになるまで続けた。
ある日、プライベート・レッスンの留学生が、ドイツ語の勉強に良いだろうとVHSのビデオテープを持ってきた。『哀愁のトロイメライ クララ・シューマン物語』だった。
「ナスターシャ・キンスキーが、音楽家ロベルト・シューマンの妻で自らもピアニストのクララを演じた映画です。
こんなきれいな人がこの世の中にいるのかと感動し、彼女のコスチュームにも魅せられました。そのビデオに字幕がついていて、『あ、こういう仕事もあるんだ』と気づいたんです。
もちろん字幕翻訳は知っていましたが、劇場公開の字幕は雲の上の存在、羨ましいなあと憧れるだけでした。でも、ビデオという形があるんだ、ひょっとしたら、という発見でした」
吉川さんが、ドイツ語の映画字幕を意識した最初の出来事だ。
(続く)
〈2〉百科事典「Brockhaus1」
1921年から順次発行された4巻本をドイツのオークションサイトで落札して購入。「ページを開いたら、中に押し花が!1920年代のものだと決めつけて、喜んでいます」
〈3〉日本の雑誌「映画評論」1931(昭和6)年4月号と5月号 (映画日本社発行)
「何が面白いかって、映画だけではなくて歴史が詰まっているところ。広告の<春はチョコレートから>などという文句も、たまらなく好きです」
15歳のゲンボは、Facebookを使い外国の音楽も楽しむシャイな男の子。ブータンの古刹の息子で、父親は、僧侶になるための学校に転校するよう勧める。母親は、外国人観光客に寺の説明ができるよう普通の学校で英語を学ぶほうがいいと主張する。
妹のタシは、サッカーが大好きな14歳。女の子らしい服装も、「女の子だから」と手伝いをさせられるのも、嫌いだ。そんなタシのことを、両親は「男の子の魂を持った女の子」だと言って、否定はしない。
女子サッカーの代表選手になる夢をもつタシ、父に反発しながらも、なりたいものが見つからないゲンボ。仲の良いふたりは、どんな道を歩んでいくのだろう。伝統と近代がせめぎ合うブータンの、珍しくも懐かしさを感じる風景、人々の心模様が、伝わってくる。
1985年生まれブータン出身のアルム・バッタライと、88年生まれハンガリー出身のドロッチャ・ズルボーが、ドキュメンタリー制作の国際修士コース(ドック・ノマッズ)で出会い、各国からの資金協力を得て作られた若々しい作品だ。(日本語字幕は英語から)
1953年、社会主義国家ソビエト連邦(ソ連)の最高権力者スターリンが倒れて危篤!?
補佐役のマレンコフ、ベリヤ、フルシチョフたちの狼狽ぶりと権力争いを、面白おかしく描いたブラック・コメディ。歴史的事実を踏まえたディテールは、社会主義マニア(?)にはたまらないだろう。
粛清という恐怖政治、権力集中制という独裁が、どのようになされていたのかもよくわかる。それは社会主義国の実態であるとともに、体制を問わず国家というものの姿でもある。コマのように使い捨てられ、抹殺されていく人間たち。滑稽さに笑いながらも、次第に笑えなくなっていくのは、決して過去の特定の国の出来事では終わらないからか。
登場人物にはやはりロシア語をしゃべってほしい気もするが、英語版だったからこそ、吉川美奈子さんの字幕で観ることができて、個人的には嬉しい。
大橋由香子(おおはし ゆかこ) プロフィール
フリーライター・編集者。月刊「翻訳の世界」(バベル・プレス)やムック「翻訳事典」(アルク)等で翻訳者へのインタビュー取材を手がけてきた。光文社古典新訳文庫の創設時スタッフでもある。著書『同時通訳者 鳥飼玖美子』『生命科学者 中村桂子』(理論社)『満心愛の人 益富鶯子と古謝トヨ子:フィリピン引き揚げ孤児と育ての親』(インパクト出版会)『異文化から学ぶ文章表現塾』(新水社、共著)ほか。