古典新訳文庫ブログのインタビュー<女性翻訳家の人生をたずねて>に、新しいシリーズが加わります。新シリーズでは、本という媒体ではなく、<映像>の世界で外国語を日本語に翻訳している女性たちにお話を聞いていきます。そもそも不可能か?とも言われる翻訳を、さらに短い文字制限で日本語にするというマジックへの挑戦者たち。しかも、英語以外の外国語を扱う翻訳者です。
字幕や映像翻訳という仕事の苦労と魅力、その言語との出会い、そして、子どもから大人に成長する過程でのアレコレ。"不実な美女たち"の「妹」シリーズとして、ご愛読くださいませ。
第1回は、ドイツ語で字幕翻訳を手がけている、吉川美奈子さんにご登場いただきます。
構成・文 大橋由香子
「ドレスデン、運命の日」「アイガー北壁」「ソウル・キッチン」「PINA/ピナ・バウシュ 踊りつづけるいのち」「コッホ先生と僕らの革命」「ハンナ・アーレント」「帰ってきたヒトラー」「ハイジ アルプスの物語」「ありがとう、トニ・エルドマン」「50年後のボクたちは」「はじめてのおもてなし」「5パーセントの奇跡〜嘘から始まる素敵な人生〜」「女は二度決断する」「ゲッベルスと私」「ヒトラーを欺いた黄色い星」
Episode1 図鑑と伝記少女が漫画にハマり、ドイツ好きに
Episode2 西ドイツで働き、東ドイツを旅する謎の日本女性
Episode3 『哀愁のトロイメライ』に導かれたドイツ語字幕翻訳の世界
1980年代半ばあたり、映画は映画館で観るものから、家にいながらビデオでも鑑賞できるようになっていく。ビデオ化に伴う字幕のチェックや、新たな字幕や吹き替え作成などの需要が生じてくる(やがてDVDになると特典映像も出てきた)。
Episode2で、吉川さんが「ひょっとしたら」と字幕翻訳を仕事にする可能性を感じた背景には、こうした翻訳業界自体の変化があった。
もう一つ、吉川さん自身の中でも、ドイツ映画に対する興味が深まっていた。 もともと映画は好きだったが、ドイツ在住中には頻繁に映画館に通った。
「当時、デュッセルドルフの近所の映画館で週1回『映画の日』があって、その日は6マルク(当時の価値で500円くらい)でした。安く映画も観られる上に、言葉の勉強にもなるという一石二鳥で、よく映画館に通いました」
テレビで放映される映画も見た。特に吉川さんが衝撃を受けたのは、ギュンター・グラスの原作を1979年に映画化した『ブリキの太鼓』と、1920年のサイレント映画『カリガリ博士』だった。
このようにして、ドイツ滞在の頃からドイツ映画にハマっていった吉川さんにとって、『哀愁のトロイメライ』は「ドイツ映画を仕事にしたい!」と決意させる作品になったのだ。
そんな時、またもや運命の女神(?)あるいはキューピットが微笑む。
翻訳関係の雑誌で偶然、映像翻訳家が「ドイツ語翻訳者求む」と求人広告を出しているのを見つけたのだ。もちろん、即座に応募した。
「熱意が伝わって採用されたのかもしれません。そして、まず渡されたのが『哀愁のトロイメライ』のスクリプト(台本)の下訳だったんです。『え?』と驚いて、『これは運命だ! この仕事、絶対に離さない!』と思いました」
『哀愁のトロイメライ』映画製作は1983年、日本では1985年に劇場公開され、吉川さんが留学生から劇場用映画のビデオを借りて観たのは1990年代前半だった。ところが、1998年、某テレビ局が放映することに伴い、新たに字幕翻訳が必要になった。その際、英語版スクリプトがなかったため、ドイツ語スクリプトから翻訳する仕事が発生したというわけだ。
吉川さんがドイツ語から日本語にしたスクリプトを参考にしながら、先生が、長さ(尺)に合わせてセリフにしていく。
字幕翻訳には、1秒につき日本語で4文字、字幕1枚につき最大で13文字前後、2行までという制限がある。視聴者が映像を見ながら読める文字数には限界があるためだ。
「映像の翻訳は初めてだったので難しかったのはもちろんですが、スクリプトを訳しながら、『こんな幸せな世界があるんだ!』と感動しました。
『哀愁のトロイメライ』の後も、週に1、2回、幼稚園の延長保育を頼んで子どもを送り出すと、先生の自宅兼仕事場に行き、翻訳のお手伝い以外にも買い物などの雑務、映画配給会社とのやりとりなど、弟子のように働きました。
帰宅後は、持ち帰った先生の手書きの字幕原稿を、ワープロで入力します。清書しながら、字幕翻訳のノウハウを学んでいきました。教わったというより、覚えていったという感じ。まさに門前の小僧ですね」
小さい子ふたりの育児だけでも大変だろうに、その上、実務翻訳に加えて字幕の見習い仕事もするとなれば、さぞかしストレスフルな日々だったのではないだろうか。
「こう言うと身勝手に聞こえるかもしれませんが、自分が仕事で充実感を味わうことによって、育児でも心のゆとりが持てるようになったと思います。時間の余裕はなくなるのに、心の余裕が生まれるという不思議な状態でした。ただし締め切り前夜は「よゆう」の3文字はどこかへ吹っ飛びますが。え? 家事ですか? そ、それは......もちろん手抜きです(汗)。生協には足を向けて寝られません」
テレビドラマの仕事で実務翻訳を諦め、字幕翻訳に絞る
約2年の「丁稚奉公」を経て、ひとり立ちした吉川さんは、とある映画祭で上映される作品の字幕を頼まれた。オランダ在住中国人が登場するオランダ映画で、原語は中国語、その英語版からの翻訳だった。ドイツ語ではなかったが、クレジットに自分の名前がでたことは、とても嬉しかった。
そして、知り合った字幕翻訳の制作会社から、テレビドラマの仕事依頼がくる。
それは、ドイツの高速道路・アウトバーンで活躍する高速警察隊を描いた刑事ものだった。VHS(ビデオテープ)販売用の字幕翻訳を、1年間で2シーズン分、ひとりで訳した。
ドラマの翻訳は、劇場映画以上に納期が短く、次々に仕事が来るのが特徴なので、ガス関係の実務翻訳との両立は困難だと判断。映像翻訳に絞ることを決意した。2000年のことだった。
「後から振り返ると、早い時期にまとまった映像の仕事をいただけたのは、本当に運が良かったと思います」
制作担当者から修正が入り、やり取りを通して、字幕翻訳の技術をさらに学んでいった
「制作担当の方々からは、本当にたくさんのことを教わりました。『次回からは、もう結構です』とクビを言い渡されるのではないかと、毎回ビクビクしながら納品していました」
映画の場合、字幕の長さは制作会社が事前に測ってくれることもある。しかし、吉川さんが初めて担当したドラマでは、映像を見ながら、自分で測ってから訳す方式だった。
「はじめはセリフの長さを測り間違えたり、ストップウオッチが壊れちゃったりで大変でしたが、だんだん慣れて、勘も働くようになりました」
近年は、コンピュータがセリフの長さを自動的に計測して字幕も入力できるSSTというツールができたため、ストップウォッチの出番は、ほとんどなくなった。
ちなみに、昔の字幕の文字は独特の書き文字だった。それを書くタイトルライターという仕事も、今はなくなってしまった。
「でもこの前、SSTの調子が悪くなった時に、久々にストップウォッチを使いました。昔とった杵柄で、なまっていませんでしたよ。セリフの長さの感覚が身についたという面でも、あの作業は無駄ではなかったと思います」
一度経験したことは、目に見えて役には立たなくても、どこかで、何かに、つながっていく。
弟子入りした先生の求人を見つけたのも、通信教育を受講した学校で添削の仕事を引き受けたおかげで、毎月入手できた雑誌でのことだった。
縁やタイミングの大切さを、吉川さんは痛感している。
映画に映し出されたドイツ社会の魅力を伝えたい
ドイツ映画の字幕翻訳の仕事が、少しずつ増えていった。
さまざまなジャンル、内容のものを扱ってきたが、『帰ってきたヒトラー』『ヒトラーの忘れもの』『ヒトラー暗殺、13分の誤算』『あの日のように抱きしめて』『ブルーム・オブ・イエスタディ』『ゲッベルスと私』『ヒトラーを欺いた黄色い星』など、ナチ・ドイツ(Nazi-deutschland)に関する多様な作品を手がけている。
一方、韓国映画とまちがわれそうな『ソウル・キッチン』は、ハンブルグのレストランを舞台にドイツの若者たちを描き、『ぼくらの家路』は大都市ベルリンで、シングルマザーに置き去りにされた兄弟が母を探すという話。どちらも多民族が生活する街の雰囲気が映像に漂っている。
ドイツが直面する移民や難民の受け入れ問題を扱った、今年公開の『はじめてのおもてなし』『女は二度決断する』も吉川さんの字幕だ。
東西ドイツの統一前、東独の女性医師が、西ドイツへの亡命を申請したがために当局から理不尽な仕打ちを受ける『東ベルリンから来た女』も印象深い。
その東ドイツのペンパルだった友だちとは、今もやり取りしている。
統一後、東ドイツのシュタージ(秘密警察)の書類が公開された。それを見ると、危険人物として近隣の人が密告した内容がわかり、人々の間にさまざまな亀裂を生んだ。
ペンパルの彼女も、自分に関するファイルの情報開示をしたところ、吉川さんのことも出ていたそうだ。
「大した内容でもなかったのですが、かなり間違いがあって、大学で経済学を学び金融機関で重要ポストについているキャリアウーマンみたいな、盛られた内容でした。それでも、ペンパルの友だちである私のことを、周囲の誰かが点数稼ぎのために密告していたかと思うと、怖いものを感じます」
思い出深いドイツへの旅は、子どもたちが成長してから再開できた。
「ナチ時代のドイツや東西ドイツの分断を正しく理解するためにも、実際に現地で資料に当たり、その場に立ってみたいという思いがどんどん強くなっていきました。子どもが小さい時は無理でしたが、下の子が大学に入ったころから、再びドイツへ行けるようになりました。年に2回で、毎回せいぜい1週間しかいられないので、朝から晩まで分刻みのハードスケジュールで(笑)あちこちを精力的に回っています。
何かに憑かれたようにドイツへ行きまくる私を応援して支えてくれる娘、不出来な母親を見守ってくれる息子、そして困惑しつつも我慢してくれる(苦笑)夫には、心から感謝しています」
これまでに字幕を担当した作品の中から、オススメ映画を選んでいただいた。
「若い人に見てほしいのは、現代への警鐘という意味で、『ハンナ・アーレント』と『帰ってきたヒトラー』ですね。
『ハンナ・アーレント』は、特に内容が難解です。配給会社の人もとても丁寧に見てくれて、共同作業のような形になりました。この作品に限らず、配給会社や制作会社の方々には、いつもいろいろ教えていただいています。今日にいたるまで、感謝の気持ちを忘れたことはありません」
『帰ってきたヒトラー』は、ヒトラーが現代に甦り、モノマネ芸人と勘違いされテレビで大スターになるという小説。原書はドイツで2012年刊行、ベストセラーになり、2014年には日本語版が出た(ティムール・ヴェルメシュ著、森内薫訳、河出書房新社)。
吉川さんは、原書が出た時から、映画化されないかなと念じていたという。
「他の作品もそうですが、自分から売り込むことはできないので、映画化されたと聞くと『やりたい、やりたい、こいこいこい......』と念を送ります。
ハードルが2つあって、まずは映画化されたものを日本の配給会社が買ってくれるか、そして、字幕翻訳に私を指定してくれるか、です。
原作の本がある場合、日本語版を読むと影響されてしまうので、原書だけ読んで、字幕翻訳をした後に日本語訳を読むようにしています」
映画字幕の納期は10日間くらいと、驚くほど短い。その間に、調べものもしなければいけない。
ここで「調べ物をしないと生きていけない」という吉川さんの「検索病」が威力を発揮する。
「自分の中で、図鑑好きだった子ども時代と、今の仕事とがつながりました」
こうしてキャリアを積んできた吉川さんだが、小さい頃から映画館に入りびたりとか、食費を削って映画を観ていたという翻訳者の話を聞くと、自分に字幕翻訳をする資格があるのかと自問することもあるそうだ。
「それでも、ドイツ社会を映す鏡であるドイツ映画が大好きなので、これからも仕事をいただけるように精進したいと思っています。
ドイツ映画を観て幸せな気分になれるのは、監督というフィルターを通して切り取られたドイツ社会が好きだから。ドイツ語がわからないお客様にも、固いドイツ語の音を感じてほしいと願っています。ですから、ナチスの将校が英語をしゃべっているような映画は、正直に言うと、許せません(笑)。もちろん色々な事情があることは分かっていますが、英語版だけになってしまうのはドイツ語フェチの私にとっては寂しいです」
これからも、観客が楽しめるように「邪魔をしない字幕」を作るのが目標だと話してくれた。
次は、どんな映画で「字幕 吉川美奈子」というクレジットに出会えるか、楽しみだ。
(次回は番外編をお送りします)
〈4〉「袖珍辞書」
ネットオークションで見つけた明治9年初版の三省堂の辞書。袖珍とは、ポケットのこと。冒頭に書かれた編者の言葉(下記)は、当時の辞書作りの苦労だが、翻訳にも通じると感じる。吉川さんの座右の銘だ。
「辞書の要訣は簡潔明確にあり、されども簡なれば
大橋由香子(おおはし ゆかこ) プロフィール
フリーライター・編集者。月刊「翻訳の世界」(バベル・プレス)やムック「翻訳事典」(アルク)等で翻訳者へのインタビュー取材を手がけてきた。光文社古典新訳文庫の創設時スタッフでもある。著書『同時通訳者 鳥飼玖美子』『生命科学者 中村桂子』(理論社)『満心愛の人 益富鶯子と古謝トヨ子:フィリピン引き揚げ孤児と育ての親』(インパクト出版会)『異文化から学ぶ文章表現塾』(新水社、共著)ほか。