池田理代子さんの漫画「オルフェウスの窓」や、音楽の授業で耳にしたシューベルトを入り口に、ドイツへと惹かれていった吉川美奈子さん。実際にドイツを訪れ、ドイツで働き、旅をするという暮らしによって、さらにドイツの魅力を発見していった。日本に戻ってからも、ドイツ系企業で働き、出産後もドイツ語との縁が切れないように、というよりは、さらに強くするための努力を重ねてこられた。
吉川さんの「ドイツ映画への愛」の源には、出会ったドイツの人々がいる。番外編として、Meine lieben Freunde in Deutschland(わが愛するドイツの友だち)、特に旧東ドイツの友だちとの交流について語っていただいた。
「ドレスデン、運命の日」「アイガー北壁」「ソウル・キッチン」「PINA/ピナ・バウシュ 踊りつづけるいのち」「コッホ先生と僕らの革命」「ハンナ・アーレント」「帰ってきたヒトラー」「ハイジ アルプスの物語」「ありがとう、トニ・エルドマン」「50年後のボクたちは」「はじめてのおもてなし」「5パーセントの奇跡〜嘘から始まる素敵な人生〜」「女は二度決断する」「ゲッベルスと私」「ヒトラーを欺いた黄色い星」。「未来を乗り換えた男」は2019年1月12日公開。
Episode1 図鑑と伝記少女が漫画にハマり、ドイツ好きに
Episode2 西ドイツで働き、東ドイツを旅する謎の日本女性
Episode3 『哀愁のトロイメライ』に導かれたドイツ語字幕翻訳の世界
番外編 わが愛する東ドイツの友だち
──まずは、大学時代から始めた文通相手について教えてください。
吉川 ペンフレンドは、陶器で有名なマイセン生まれのマイセン育ち、生粋のマイセンっ子です。
実家には、おばあ様から伝わるマイセンのティーセットが無造作に(!)置いてあり、普段使い(!!)のマイセンもありました。
彼女は、高校の卒業試験「アビトゥーア」に高得点で合格したものの〔ドイツでは西も東も、この「アビトゥーア」に合格するのが結構大変だったようです。合格すると大学への入学資格が得られるのですが、学部によっては良い点数でないと入れないそうで、これは統一後も同じです〕、東ドイツでは大学の枠が少ないらしく、彼女は国営化学企業に勤めながら何年も待たされました。(余談ですが、東ドイツでは農民と労働者が優遇されるとのこと。友人はインテリ家庭であったがゆえに、大学入学がなかなか認められなかったのかもしれません。今となっては確かめようがなく、あくまでも私の想像ですが。)
初めて彼女の家を訪れたのは1986年。丸1週間お世話になりました。
「お店に行列ができていたら、とりあえず並ぶ。何を売っているか分からなくても、"有る時"に買わないとなかなか手に入らないから、とにかく並ぶ」
「子どもが生まれたら、その子のために自動車を注文しておく。納車まで異常に時間がかかるから」
というような、半分冗談・半分本気の話を、彼女や彼女のお友だちからたくさん聞きました。
2014年に彼女の家を訪れて25年ぶりに再会。今は WhatsApp のアプリでやり取りしています。
よく、「知り合った頃は手紙や電報でやり取りしていたのに、今じゃリアルタイムでチャットできる。いい時代になったね」と話しています。
──そのペンフレンドの友だちとも、友だちになっていくんですよね。
吉川 1986年にペンフレンドを訪ねた時、彼女の同僚とも知り合いになりました。「年の近い妹も会いたがっているから」とイースターに招待してくれたので、地方の小さな村にある実家にお邪魔したのです。
彼の母親はお医者様で、大きな家に住んでいました。
医師は当時の東ドイツでは恵まれた職業だそうで、家には電話がありました〔当時の東ドイツの一般家庭で電話があるのは珍しかったのです〕。車も2台あり、有名な「トラバント」と、往診用に一回り大きい「ヴァルトブルク」。
この兄妹はアメリカが大好きで、家にはどこかで手に入れたというコカ・コーラの缶が家宝のように飾ってありました。そんなアメリカ大好き兄妹に、マイケル・ジャクソンのアルバム(もちろんレコード)をプレゼントしたところ、とても喜んでくれて、歌詞カードを熱心に読んでいました。
ところが、東ドイツの学校の必修科目はロシア語で、英語は自由選択とのこと。兄妹ともに英語は履修していなかったので、歌詞のドイツ語訳を頼まれたものの、難しくて挫折しました。(マドンナのアルバムをカセットにダビングして送ったこともあったのですが、それは送り返されてしまいました。何かのミスかと思って送り直してみたのですが、やはり戻ってきてしまうのです。レコードは東ドイツに送ることができましたが、カセットは情報の録音が可能なため、送ることが禁止されていたんですね。後でそのことを知りました。小包みが毎回開けられ、中身がチェックされるという事実にも背筋が寒くなる思いでした。)
統一後、本好きの兄は、念願の書店をオープン。しかし、小さな書店の経営が難しいのはドイツも日本も同じです。結局、大手書店の傘下に入り、フランチャイズの店長さんとして今も頑張っています。
──帰国してドイツ系金融会社を退社してから、ドイツ語のブラッシュアップのために個人レッスンを受けた留学生とは、その後、交流はありますか?
吉川 『哀愁のトロイメライ』のVHSを貸してくれたドイツ人女性は、1年間の留学を終えるとベルリンへ帰っていきました。
彼女も東ドイツ出身で、「小学生の頃、運動神経がすばらしくよかった友人が突然転校してしまった。当局の目に留まり、スポーツの英才教育を受けるためだったらしい」などという話をしてくれたのも印象に残っています。
2017年の2月、久しぶりにベルリンで再会しました。
彼女に「あなたが貸してくれたVHSのお陰で、この仕事ができるようになったのよ〜〜!!!!!」と熱く語ったところ、「貸したっけ?」という反応。本人はすっかり忘れていたようです。
二人で盛り上がるつもりでこの話をしたのですが、感激し損ねました。 人生、そんなもんです(笑)。
──ほかにもいらっしゃいますか?
吉川 大学時代に文通をしていた東ドイツの友だちが、もうひとりいます。
彼女は生粋のベルリン子でした。竹を割ったような性格で(ドイツに竹は自生していませんが)、ベルリン訛りを炸裂させるサバサバした人です。
2015年に、その彼女と四半世紀ぶりに再会し、一緒に東ドイツ博物館へ行きました。東ドイツの展示物を東ドイツ出身の友人に解説してもらいながら見て回るという、レアで贅沢なひとときでした。
展示されていた大きな工作機械を見て、「あ、これで私も職業訓練を受けたのよ」と。東ドイツでは、こんな大きな工作機械を女性が使うこともあったのかと感心しました。女性は貴重な働き手であり、保育施設も充実していたとのことでした。
──こうした人々から、東ドイツの暮らしぶりや社会の雰囲気について、色々なことを感じたり学んだりなさったのですね。
吉川 東ドイツ好きだったため、自然と東ドイツの友だちが増えました。
一緒に過ごして痛感したのは、「自由への憧れ」。特に西ドイツに近い地域は西ドイツのテレビが見られてしまうため、よけいに憧れが募ったようです。
東ドイツ当局が「西側は失業や薬物問題が深刻だ」「格差がひどく、町にはホームレスがあふれている」などと、今で言う"ネガキャン"を繰り広げていましたが、私が知る限り、それを真に受ける人はいなかったように思います。
物不足も深刻でした。
モノやお金がすべてではないけれど、若い人たちに「モノよりもっと大事なものがある」と言うのは酷というもの。おしゃれな服も着たいし、ウォークマンでカッコいい音楽も聴きたい。リーバイスのジーンズで颯爽と街を歩きたいし、外国へも旅行したい――そう思うのも当然だと思えました。
壁のすぐ向こうでは、同じドイツ人が物質的に豊かで自由な生活を享受しているのですから。
──今回、紹介してくれたお友だちと、また会う機会に恵まれたというのも素敵です。
吉川 2012年からドイツ行きを再開し、昔の友人とも再会するようになりました。東も西も関係なく、よい友だちは年月を経てもよい友だち。だけど、壁の崩壊と東西統一、さらに統一後の混乱期を経て、それぞれの考え方が少しずつ違ってきたように思います。
友だちと交わす会話だけで判断してはいけませんが、私の小さな小さな交友関係でも、東西の格差を感じます。難民に対する考え方でも温度差を感じました。
そういったことは、多くのドイツ映画で描かれています。映画監督が発するメッセージを正しくキャッチして字幕にしなくては、と改めて気を引き締める今日この頃です。
──当時の貴重なお写真も含めて、本当にありがとうございました。これからも、たくさんの映画を通して、ドイツの社会や人間の魅力を私たちに伝えてください。
(構成・大橋由香子)
統一前の西ドイツと東ドイツ。「東」といえば、社会主義陣営を指し、東西対立、冷戦があったことなど、今や昔話。だが、「ソ連」が「ロシア」に戻っても、米ロ対立は続いている。社会主義を標榜する国は激減し、社会主義や共産主義といえば、独裁、全体主義、監視社会というイメージになってしまった。
たくさんの旅をしたわけではない私(大橋)だが、なぜか東ヨーロッパ(東欧)の国をいくつか訪れた。言葉もわからない、通りすがりの旅人としてだが、自分が暮らす資本主義とは異なる空気に、なぜだか引き寄せられた。
悪名高きソ連ですら、一度は足を踏み入れてみたいと感じたのは、『世界を揺るがした10日間』で描写された搾取からの解放を求める革命に、魅力を感じたからだろうか。それとも、ある日、自分の鼻がとれてしまうナンセンスや、外套を奪われる不条理を生み出した風土に憧れたからだろうか。
1985年にポーランドを訪れたのは、前年、トランジットで飛行機のタラップから降りた時、ワルシャワ空港の草の香りに魅せられたから。
西ドイツから乗った夜行列車が東ドイツに行くと、文字通り駅も街も暗くなった。夜中の検札、「笑ゥせぇるすまん」そっくりの不気味な車掌さんがやってきた。「この切符は間違ってますよお。追加金を払わないなら次の駅で降りてください」と脅され、泣く泣く財布からお札を出した。彼の懐に入るんだろうと感じた。
そんな恐怖も、ワルシャワに着いて公園を散歩すれば雲散霧消する。大きな体重計に驚いたり(のちに、オーストリアでも見かけた気がする)、ベンチでくつろぐ老夫婦と身振り手振りで話したり、教会に貼ってある「連帯」のポスターに、ニュース映像を重ねたり。クラクフへ行く列車には、たくさんのヒヨコ入りダンボールを抱えた腰の曲がったおばあさんが乗ってきて、車内はピヨピヨピヨピヨピヨピヨピヨ! 乗客たちは穏やかに笑みを交わしていた。
オシビエンチム(アウシュビッツ)では、展示を熱心に見ながら思索に耽る私のことを、社会科見学らしき地元の子どもたちが「アジア人だ!」「ベトナム人か?」「朝鮮じゃない?」と叫びながら大騒ぎ。先生に「ちゃんと見学しなさい」と叱られていた(と想像する。ポーランド語はわからないので)。
お互いに片言の英語での会話も楽しいが、悲しかったのは、街中でビールが飲めなかったこと。旅行会話ガイドを駆使しても、店員さんは首を振るばかり。外国人には売ってくれないのか、それとも子どもと思われたのか。そういえば、西ベルリンの壁博物館の受付でも、私は大人料金を渡すのに、お釣りをくれた。「大人だ」と主張しても、首を振られた。ブリキの太鼓が頭に浮かんだ。
というように、言葉がわからない故のトンチンカンだらけでも、百聞は一見にしかず、その土地の匂いやざわめき、静寂、こちらを見る胡散臭そうな視線、なんでこんなにしてくれるの?という親切を経験できる。
チェコのプラハを訪れたのは、チェコとスロバキアに分かれてから。すっかり資本主義経済が浸透し観光客が押し寄せるようになっていた。
チェコといえば、カフカ。モルダウ川近くにあるカフカ美術館の入り口、噴水にある彫刻は、クレヨンしんちゃん的な子どもには大受け。街中にもカフカの像があるし、郊外にはお墓もある。
「プラハの春」「ビロード革命」を引き起こした社会主義国の日常を垣間見せてくれるのがコミュニズム美術館。ポスターが意味深だ。別に信奉者ではないのだが、赤いTシャツをつい買ってしまった。
ハンガリーのブタペストでは、温泉につかってきた。
王宮の丘やドナウ川のくさり橋など、美しい建造物のライトアップもオススメだが、ここには「恐怖の館」という名前の博物館がある。お化け屋敷と間違えそうだが、第2次大戦中、ナチ・ドイツの影響を受けたハンガリー政党「矢十字党」本部、社会主義時代には国家保安局の秘密警察が使っていた建物だ。展示方法がモダンで、室内も美しくアートな雰囲気だが、地下は実際に政治犯を拷問した部屋や牢獄がそのまま。体が凍りつきそうになり、「恐怖の館」というネーミングに納得する。東欧に限らない、古今東西南北、人類の歴史とは、拷問や虐殺の連続だったのか、と思えてくる。
最後に、吉川さんも紹介してくれたドレスデン、私も2016年に訪れた。かなり復興されたその時でも、街が黒っぽく、すすけた印象だった。
ドレスデンは、1899年にケストナーが生まれ18歳の兵役まで過ごした土地でもある。エーリヒ・ケストナー博物館は、心地よい建物で、展示物が可愛いい本棚や引き出しの中に入ってる。各国語に訳されたケストナーの本も並んでいる(その時は残念ながら古典新訳文庫はなかった)。
ケストナーよりさらに時代を遡る200年前、ホフマンの幻想的な小説「黄金の壺」の冒頭に「ひとりの若い男がドレスデン市の黒門(シュバルツェス・トア)を走りぬけ」とある。このドレスデンという土地を、大島かおりさんの訳稿を読んでいた時の私は、まだ訪れていなかった。大学生アンゼルムスの舞台はここだったんだ!
本を読みながらその土地を想像し、旅した場所で作品を思う。パスポートは切れてしまったが、また海外に行きたくなった。(大橋由香子)
大橋由香子(おおはし ゆかこ) プロフィール
フリーライター・編集者。月刊「翻訳の世界」(バベル・プレス)やムック「翻訳事典」(アルク)等で翻訳者へのインタビュー取材を手がけてきた。光文社古典新訳文庫の創設時スタッフでもある。著書『同時通訳者 鳥飼玖美子』『生命科学者 中村桂子』(理論社)『満心愛の人 益富鶯子と古謝トヨ子:フィリピン引き揚げ孤児と育ての親』(インパクト出版会)『異文化から学ぶ文章表現塾』(新水社、共著)ほか。